むろ
しんとしたその空間に、自分の息を飲む音が響く。
メグリガミの言葉を完全には理解できなかった私は、「龍の、玉?」とおうむ返しで一人呟いた。
両脇に座る二人も、わずかに気配を固くして、じっとメグリガミを見ている。私は左隣の清彦に視線を向けたけれど、清彦はちらりとこちらを見ただけで何も言わなかった。香島先生は腕を組んで何か考え込んでいる。
「あの……」と、仕方なく私は言葉を続けた。
メグリガミは閉じた扇を口元に当てて、私の言葉の先を促す。
「龍……なんですか? 白妙は……」
自分で言葉にして、初めて実感が湧いてきた。
白妙が、龍だという。あの、言い伝えやファンタジーでしか見たことのない架空の生き物。もうすでに私の周りでは普通じゃないことが起こり続けていたから、“驚く”という感情は前よりも鈍くなっていたけれど。
それでも、そう聞き返してしまう。
「正しくは“龍”の依代であり、魂の玉であるな。白妙という魂は、はるか一千年前に三つに裂かれた小龍のものであろう」
それを耳にして、「まさか!」と鋭く声を上げたのは香島先生だった。
「まさか、大龍の逆鱗に触れた小龍の魂が白妙ということですか……。あぁ、そうか。ようやくそれで納得がいく。だから咲穂ちゃんに反応したんだ」
香島先生は組んでいた腕を解いて、一人でふむふむと頷いている。それを聞いて閉じていた目を開いた清彦と目が合ったけれど、つと視線を逸らされてしまった。もう、さっきから一体なんなんだろう。
置いていかれた気持ちで悲しくなる。他の皆は分かっているのに自分だけが分からない、理解できないっていうのは辛いものだ。
「先生、どういうことなんですか?」
強めの口調で問いかけてみる。すると香島先生は癖のある髪を撫で付けて「うーん」と唸った。
「これは、僕が勝手に話していいものではないと思うんだ。咲穂ちゃんと寛ちゃんの問題でもあるからね。帰ったら寛ちゃんに言って一緒に話すから、少し待ってて欲しい」
いつもの仕草で、ずり落ちた眼鏡をくいっと上げた香島先生の表情はどこまでも落ち着いている。私はそんな香島先生の様子に、逆に不安を覚えた。
(父さんと私の問題……?)
私の不安を敏感に感じ取った清彦が、そっぽを向いたまま「あんま考え過ぎんな」と言ってくる。優しいんだか適当なんだか、よく分からない。いつも以上に無愛想な理由はどこにあるんだろうか。
ともかく、今は私と父のことは置いておこう。今聞くべきことは白妙のことだ。
「あの……メグリガミ様。白妙は何も覚えていないみたいなんです。自分が龍とか玉とか、そういうことも全然知らないみたいで。……白妙が元の記憶を戻すためにはどうしたらいいでしょうか?」
メグリガミは私を見据え、朗々と響く声で答える。
「記憶がない……それはそうであろう。今の白妙は無であり無垢。今の状態は仮初。あれが元に戻るためには、大龍の赦しもまた必要なのだ。だがその大龍は今この地にはおらぬ」
「大龍というのは、白妙の親か何かですか?」
「“親”というならば、それも間違いではなかろう。いや、厳密には違うのかもしれぬ。大龍は小龍であり、小龍は大龍なのだ」
疑問が一つ解決すると、また一つ疑問が生まれる。私の頭の中で、大龍と小龍のイメージが全然つかないでいた。要するに、小龍である白妙は大龍の一部ということ、なのだろうか。
全てを見透かしたようなメグリガミの前では、ただの何も持たない人間だということを思い知る。私は膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めた。私ができることなんてお菓子を作ることくらいしかない。そんな私が、白妙のために一体何ができるというんだろう。
でも今、私は白妙のために何かしたい、と強く思った。
「白妙が……小龍が三つに裂かれたというのは、どういうことなんですか? それと今の白妙が全てを忘れていることは繋がりのあることなんでしょうか?」
「そなたの言うとおり。小龍は一千年以上前、大龍の逆鱗に触れたのだ。……長い話になるがな」
「教えてください。お願いします」
私が今できることは数少ない。でも、その数少ないひとつが“白妙を知る”ということなんだと思う。私の真剣な表情を見て、メグリガミは深く頷いた。
「それは、日照りが続く夏の日のことだった……」
***
その年の旱魃は、とても厳しかった。
印波沼周辺の村人は、続く日照りの日々に農作物の収穫もできず、飢えに苦しんでいた。
その頃とある病の治癒のため、この地に庵を結んでいた帝の末姫は、世話になっていた村人を救おうと大龍に雨乞いをするが、大龍は「それもまた運命である」と、願いを聞き届けてはくれなかった。
苦しむ人々を目にして、姫は沼へ向かう。
「この沼の水が、天から降り注げばどれだけ良いでしょう」
その言葉を聞いていたのは、沼に棲まう小龍だった。
小龍は姫の、そして村人たちの願いを叶えるために、大龍に許しも得ずに天へと登り、恵みの雨を降らせた。
その雨は大地を潤し、村人や周辺の生あるものたちを救ったのだった。
しかし大龍は、天から戻った小龍に怒りをあらわにする。その時大龍の逆鱗が光り、雷が小龍の身体を三つに引き裂いた。
地上からその様子を見ていた村人たちは、裂かれた小龍の身体が落ちていくのを見て、深く嘆き悲しんだという。その時落ちた頭・腹・尾は、村人たちが見つけ出し、ねんごろに葬り、その場所に寺を建立して冥福を祈った。
頭は「龍覚寺」に、腹は「龍福寺」に、そして尾は「龍寿寺」に今も眠る。
***
「……これがはるか昔の出来事だ」
話し終えたメグリガミは、私たちをゆっくりと見渡した。
「その場を見てきたわけではないがな。私が知りうることは、その寺に人々と佐保姫の想いもまた眠っているということだ。小龍として白妙が真に目覚めるきっかけも、そこにあるやもしれぬ」
私と清彦がともに育った町にはそんな悲しい伝説があり、その伝説が今に繋がっている。私たちの母校は「竜覚寺台小学校」だったし、龍覚寺には子供の頃境内で遊んだ思い出があった。白妙を知るきっかけが、こんな身近にあったなんて。そのことに私は驚きを隠せなかった。
しかし、龍覚寺以外の「龍福寺」と「龍寿寺」のことはあまり知らない。龍福寺については、クサビラと木の子の住処だというけれど。どこにあるのか、色々と調べてみないと。メグリガミに向かって私は深く頭を下げた。
「メグリガミ様、ありがとうございました。私、その三つのお寺を巡ってみます」
今はとにかく、一歩ずつでも前に進んでいきたい。そうしなくてはいけないという強い想いが自分の中から湧き上がってきていた。それがなぜなのか、分からなかったけれど。
「まずは白妙を連れて行くことだ。そこで何が起こるのかは、私のあずかり知らぬことであるが。だが、“何か”が起こることは間違いなかろう」
メグリガミは脇息にもたれかかり、「少し話しすぎたわ」と息を吐き出した。長く話をして疲れてしまったらしい。
「そろそろお暇します。メグリガミ様、心から感謝いたします。また何かあったらご相談に来てもいいですか?」
恐る恐るそう言うと、メグリガミは扇をぱちん、とたたんで黒髪を揺らした。
「よかろう。来る時は転ばぬようにな。導きの鈴を渡しておく」
メグリガミはそう言った後、右腕をゆっくり上げ手を開く。するとふわっと光が出てきて、私の膝の前に小さな黄金色の鈴がチリンと転がった。
「入り口でそれを強く三回鳴らすのだ。それで開かぬ時は投げ入れよ」
私は鈴を拾ってから、「はい」と返事をする。メグリガミは満足そうに頷いた。
「柏餅の礼に、土産を用意しよう。……さて、私は少し休むぞ」
音も立てずに立ち上がったメグリガミが両腕を動かすと、濃紺の着物の袖が華麗に舞う。すると再びぐらりと視界が歪んだ。瞬きを繰り返していると、私たちはいつの間にか、木の子が鈴を投げ入れた竹林の入り口に立っていた。
両脇には清彦と香島先生が立っている。「どういう仕組みなのかな……」と疑問を口にしても、二人は特に気にした様子もなく辺りを伺っていた。二人の落ち着き払った感じがなんとなく寂しい。
「完全に現世に戻ったね」
「そうみたいだな」
二人が何かを確かめるように辺りの気配を伺っているのを横目で見ていた私は、足元にこつん、と何かが当たるのを感じて目線を落とす。そこには大きな風呂敷がどんと置かれていた。
「お土産?」
メグリガミが言っていた「柏餅の礼」らしい。しゃがみこんで結び目を解いて中身を見ると、そこには大ぶりの筍が三本と、柔らかな産毛に覆われたタラの芽が大量に入っていた。私は思わず「わぁ!」と歓声をあげてしまう。
「なんだ、なんだ?」
清彦が声につられて上から覗き込んできた。続いて香島先生も顔をひょこっと出してくる。
「立派な筍だねえ。土産を渡すなんて、咲穂ちゃんの柏餅、よっぽど気に入ったんだね」
「カミサマの胃袋を掴んだってことか?」
茶化すようにそう言われ、私は小さく笑みを浮かべた。けれど次の瞬間がくっと力が抜けてその場にへたり込んでしまう。
「お、おい!」
「咲穂ちゃん!」
やたらと慌てた二人が近寄ってきて、私は両脇から二人に支えられた。
「あ、ありがとう……」
今になって緊張がぷつりと途切れたみたい。二人を安心させるように笑いたかったけれど、うまく笑顔が作れなかった。どっと疲れが押し寄せて、私はそんな自分に苦笑する。
「全く、気丈な性格は変わりませんね」
「本当だぜ」
まただ。
二人は、私の中に何か別の誰かを見ている気がする。それがメグリガミの言う「佐保姫」なんだろうか。けれど今はもう、考えたくなかったし考えられない。
「僕が鹿になって背中に乗せてあげましょう。滅多にしないんですよ。スペシャルサービス!」
そう言った途端、ふわっと陽だまりの中のようなあたたかい風が巻き起こり、香島先生は再び神々しい白っぽい鹿の姿になった。それを見ていた清彦は、タイミングを見計らって私の腕を引っ張り立たせると、なんの躊躇もなく私を横抱きに抱え上げた。
「えぇっ!?」
思いのほか力強い清彦の腕の中で素っ頓狂な声を上げ、どきりと胸が鳴る暇もなく私は先生の背中に横乗りになる。不安定な鹿の背中から落ちないように、私は考えるより先に滑らかな毛並みの首筋に腕を回した。
「帰りましょう」
香島先生が私を気遣いつつ歩き始め、その脇にお土産を抱えた清彦が並んだ。清彦は先生の背中の私を見上げ、「ちゃんと話すから」とぼそっと呟き視線を外した。




