きり
確かに何かが破れる音がした。
自分の息遣いさえ曖昧な空間に響く、異質な音。その音とともに、薄暗いその世界に一筋の光が差し込む。本当に微かな光だった。
光に向かって私は駆け出そうとした。けれど瞬間的に足が固まって動けなくなる。
――逃がさぬ……。
背後から恐ろしい気配とくぐもった声が突然響いた。金縛りにあったように動けなくなった私は、背後から迫る濃い闇に怯えて身を竦ませる。
――常闇に来た獲物は、逃がさぬ。
禍々しい気配だ。感覚が鈍っていても分かる。
私は何とか身をよじり背後に顔を向け、そして絶望した。
闇を集めたように蠢く固まりが、大きな手のひらを形作った影となって私を取り込もうとしていた。恐ろしさのあまり、そのまま体は凍りつく。
(……ああ、もう駄目……)
諦めたくなんてなかったけれど、体が動かない。私は重々しく息を吐き出してその場にへたり込んだ。
しかし、その時だった。
――ガリッ
闇に包まれた空間を、どこからか爪で引っかくような音が響いた。
直感的に、それが先ほど何かが破れた音と同じだと気づく。もう、一縷の望みにかけるしかない。そう思い、私は出来る限りの声を張り上げた。
「助けて!!!」
その声に呼応するかのように、バリン! と大きな音が辺りに鳴り響き、光が溢れこんできた。
――境界が破けた……だと?
幾重にも重なった不可思議な声が、脳内に響いてくる。境界ってなんだろう。そう考えていると、体の脇を一陣の風が吹き抜けていった。その風からは何故か懐かしい香りがした。
視線の先にはあたたかな光がある。暗闇を斜めに走る亀裂から、黄金色の輝きをまとった一頭の鹿が、優美に姿を現した。
(鹿……、なんて綺麗な……)
立派な角はプラチナ色に輝き、毛の一本一本が光っている。しなやかな四肢で大地を踏みしめる凛としたその姿は、あまりにも神々しい。
「こっちだよ、咲穂ちゃん」
その声は馴染みのあるもので、私は息を飲む。
「……せ、センセ?」
問いかければ、美しい鼻先が肯定するように動いた。
香島先生なの……? あの言葉は本当だったんだ。
そして、さらにもう一頭勢いよく闇に討ち入る獣があった。はじめは大型の犬だと思ったけれど違う。
狼? いや、狼でもない。
あれは狐だ。長く揺れる尾の先が青白く光っていて、犬や狼より鋭利な顔つきが、よく物語の中で見るような妖狐にとても似ている。九尾の狐は清彦の好きな漫画に出ていたけれど、それにも似ている気がした。
「早く戻れ!」
牙を剥いて私を叱咤する声には小さな頃から知っている響きがあって、私は目を見開く。
(嘘でしょう……。まさか……)
私はもう、何を信じたら良いのか分からなくなってしまっていた。でも、全身で感じる張り詰めた気配が、今このチャンスを逃したらいけないということをはっきりと伝えていた。
私は立ち上がり、二頭の間に向かって全力で駆け出す。
――行かせんぞ。
忍び寄る巨大な昏い気配に鳥肌が立つ。前から、「振り返るな!」と鋭い声がかかり、私は無我夢中で走り抜けた。
二頭が、私の背後の闇に向かって威嚇の咆哮をあげる。闇が怯んだ隙に、私は二頭を横切り“境界”を超えた。
すれ違いざまに二頭の瞳を交互に見る。濃い睫毛に囲まれた金の瞳と、深淵な緑色の瞳。四つの宝石が、私を確かに見つめていた。
その瞳が語るのは、言葉よりも深い。私は頭のあたりを両手で守りながら、光の中へ飛び込んだ。
ざぁっ、と笹が起こすさざ波のような音としっとりとした草の香り、そして涼やかな風に包まれて、私は大きく深呼吸する。あぁ、光と風のある世界だ。
(戻って、きたの……?)
暗闇から抜け出して、私は明るい日差しに呆然と立ち竦む。辺りを見渡すと、さっきまで歩いていた場所よりも竹がまばらで、前方には小さな祠が見えた。
――シャラン……
またあの音だ。導きの音。
光ある世界なのに、人の気配が全くない。木の子も清彦の姿もなく、心細かった。ただそよぐ風の音をはじめとする五感が、私を勇気付けた。
私はゆっくりと前へ進む。考えることが多過ぎて混乱していたけれど、とりあえずあの祠に行かなければいけない気がしたから。
その祠の周りは、綺麗な円形の空き地になっていた。その中央に自然の岩の土台があり、その上に古ぼけた小さな屋根と格子状の扉のある小さな祠がある。額に何か書かれていたけれど、なんて書いてあるのかは読めなかった。
「常闇から戻ったか。随分と大仰な彼奴らに守られたそなたは……佐保姫の魂の欠片を持つ者であるな」
どこからか、凛然とした中性的な声が聞こえてくる。話される内容が全く頭に入ってこないまま、私はキョロキョロと周囲を見回した。
すると、祠の陰から濃紺の着物を隙なく着こなした背の高い青年が現れる。いつの間に……、と思っているうちに、その透明感のある青年は私の目の前まで距離を詰めて来た。
肩に付くくらいに切り揃えられた艶やかで真っ直ぐな黒髪がさらりと揺れ、まるでお内裏様のようだ。平安時代の貴族を彷彿とさせる品の良さは、白妙の持つ雰囲気にも通じるような気がする。
切れ長の黒い瞳が私を観察するように鋭く光った。
「時が、動く日が来ようとは。この地にようやく幾久しい安寧が約束されるのか……」
氷のように冷たくて厳かな声音が続く。
「そしてそれは、そなた次第ということ」
何を言っているんだろう。疑問は心の中に置いておき、私は乾いた唇のまま口を開く。
「あなたは、メグリガミ様ですか?」
自信なさげにそう言えば、青年は口の端を上げる。
「いつからか、そう呼ばれるようになった」
そうだ。メグリガミへのお供え物の柏餅があったのに。私のリュックはどこにいってしまったんだろう。私は異質なその存在の前で怯む気持ちをなんとか抑えながら、おずおずと顔を上げてメグリガミの表情を伺う。その表情には何の色も浮かんではいなかった。
(どうしよう……間がもたない……)
冷や汗が出るのを感じながら、私とメグリガミは向き合ったまま無言になる。
その静寂を破ったのは、背後からかかった暢気な声だった。
「咲穂ちゃん、無事でなによりだったよー」
振り返ると、いつもの白衣姿の香島先生と私のリュックを肩にかけた清彦の姿が近づいてくるところだった。
「先生! 清彦!」
「まさか導きの最中に転んじゃうなんて……。咲穂ちゃんらしいけど、気をつけなきゃだめだよ。カミのいる場所には常闇への境界があるんだから。ね、清彦君」
先生は穏やかに笑い、清彦を見やる。その視線を気まずそうに受け止め、清彦は小さくため息をこぼした。二人だけが共有する何かがあるように感じて、私は首を傾げる。
香島先生はともかく、問題は清彦だ。どう考えてもあの妖狐は清彦だった……と思う。清彦は私の視線に気がつくと顔を背け、ずいっとリュックを差し出してくる。
「あ、ありがとう」
お礼を言いながら受け取るけれど、清彦はあらぬ方を向いて頷くばかり。後で話し合わなければならないことが山積みだ。何から説明してもらおうかな。
とりあえず、私はリュックの中から風呂敷につつんだ重箱を取り出す。それを持ってメグリガミに改めて向き直った。
「これは、お供物です。どうぞお受け取りください」
風呂敷を解いて重箱の蓋を開ける。すると奇跡的に型崩れひとつなく整然と並ぶ柏餅が出てきて、メグリガミの表情がみるみると生気を帯びていった。
「おおお! これは! なんと美味そうな柏餅!」
先ほどまでの厳かな雰囲気はどこへいったの、というくらいテンションの上がったメグリガミが、素手で無遠慮に緑の葉の柏餅と茶色の葉の柏餅を両手で掴む。そしていきなりかぶりついた。
「んん! なんて滑らかなこしあんよ。そしてこちらは味噌餡! 味噌餡は久方ぶりだ! 柏の葉の新鮮な香りも素晴らしい!」
一気に二つ食べ終え、さらにどんどん口に放り込んでいく。
(す、すごい食べっぷり)
清廉としたイメージが一気に壊れ、甘党で大食漢のカミサマというイメージに塗り替えられていく。私は堪え切れなくて小さく吹き出した。
「お気に召しましたか?」
「もちろんだ、これはそなたが作ったのか?」
口元についたあんこをぺろりと舌で舐め取るしぐさが妙に人間臭くて、私はなぜだか嬉しくなる。
「そうです」
小さく頷くと、私から重箱を奪い取り抱え込んで食べていたメグリガミがふっと笑った。
「柏餅作りの名人であるな、そなたは」
「いえ……それほどでも……」
その笑顔の美しさに目を奪われつつ、私は何とか言葉をひねり出した。
「……あの、教えて頂きたいことがあるんです」
あっという間に重箱いっぱいの柏餅を全て平らげたメグリガミは、どこからか竹筒を取り出して喉を潤すと、改めて私たちを見渡してひとつ頷いた。
「良いだろう。ここでは落ち着いて話もできぬから、堂内へ案内するとしよう」
そう宣言したメグリガミが私たちに向かって手を振りかざす。すると、空間がふと歪み景色が突然変化した。
異常事態に慣れ始めている自分が信じられない。でも、こうも立て続けだと肝が据わってくるというか。案外自分の許容範囲の広さに驚くばかりだ。
気がつくと、私たちは広い板間の空間にいた。御簾などがあり、木の柱が何本も見える。平安時代の寝殿造りのような場所だった。
「そこにある畳に座するが良い」
メグリガミは一段高い場所に座を構え、私たちを正面に並ぶ畳に導く。香島先生が慣れた様子で座ったので、私もそれに習って正座した。一呼吸遅れて、清彦も腰を下ろす。
私たちが落ち着いたところを見計らって、メグリガミは懐から扇を取り出し口元に当てた。
「私は、この地に永きに渡り住み続ける者。この地に生を受けた全ての時の巡りを見守り続ける者である。ここに辿り着き、供物を受け取ったからには、そなたが知りたいことについて知りうる限りを答えよう」
メグリガミがどれだけ高位の存在なのかは分からない。ただ、両脇に座る先生と清彦の緊張した面持ちを見ると、言葉や態度には気をつけなければならないのだろうと思い、私は慎重に頭の中を整理した。
なぜ転んだら闇の世界に引きずり込まれてしまったのか、私のことをなぜ佐保姫と呼んだのか。別に聞きたいこともたくさんあったけれど、私はまず、一番に聞くべきことを口にした。
「私は先日、白妙という白くて綺麗な子供を雨の日に拾いました。父をはじめ香島先生やクサビラ、木の子たちは“尋常ならざるもの”と言うんですが、その子には記憶が全くないんです。メグリガミ様ならば何か分かるかと思いまして……」
「白妙、とな。ふむ……成る程」
メグリガミは目を伏せるとしばらく何か考え込むように眉間に皺を寄せる。少ししてから優雅な仕草で扇をパチンと閉じ、目を開けた。
「白妙は、龍の玉であるな」
私は、まさかの答えに二の句が継げなくなってしまった。




