第8話 演じることで、やっと繋がれた
本番当日、祐介は早めに稽古場に着いた。
普段は練習に使っているこの空間が、今日は“劇場”としての顔をしていた。
パイプ椅子が並べられ、手作りの照明が天井から吊られ、段ボールで作られた小道具が不恰好に並んでいる。
「おはよう」
団長が声をかけてくる。
「緊張してるか?」
祐介は少しだけ笑った。
「……そうですね。でも、いい緊張です」
「うん、それでいい」
開場は18時。
客席は全部で20席。
それでも、すべてを埋めるのは難しいかもしれないと聞いていた。
それでも、祐介は不思議と落ち着いていた。
この場所に立つ理由が、はっきりしていたからだ。
今回の役は、小さなカフェを営む店主。
出番はそれほど多くない。
けれど、その一場面だけは、自分のすべてを注ぎたかった。
観客が入り始めた。
初老の夫婦、学生らしき若者、小さな子どもを連れた親子。
ざわざわとした空気の中に、生活の匂いが混じっていた。
客席の数が少ないぶん、一人ひとりの顔がよく見える。
それが、妙に愛おしく感じられた。
やがて、開演のベルが鳴る。
祐介は袖で息を整える。
舞台に立つ瞬間が近づく。
照明が落ち、静寂が訪れる。
その“間”が、祐介の中の何かを研ぎ澄ませていった。
――ここにいる。
誰かの目の前に、自分がいる。
その事実だけで、胸がいっぱいになった。
出番。
祐介は舞台に立った。
台詞を言う。
動く。
笑う。
そして、泣く。
不思議だった。
自分の感情ではないはずのものが、確かに心の底から湧き上がってくる。
“演じる”というより、“その人としてそこにいる”感覚。
何年も忘れていた、その感覚が戻ってきていた。
台詞が終わる。
場面が転換する。
祐介は静かに袖へ下がった。
そのとき、客席から――
「……ありがとう」
誰かの小さな声が聞こえた。
拍手に混じっていたが、確かに聞こえた。
それは、劇的な瞬間ではなかった。
涙を流している人がいたわけでもない。
けれどその声は、祐介の胸に、何よりも強く届いた。
祐介は、自分が今まで何を求めていたのかを、ようやく理解した気がした。
評価でも、賞賛でもない。
“届く”ということ。
たった一人でいい。
誰かの心に、自分の声が届くということ。
それこそが、芝居をする意味だったのかもしれない。
終演後、団長が肩を叩いて言った。
「いい芝居だったな」
祐介はうなずいた。
言葉にならなかった。
ただ、心の中にあった空白が、少しだけ満たされているのを感じていた。
拍手はまだ耳の奥に残っていた。
数人分の音だったけれど、それは確かに、祐介のための音だった。