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あめ

甘い香り漂う製菓店で、菓子職人を目指す咲穂が妖たちと織りなす美味しくて優しい物語。

 小豆を、やさしく、やさしく洗う。


 沈丁花(じんちょうげ)の爽やかな香りが漂い、春の気配を感じる時期になっても、深井戸の水は手を凍りつかせるような冷たさだ。

 大鍋いっぱいの小豆は赤くツヤツヤしていて、まだまだ固い。咲くのを今か今かと待ちわびている梅のつぼみのように、冷たい水の中で耐え忍んでいるように見える。


 水をたくさん吸って、程よくふくらんだところで、火にかける。ふわり小豆の甘さが鼻腔に広がり、思わず頬が緩む。一度沸騰させて火を止め、少し蒸らしておくために蓋をしたところで、調理場の奥からしゃがれた声がかかった。


「渋切りしてもう一度火にかけたら、こっち手伝ってくれ」

「ちょうどいい火加減になるまで少し待ってね」


 あまり広くはない調理場の一番大きな台の上で、父寛太が豆板という砂糖菓子を作っていた。ザラメの砂糖を煮詰めたものに、煎り大豆を入れ輪の型に流し込んだ京都発祥の甘いお菓子。私の大好物でもある。


 熊のように大柄な体格とごつい手、厳つい顔をした父はよくプロレスラーと間違われたけれど、その見た目に反して美しい和菓子を作り出す魔法の手をもっている。


 蒸らし終えた煮汁をざあっと捨て、再び冷たく澄んだ水でひたひたにする。私は小豆が仲良く身を寄せ合う大きな鍋の中を眺めた。温まっていく湯の中で、豆と豆が小さく震え始める。


 小豆を煮るときは、豆が踊ったら駄目だと父から厳しく言われていた。だから、ふつふつと鍋底から小さな空気の泡が細かく上がりはじめたところで火加減を一番弱くする。ここから一時間コトコトと煮込むのだ。


 火にかけた鍋を気にしつつも、父のいる作業台に向かう。私は台の上に並んだ木の型のうちひとつを手に取ると、固まった豆板を小気味よい音を立てて外していく。型一枚で九枚分の豆板ができる。静かな厨房に響く音が、私と父の会話みたいなものだ。二人で行う作業中、言葉はあまり必要ない。


 絲原製菓店は、父で三代目になる。千葉の片田舎の小さな町で、長年贈答用の最中や餡子を使ったお菓子を販売してきた。本当に小さな小さな製菓店だ。


咲穂(さほ)! 砂糖が切れた! 裏から持ってきてくれ」

「はぁい! 小豆、見ておいてね」

「おぅ。風が強くなってきたみたいだから、足元気をつけてな」


 父の野太い声に背中を押され、私は裏口から外へと飛び出した。テレビの予報で春の嵐が来ると言っていたけれど、父の言うとおり本当に風が強くなってきていた。店舗兼工場(こうば)の裏側には坪庭があって、薄暗い早朝の気配の中、水仙と蝋梅が左右に激しく揺れているのを横目に急ぎ足になる。


「――あっ!」


 突然起こった生温かい強風が、頭に巻いていた桃色のバンダナをさらっていった。咄嗟に頭を押さえるけれどワンテンポ遅く、ポニーテールの毛先が舞い躍る。


 次の瞬間、建物と建物の間を先ほどよりさらに激しい風が吹き抜けていった。灰色の空の中にバンダナが溶け込んでいくのを呆然と見送っていると、いきなり稲光が走ったので私は思わず耳を塞ぎ目を閉じる。


 続く雷鳴は聞こえなかったので、ほっと胸を撫で下ろして目を開けた。急いで砂糖をとって工場にもどらなければと一歩足を踏み出した時、なにやら空から霞のような薄い布が垂れるのが見えた。


(な、なに……?)


 唐突に、頭の中でこんな一節が思い浮かぶ。



――佐保姫の 糸そめかくる 青柳を

 ふきなみだりそ 春の山かぜ



 なぜそんな古い歌が今思い浮かんだのか、自分でも分からなかったけれど。

 ぽつぽつと降り出した大粒の雨と共に、コロン、と大きな白い玉が落ちてきて足元に転がる様子は、まるでスローモーションを見ているかのようだった。


 その玉はコロコロ、と転がって、私のつま先にコツ、と当たった。あまりにも現実離れした出来事に、私は身体を硬直させて息を詰める。玉はボウリングの玉くらいの大きさで、乳白色だった。降り出した雨を弾きながら、つやつやと艶めきほのかに輝いているようにも見える。


(どういう、こと……?)


 温かな雨は次第に強くなり、私は頭からずぶ濡れになっていく。風が強まっているのに、その玉は私の足元からぴくりとも動く気配は無かった。だんだんと恐れが増していき、一歩ずつ後ずさる。蔵には向かわず、父の待つ工場へと引き返そうとした、その時。


 カッと白い玉が強く発光した。


「ひえっ」


 先ほどから想像を超えたことが起きていて、私は頭が追いつかないでいた。早く逃げなきゃ、と思うのに身体が全く動かない。眩しすぎる光を遮るため腕で顔を覆っていると、少しずつ光の奔流が収まっていくのを感じた。ぬるい風が隣の家に咲く沈丁花の香りを運んできて、ほんの一瞬だけ心が穏やかになる。私は恐る恐る瞳を開けて、顔を覆っていた腕を外した。


 光の元を辿り視線を下げていく、と。


「……こ、ども……?」


 そう。私の足元には五、六歳くらいの小さな子供が、身体を丸めて横たわっていた。真っ白な着物を着て、月の光のような色素の無い髪を肩の辺りで切り揃えている。陶磁器のような透き通る白い肌。ほんのりと色づく桜色の頬以外は、全てが白っぽく、とても美しい子供だった。


 一体、自分の目の前で何が起こっているのだろう。私は濡れて身体に張り付く服と、水を含んだ割烹着の重たさを感じながら、ただただ立ち尽くすことしかできなかった。


「おい、咲穂! こんな雨の中何してる……って……あぁ!?」


 戻らない私を心配した父が、裏口をバンっと開け放った音と怒鳴るような声に私は肩をびくりと揺らす。父はすぐ異常事態に気がついたらしく、雨の中傘も差さずにずんずんと大股でこちらにやってきた。そうして私の隣に並んだ父もまた、膝を抱えるようにして横たわった子供を見下ろして絶句する。


「な、なんでこんなところに子供がいるんだ?」


 父の声は、まるで雷の轟きのように低く地を揺らすようだった。その子供の様子を伺いながらも、父の行動はとても早い。水溜りになりつつある地面で、濡れそぼり動かない子供を丁寧に抱き上げ、再び大股でずんずんと工場へ戻っていく。


 そんな父をぼうっと目で追っていると、「何してる! 風呂沸かせ!」という大きな雷が私の上に落ちてきた。私は慌てて父の後を追い工場へと急ぐ。


「この雨じゃあ、香島先生を呼んでも来るのは遅くなっちまいそうだ。んー、とりあえず熱はなし、脈は正常、呼吸の乱れなし、顔色よし。おい咲穂、お前一緒に風呂に行って、この子を着替えさせてやれ」

「え……っ。えっ? 私が?」

「お前もずぶ濡れだろ。ついでだ。ついで」

「……う、うん。でも子供をお風呂に入れたことなんてないし……」

「小さい赤ん坊じゃないんだから、そんなびくびくせんでも大丈夫だろ。あったかい湯で身体を拭いてやればいい。ほら早く沸かして来い」


 確かに全身濡れ鼠の状態で気持ちが悪く、今すぐにでもシャワーが浴びたかった。仕方ないか、と諦めの気持ちで、私は水をたっぷり含んだ割烹着を脱ぎ、流しに置くと工場のさらに奥にある住居スペースへと向かう。その途中で、はたと忘れていたことを思い出した。


「……あ、小豆……!」


 そう気がついた時には、時すでに遅し。

 焦げ臭い匂いとともに、父が大騒ぎする声が聞こえて、私は「ごめんなさい!」と心の中で手を合わせる。



 私と白妙(しろたえ)との出会いは、春の嵐が吹きすさぶ薄墨色の朝のことだった。



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