小倉百人一首のダイイングメッセージ
武田信子警部補は黙祷を終えると静かに目を開けた。
彼女の目の前にはうつ伏せに倒れた男がいた。男は既に絶命していた。
「マルガイは鬱乘宮実葛さん。
62歳。男性。
死因は……まあ、本当のところは検死の結果を待たないといけませんが恐らくは腹部を刺されたことによる失血死と思われます」
信子の横に立つ山本刑事が淡々と状況を説明していた。
頬に剃り残しの髭がちらほら目立つ小男。名を山本勘太。伸子より先に現着して既に色々と調べているようであった。
「肝臓を刺されたのがいけませんね。致命傷だ。
刺されたナイフを自分で引き抜いたのもいけませんでしたね。
逆に出血が増えて死期を早めることにしかならなかった。ナイフ引き抜いてものの数秒で意識不明であちらへ逝かれたことでしょうよ。
もっとも、不謹慎かもしれませんがそちらのほうが苦痛も少なかったと思いますけどね」
「ふーん、じゃああれが凶器なの?」
尖らせた唇で信子は実葛氏の左手を指し示した。その手には血まみれのナイフが握られていた。
「ま、これも鑑識の鑑定待ちですがたぶんそうでしょうね。ちなみにあのナイフはこの屋敷の物です」
「えっ? そうなの」
「はい。実葛氏は武具やら防具のコレクションしていましてね。このお屋敷には日本刀とかナイフとか物騒なものがごまんとあるんですよ。
それで、調べてみたらそのコレクションの一つがあれでした」
「そこの管理はどうなっているの?」
「ナンバー入力式の鍵を掛けているらしいですが、暗証番号は屋敷の人間なら誰でも知っているそうです」
「なるほどぉ。逆の言い方をすると屋敷の人間以外は入手が難しいってことね」
「まあ、そうなりますね」
「犯行時刻とか分かる?」
「そうですね。今日の2時ごろですかね」
「朝の2時? の、割にはこの服装って変じゃない?」
信子は実葛氏の服装に改めて目を向けてみた。黒の襦袢に縦縞の入った灰色の袴という出で立ちであった。
「とても寝巻きには見えないのだけれども」
「なんでも近々にカルタの競技会に出る予定で、最近は毎日夜中まで練習していたらしいですよ」
「カルタ? カルタって百人一首?」
「らしいですね」
「道理で百人一首の札が散らばってるわけね」
「刺された時にあの机に置かれていた札が落ちたんだと思います」
山本刑事が近くの机へ視線を向けた。机にも札が何枚か散らばっていた。傍には桐の箱があり、その箱の中にもカルタが入っていた。
「でも、なんで文字が書かれた札ばかりなんでしょうね」
「競技カルタは下の句が書かれた札を取り合いますからね。絵と全部の句が書かれた札は使わないから箱の中に納められているのでしょう」
「下の句だけ? そんなの読み上げられるまでに時間かかっちまうじゃねぇですかい」
「もう! 競技やる人は百人一首なんか暗記してますよ。
一文字読まれただけでバシーンって取りに行かれますって」
「マジですか」
「テレビでやっているの見たことありますけど、最初この人たち何やってんのかしらって思いましたもの。あそこまでいくともうスポーツですね」
「へぇ……そうなんですか」
「実際に一文字で決まるのは7枚しかなくてよく『むすめふさほせ』って言ったりしますね。
後は二文字できまるものとか長いのだと六文字まで読まないと決まらない札もあったりしますね」
「……まあ、カルタの話はそれぐらいにして仕事に戻りましょうや、警部補」
「あら、私、ずっと仕事の話してましたけど」
信子は心外だ、と言わんばかりに頬を少し膨らませた。
「いや、いや、してないでしょ。カルタがどうただこうだってなんて全く関係無いでしょ」
「またぁ、本気で言ってますぅ?」
「それはこっちのセリフですよ。警部補こそ本気ですか?」
「う~ん、たとえばナイフが札の一つに突き刺さっていたり、実葛さんの右手がなにやら文字を書いているように見えても、そう思いますぅ?」
「へ?」
信子の指摘の通り、実葛氏の左手のナイフは散らばっていた札の一枚を貫いて床に突き刺さっていた。
「確かに突き刺してますね。でも、偶然じゃないですか。倒れた拍子に突き刺さっただけじゃないですか」
「かもしれません。でも、右手の文字はどう説明します? ひらがなで、『やす』って書いているように見えません?」
「ああ、あれですかい。確かに最初見た時は自分もダイイングメッセージかと思ったんですけどね、でも容疑者の中に、『やす』なんて単語を連想させる名前の人物がいないんです。
ミミズがのたくったような感じなんで、マルガイがもがいた時に偶然できたんじゃないのかと思うんですけど」
「やすらはで ねなましものを さよふけて
かたぶくまでの つきをみしかな」
「はい? なんですか、それ」
「いえ、なんでもないです。
偶然……、ふーん、そうなんですかねぇ。
その可能性も否定はしませんけど……
まず、容疑者というのを詳しく教えてもらえないです?」
信子の言葉に山本刑事は手帳のメモ書きを見ながら淡々と話を始めた。
「当夜、屋敷にいたのは全部で7人です。
これがその名前とマルガイとの関係性のリストです」
『 鬱乘宮 霖皇丸 34歳 長男
鬱乘宮 凛月 38歳 長女
鬱乘宮 燐嬉 30歳 次女
以下屋敷の使用人
鵜蔓璃 麟太郎 50歳
鵜蔓璃 凛々子 24歳
烏壺崎 律子 51歳
禹壺 柳子 19歳』
「ね、『やす』が当てはまる人物はいないでしょ」
と、山本刑事は言うが信子はじっとメモを見詰めたまま黙り込んでしまった。その雰囲気はただ事ではないと察するに余りなく、山本刑事は固唾を飲んで信子の次の言葉を待った。やがて、信子ははっと顔を上げると「こ、これは!」、と小さく叫んだ。
「えっ? なにかわかったんですかい?」
「画数の多い名前ばかりね!」
「はい?」
どや顔の信子。
一方山本刑事は大いにずっこける。
が、そんなことを微塵に気にせず信子はさらに畳み掛けるように言葉を続けた。
「それに、名字も名前も似たような名前ばかり!!」
「いや、だから、そー言うのは良いんですって。
もっと事件に関係することを話しましょうよ」
「え――、だから関係してる話しかしてませんてばっ」
「あ―、はいはい。
じゃ、話し続けますよ。よっく聞いていてくださいね。他事考えてもらったら困りますからね」
ムッとする信子を無視するように山本刑事は説明を始めた。
「霖皇丸さん、ま、すごい名前っての認めますね。マルガイの長男です。昨夜2時ごろは自室で寝ていたそうで、アリバイを証明する人はいません」
「結婚はされていないの?」
「独身みたいですね。実のところ残りの2人の娘さんも一応独り身です」
「含んだ言い方ですね」
「姉の凛月さんは1度結婚していますがその後離婚して戻ってきたらしいです。
あ、その凛月さんは知り合いと電話をしていたとか言ってました」
「犯行時刻のあいだ? ずっと?
推定時間、2時間ぐらい幅があるでしょ?」
「電話してたみたいですね」
「女子中学生ですか。良くそんなに喋ることがありますね」
「まあ、そのお蔭でアリバイが成立したってことですよ」
「でも、こー言うのってアリバイがある人が犯人だったって良くあるじゃないです。大体肉親とか夫婦の証言はアリバイにならないって言うでしょ。普通真夜中にアリバイがある人のが珍しいわよねぇ」
「テレビの見過ぎですって」
「そうかなぁ。
まあ、いいわ。じゃあ息子さんともう一人の……妹さん? こちらはアリバイはないのですか?」
「です。
2人とも自室で寝ていたと言ってます」
「了解。じゃあ、使用人の4人のほうは?
名字が同じ人が2人いますけど夫婦?」
「歳見てくださいよ。親子ですって」
「一応念のための確認よ。凄い歳の差カップルかもしれないじゃない。男の方が精力絶倫で、若い娘じゃないと気が済まないとかあるでしょ?」
ケラケラと笑いだす信子に山本刑事は醒めた視線を投げ掛ける。
「若い娘貶める冗談飛ばして自分自身が虚しくなりませんか?」
「……な、なんないわよ。てか、この娘さんより私の方が若いから。私、22歳だから。ピチピチなんですから!」
「今時、ピチピチなんて表現する22歳なんているんですか? サバ読んでません?」
「読んでませんし、ここに居ますぅ。
だから、精力絶倫の歳の差夫婦も居るんですぅ」
「だ、か、ら、なんでそっちに話を戻そうとするんですか!
とにかくこの2人は親子ですよ。
それに、父親のほうは車椅子で、とても精力絶倫とは言えませんね。
若い頃に事故をやって脊髄を痛めたらしいです。
以来、ずっと車椅子生活らしいです」
「あらまぁ……
でも、失礼な言い方ですけどそれで良く使用人が勤まりますね」
「そもそも、その事故ってのが実葛さんが原因だったらしいですよ。
だから、まあ、使用人と言う体で面倒を見ているらしいです。一応、執事の待遇で実葛さんのスケジュール管理や屋敷の統括をされているらしいです」
「ふ~ん。娘さんが居るってことはこの人は結婚しているのよね。まさかシンパパ?」
「結婚していますよ。していた、と言うのかな。死別しています。24年前らしいです」
「24年前……へぇ~、24年前ね……」
「どうしたんですか、急に感慨深げに物思いに耽って。なにか思い出があるんですか?」
「そう! 24年前と言えば……
あっ! 私、まだ生まれてないや。てへっ!」
照れたようにペロリと舌をだす信子。
「チッ、若いアピールですか。真剣に聞いて損した」
露骨に舌打ちして見せる山本刑事であったが信子はまるで動じることがないように質問を被せてきた。
「ところで、事故は奥さんがなくなる前に起きたの? それとも後?」
「えっ? えっと……、いや、分かりませんね。
それ大事なことですか?」
「大事、大事」と、信子はこくこくと頷いた。
「本当ですか? ま、いいや。後で調べておきます。それでこの親子ですが、こちらも2人とも自室に居たとこのとです」
「アリバイは無いってことね。残りの2人は?」
「烏壺崎さん、禹壺さんの2人は実は犯行現場の本館ではなくて離れに寝泊まりしているのですが、2人とも犯行時間には自室に引きこもっていたらしいです。
ただ、烏壺崎さんと禹壺さんの部屋は隣り合っているんですが、丁度犯行時間頃、テレビの音がうるさいってことで烏壺崎さんが禹壺の部屋の壁を叩いたら音が小さくなったと言ってます」
「2人の供述は一致しています?」
「してました」
「ふ~ん。じゃあ一応アリバイ成立ってところかしら。
となると、取りあえず容疑者は屋敷にいてアリバイの無い長男さんと次女さん、それから鵜蔓璃親子の4人に絞られるわけかしら」
「いえ、屋敷の捜査が終わってないですから外部からの侵入者の線もあるでしょう」
「ゼロじゃないけど、考えにくいかしら。
凶器のあった部屋に入れたのは屋敷の人間だけだから、もしも外部犯なら外から凶器も持ち込むと思うのよね。
ま、部屋の暗証番号を知っている外部の人間が屋敷の人のせいにするために、ってのもあるからその線も捨てずに調べる必要はあるわ。でも、今は内部犯の線をもう少し考えてみましょう。
それで、実葛さんは殺されるような恨みを買っていたのかしら?」
「どうでしょうか。長男と次女は大きな借金があって早く遺産が欲しかったみたいですがね」
「そうなの? だれ情報?」
「鵜蔓璃さんです。
因みに長女は怨んでいたみたいですね」
「そうなの? それも鵜蔓璃さん情報?」
「ですね。どっちも裏は取りますが、長女は無理やり離婚させられているようですよ」
「無理やり離婚?」
「元々政略結婚な感じで結婚したらしいのですが嫁ぎ先の家業が傾いたってことで離婚させられたらしいです」
「でも、そう言うことなら怨みに思うとは限らないんじゃないの?」
「だから無理やり離婚って言いましたよね。長女、本人は離婚したくなかったらしいですよ。
現に夜中の長電話の相手は元旦那らしいですよ。始まりは打算まみれの政略結婚だったけど意外と夫婦仲は良好だったらしいですね」
「ま、羨ましい! じゃない。だとしたら身内みたいなものじゃないの。それアリバイ証言として成立するの?」
「夫婦は離婚すれば赤の他人てすから成立するでしょ」
「……かなりグレーね。
そうやってみると、みんな微妙に曖昧で怪しいわねぇ。
ふぅ。やっぱ、ダイイングメッセージを解かないとダメかしら……」
信子は頬に手を当てると面倒臭そうにため息をついた。
「ダイイングメッセージって? 本当にさっきの『やす』みたいな字がダイイングメッセージだと思っているんですか?
さっき説明したとおり、『やす』が絡む名前なんて一つもないじゃないですか」
「『やす』とナイフの突き刺さった札ね」
「札? 札って偶然突き刺さったんじゃないんですか」
「っな偶然あるわけ無いじゃないですか。可能性としてはゼロじゃないかもしれないけど、それはもっと可能性として高いダイイングメッセージを検討してからでしょ。
それで、ナイフが突き刺さっていた札はなんの札なんでしょう?」
「えっ、なんの札? いや、分からないですよ」
「なんて書いてあるの?」
信子に言われて山本刑事は這いつくばるようにして札を読み上げる。
「えっとですね……『ものやお』……、血とナイフに隠れて良く読めないな。
えっと……『ひ……ふまて』……なにがなんだかですね」
「了解」
「えっ?! 今ので分かったんですか?」
「分かったわ。ついでにその周辺に散らばっている札もなにか教えて」
「散らばっている残り……?」
信子に言われて床をみると、確かにナイフが突き刺さった札の回りに同じような札が転がっていた。山本刑事は怪訝そうに首を傾げながらも札を次々と読み上げていった。
「えっと、『しのふることの よわりもそする』。
それから、『すゑのまつやま なみこさしとは』
後は……、『くものいつこに つきやとるらむ』
『かけしやそての ぬれもこそすれ』の、全部で4枚ですね。
これになにか意味があるんですか?」
「あると思うわ。
実葛さんが倒れる時には床に全部で5枚の札が目に入っていたはずよ。その中から平兼盛の札をわざわざ選んだのには絶対意味があるはず」
「た、たいらのなに?」
「たいらのかねもり。平安中期の歌人よ。
『しのぶれど いろにでにけり わがこひは ものやおもうと ひとがとふまで』ってのが百人一首の歌よ」
「はぁ……だからなんだってんです? どこに犯人の手がかりがあるんですか?
さっぱりわかんねぇっす」
「何度も言うけど、これにさっきの血文字が絡んでくるのよ」
「血文字ですかい?」
山本刑事は眉間にシワを寄せてしばらく考えるが最後には首を小さく横に振り、両手を小さく上げて見せて。
「駄目だ。お手上げです。さっぱり分からないですよ。警部補はもう目星がついているんですか?」
「う~ん、大体?」
「なんで疑問形なんですか」
「もう少し裏が欲しいのよねぇ。
勘ちゃんはまず鵜蔓璃麟太郎さんがいつ頃事故にあったかを調べて見て。私はその間、少し屋敷の中を見て回るわ」
山本刑事と別れた信子はまず屋敷の台所へ向かった。大きな屋敷のキッチンだけあり広さや設備は普通の家庭のものより一回りも二回りも広く立派だった。
シンクの下の引き戸に納められていた包丁を丹念に調べると次に凶器の出所の部屋へ向かった。部屋には鑑識のスタッフが指紋や遺留物の採取をしていた。ナンバー式の鍵の具合を確認をするとスタッフの一人を捕まえ、凶器のナイフはどこにあったのかを尋ねる。
「あそこの壁に飾られていたみたいです」と若い男は部屋の一角を指差し、言った。
壁には刀や短剣が幾つも壁に飾られていた。壁に打ち付けられたフックに刀などを置くだけのため持っていこうと思えば誰でも簡単に持っていける。1ヵ所、何も飾られていないフックがあり、それが凶器が置かれていた場所だと信子は見当をつけた。
「ずいぶんと高いところにある」
呟くとそのフックへ手を伸ばしてみる。爪先立ちになればなんとか届く高さだった。
「ああ、見つけた。探しましたよ」
背後で山本刑事の声がした。
「あら、勘ちゃん。早かったのね。で、分かった?」
「ええ、事故に遭ったのは26年ほど前だそうです」
「26年前。そう、なのね」
指を顎に当てて物思いにふける信子だったが山本刑事はじれったそうに体を揺すりながら言った。
「それより、ダイイングメッセージの件はどうなったんですか?」
「それね。あくまでわたしの推測でしかないけれど……
ナイフが刺さっていた札が平兼盛だってのはさっき言いましたよね。
そして、血で書かれたいたのが『やす』。
これは、『やすらはで ねなましものを さよふけて かたふくまての つきをみしかな』を意味してると思うのです」
「それ、さっき呟いていたやつですよね。
でも、なんでたった2文字でそれだって分かるんです」
「百人一首で『やす』で始まるのはこの1首しかないからです」
「ふん。仮にそうだとして、だからそれがどう犯人に結び付くんですか?」
「『やすらわで』を詠んだのは赤染衛門。
ナイフで刺されていた札、平兼盛を実葛さんが自分に重ね合わせたとすると赤染衛門は犯人を示していると思われます。
つまり、実葛さんと本人の関係=平兼盛と赤染衛門の関係と考えられるのではないかと思うのです」
「平兼盛と赤染衛門の関係?」
「そう、赤染衛門は平兼盛の娘と言われています」
「娘! ってことは長女か次女ってことですかい?
えっと、長女にはアリバイがあるんでつまり、次女の鬱乘宮燐嬉が犯人!!」
「いえ、違います」
「なんだ、そりゃ?!」
山本刑事はバネに弾かれたように大声で叫んだが、すかさず否定されて盛大にずっこけた。
「な、なんでですか?
今、娘と言ったじゃないですか。それなのに長女でも次女でもないってどういう事ですか?」
「そっちの娘ではないんですよ。もしもそっちの娘なら、ナイフが刺さっていたのは『すゑのまつやま なみこさしとは』だったと思います」
「……? 意味が分かりません」
「う~んと、さっき散らばっていた札の一つに『すゑのまつやま なみこさしとは』ってのが有ったでしょう。あれは清原元輔の歌なんですよ」
「いや、だから意味が分からないですって。ちんぷんかんぷんだ!」
「清原元輔の娘も百人一首に取り上げられていまして、それが――」
「すみません。ちょっと良いですか?」
2人が話しているところに背後から声が掛かった。信子と山本刑事が同時に振り返ると、そこには車椅子の男がいた。鵜蔓璃麟太郎だと信子はすぐに確信した。
「実葛を殺害したのは私です」
「なっ?!……」
麟太郎の唐突とも言える自白に山本刑事は絶句で答え。信子は「あら、まあ……それは大変」、としかし全然大変そうに思えない風に答えた。その信子に頭を寄せると山本刑事は信子の耳元でそっと囁いた。
(ちょっとなにがダイイングメッセージですか、犯人全然違うじゃないですか)
しかし、信子はその声をガン無視し、麟太郎へ向けた視線を外さない。
「鵜蔓璃麟太郎さん、あなたが実葛さんを殺害したと言うのは本当のことでしょうか?」
「はい。私が殺害したで間違いありません」
迷いなく答える麟太郎を見詰めながら信子は少し困ったような表情を見せた。
「殺害の動機はなんでしょう?」
「それは……長年の恨みつらみです」
一瞬麟太郎は言葉を飲み込んだかすぐに答えた。
「恨みつらみ……ですか。
でも、実葛さんは事故にあったあなたのお世話をしてくれていたのでしょう。恩はあっても恨むことなんてあるのですか?」
「あの男に恩?! とんでもない。あいつはいつも私を踏み台にして、良いように利用していただけですよ」
「その物言いですとずっと殺害の機会を伺っていたように聞こえますね」
「ああ、その通りだ。さあ、後の話しは警察でゆっくり話そう」
「その前に教えてください。何故に昨夜だったのでしょうか?」
信子は静かに言った。麟太郎は意表を突かれ、一瞬体を震わせた。
「ど……どう言う意味か良く分からないが」
「今回の事件で使われた凶器はお屋敷の鍵の掛かった部屋のナイフでした。これでは屋敷の誰かが殺害したと言っているようなものです。
仮に麟太郎さん、あなたが犯人だったとした容疑者を増やす目的で凶器は外から持ってこないですかね。でも実際は違いました。
ならばあらかじめ凶器を外から持ってこれなかった理由はなんでしょう?
それは、この犯行が突発的な原因で行われたからです。なるほど、積年の恨みつらみがあったかも知れない。しかし、それは犯行の遠因でしかなく、それとは別になにか犯行に及ばざるを得ない決定的な出来事が昨日あったと私は考えてます。
さて、麟太郎さん。それはなんでしょうか?」
「いや、そんなものはない! たまたま、あの時、堪忍袋の緒が切れた。それだけだ。
そんなことはどうでも良いから早く逮捕してくれ」
「いいえ、それはできません。なぜならあなたは犯人じゃないからです」
「なんだって?! 私がやったと言ってるじゃないか。それをなんで違うなんて言うんだ」
「この屋敷の中であなたは、いえあなただけは実葛さんを殺害できないのです」
「……だからなんでそんなことが言いきれるのだね!」
「凶器ですよ。凶器に使われたナイフは丁度その壁に掛けられていました。随分と高いところです。私が背伸びしてギリギリ届くぐらいの高さでした。失礼ですが車椅子のあなたでは手が届かないでしょう」
「い、いや、それは……」
信子の指摘に麟太郎は言葉をつまらせる。
「なにか道具を使えばナイフを入手できるかもしれませんが、その部屋にはもっと低い位置に幾振りもの刀やらナイフがありますから、もっと言うなら台所にも凶器として使える包丁がありますからわざわざあんな高い所のナイフを使う必要はないのです。少なくとも麟太郎さん、あなたにはね」
「ちょっと待ってください。ってことは麟太郎さんは犯人じゃないって言ってますか?」
驚いたように口を挟んできた山本刑事に信子はやや呆れたような視線を投げつけた。
「だから、そう言ってるじゃなーい。麟太郎さんは本当の犯人を庇おうとしているのですよ」
「あ、いや、でも、仮にですよ。犯人が別に居たとしてもその犯人だってわざわざあんな高い所のナイフを使う必要がないじゃないですか」
「いいえ。本当の犯人には必要があったのよ」
反論する山本刑事を信子は一蹴する。
「犯人は麟太郎さんにだけは容疑の目が行かないようにわざわざ麟太郎さんの手の届かない場所の凶器を選んだのよ」
「えっ? なんでそんなことを……あっ! 犯人は娘の凛々子さん?!」
「違う! 娘は殺っていない」
麟太郎が大声で叫んだ。しかし、信子は小さく首を横に振った。
「凛々子さんの自室を調べれば犯行の証拠が出てくると思います。例えばルミノール反応とか返り血のついた衣服とか。それに私の想像が正しければそんな必要もないと思うのです」
「どういう意味です?」
「それはもうすぐ彼女が――」
山本刑事の問いに答えようとした信子であったがその言葉はノックの音に遮られた。
ノックの音に次いでドアが開いた。3人の視線がドアへと向けられた。ドアのところには1人の女性が立っていた。
「凛々子……」
麟太郎の声が弱々しく部屋に響く。
凛々子は少し躊躇うように視線を泳がせていたがやがて真っ直ぐ信子たちへ目を向けると言った。
「実葛を殺したのは私です」
「見つけましたよ。麟太郎さんの自室に凛々子さんの養子縁組の書類」
「麟太郎さんの証言通りね」
山本刑事から手渡された書類に目を通しながら信子は言った。
凛々子の証言を聞いて麟太郎は観念したように昨夜の出来事を話してくれた。
昨夜、麟太郎は実葛から凛々子を養子にしたいから凛々子を説得しろと言われたらしい。もしも拒めば麟太郎たちを放逐するとあからさまな恫喝が含まれており、それは命令のようなものだったと言う。
『養子縁組に凛々子への愛情や配慮があったのならばともかくも、あいつはそんなことより一片も考えていなかったんだ!
養子にした後すぐに縁談をさせようと進めていたんだ。婚約発表は3日後の予定だから明日までに養子縁組の書類にサインして持ってこいと言ったんだ。
どう考えても凛々子が不幸になるだけなのに、それなのに奴は私にその片棒を担げと強要してきた。
あいつは、あいつは……凛々子を自分の野心の道具としか見ていなかったんだ!』
麟太郎はその時の事を思い出したのか、怒りで体を震わせながら吐き捨てた。
その姿を見ながら山本刑事は分からない、と言った表情をした。
「とんだクズ野郎だ。だけど、なんでそんなに凛々子さんに執着したんでしょうね。奴さんは」
「それは、おそらく凛々子さんが実葛さんの実の娘だからよ」
「え?! 凛々子さんがク……、いや、マルガイの娘さんですって?」
「麟太郎さんが事故にあったのが26年前。凛々子さんが生まれたのが24年前。
脊髄を損傷すると、なんていうと、ほら、男性機能が損なわれる場合があるじゃないの。だから、そうじゃないかなぁと思ったわけ。そして、凛々子さんの本当の父親は実葛さんじゃないかと思ったのよ。当時は麟太郎さん夫婦はこの屋敷に住み込みで働いていたでしょうから」
「え、じゃあ不倫――」
「不倫じゃありません!」
凛々子が悲鳴のような大声をあげた。
「不倫じゃないです。母は……母は、きっと無理やりだったんです」
凛々子はポロポロと涙をこぼし始める。
「その話はこれぐらいにしましょうか。
それで、昨夜、実葛さんと麟太郎さんの話を偶然なのか、故意なのか分からないけど聞いてしまったのね?」
「はい。それでなにもかも自分の思いどおりになると思っているのが許せなくて。それでどれだけ父や母が苦しんだのか思い知らせやると思ったのです」
「そうですか……。後の話は署で聞かせてください。
山本刑事、手配のほうお願いします」
信子は実葛氏の殺害現場で1人佇んでいた。
目の前の机には証拠物件である血濡れた百人一首の札が置かれていた。
信子はその札を少し寂しげな瞳で見詰めていた。そこへ山本刑事がやってきた。
「凛々子さんを署の方へ搬送しました。一応麟太郎さんも同行してもらうことにしました。話を聞くこともあると思いましたので」
「うん、ご苦労様です。私たちも行きましょうか」
「はい。でも、その前にちょっといいですか?
まだ、良く分からないのですが警部補は、最初から凛々子さんが犯人だって分かっていたみたいですけどなんで分かったんですか?」
「実葛さんのダイイングメッセージでよ」
「それ! そのダイイングメッセージってのが分からないんですよ。
確か犯人はマルガイの娘って言ってましたよね。でも、長女、次女じゃないっても言っていた。
ま、確かに3人目が居たわけなんですが、なんで3人目が居ると分かって、更にその3人目が犯人ってことになるんですかい?」
これ、と言いながら信子は机の上の札を指差した。
「この札が平兼盛の歌だと言うのは説明したわよね。それで、こっちが『やすらわで ねなましものを さよふけて かたぶくまでの つきをみしかな』、赤染衛門の歌」
信子は箱の中から札を一枚取り出して、平兼盛の札の下に置いた。
「平兼盛と赤染衛門は父と娘の関係と言われているわ。
それで、床に散らばっていた札の中にこんなのもあったわよね」
再び箱の中から札を一枚取り出すと今度は平兼盛の札の横に並べた。
「『ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すゑのまつばら なみこさじとは』
これは清原元輔の歌。さっき言い掛けたけど、元輔の娘の歌がこれよ」
信子は元輔の札の下に更に一枚置いた。
「『よここめて とりのそらねは はかるとも よにあうさかの せきはゆるさじ』
清少納言の歌よ。この2人も父と娘の関係なの。だから、ナイフで刺すのは清原元輔の札で、血文字は『よを』でも良かった筈。いいえ、正当な父と娘の関係を示したかったならむしろこちらを選ぶべきよ。なのに実葛さんはわざわざ平兼盛と赤染衛門を選んだ」
「平兼盛と赤染衛門だと正当じゃないのですかい?」
「赤染衛門は公式には赤染時用の娘なのよ。ただ赤染衛門の母親が時用と結婚する時には既に兼盛を子を宿していたの」
「その時の子供が、その赤染衛門ってことですか?」
「そうよ。だから実葛さんは、認知されていない娘、つまり凛々子さんに殺された、とメッセージを残したんじゃないかと思ったの」
「……わっかり難いっ!
なんで、そんなしち面倒くさいメッセージ残すんですかい!!」
解説を聞き終わると山本刑事は半ば切れぎみに叫んだ。
「だって仕方ないじゃない。容疑者の名前がみんな画数多くて難しい漢字ばかりだし。似たような名前だもん。イニシャルにするとみんなR.U.でしょ。ビックリだわ」
「いや、私はそんなの分かっちまう警部補がビックリですよ。なんでもお見通しって事ですかい?」
「え? エヘヘ。それは言い過ぎよぉ。照れるぅ」
「褒めてねぇ―すよ」
「ありゃ。 そうなの?
ま、いいわ。なんにしても凛々子さんは麟太郎さんの事を本当に愛していたのね」
「そうですか?」
「そうよ。彼女が自首したのは自分を庇おうと嘘の供述をした麟太郎さんのせいだもの。
麟太郎さんだけには嫌疑が掛からないようにわざと凶器を選んだりしたのにね。血が繋がっていないのに愛情深く育てられた証拠かしら。
麟太郎さんも娘の代わりに殺人の汚名を被ろうとしたものね。
それだけに後味の悪い事件だわぁ」
「後味悪い。それはそうですね」
信子はもう一枚札を取り出してそっと平兼盛の札の横に置いた。
その札は?、と問う山本刑事に信子は意味ありげに微笑みを返す。
「『こひすてふ わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもいそめしか』
肉親の情か、それとも男女の愛か、さすがにそれは彼女しか分からないわねぇ。
さ、本当にこれで私たちも退散しましょう」
信子はため息をまじりにそう宣言すると部屋を後にするのだった。
2024/04/14 初稿