束の間の日常
「おはよっ!」
教室へと向かう廊下で、後ろから声をかけられる。
母音のひとつひとつが飛び跳ねているかのような明るい声は蓮のものだ。
いつもなら「朝からうるせぇな」と眉のひとつもしかめているところだが、今日はそんな『いつもどおり』がなんだかとても貴重に思える。
一体自分はどれほど参っているのかと心の中で嘆息しながら、瑠架は短く返した。
「……はよ」
つとめて普段通りを装ったつもりだったが、蓮はすぐさま瑠架の異変に気付いてしまったらしい。
「わっ! なになに?」
素早く前に回り込んで、ずいっと思い切り瑠架の顔をのぞき込む。
「死んだ魚の目~‼」
強めの感嘆符で強調された言葉にがっくりきた。
「うるせぇな。ほっとけよ」
そう言い捨てて教室に向かい歩き出すが、なにしろ相手が悪い。蓮がこんなに面白そうな状況を放っておくわけがないのだ。
「なになに、超気になるんだけど~!」
そう言って瑠架の周りをぴょこぴょこ跳ねながら、にやりと小悪魔的な笑みを浮かべる。
「それって、昨日の『駅前広場からのおいかけっこ』と関係ある~?」
問いかけの形をとってはいるが、おそらく蓮にはある程度の確信めいたものがあるのだろう。
瑠架は鋭すぎる蓮の洞察力と、なぜか翌日にはこんな噂が広まってしまっていることのどちらにも辟易しながらため息をついた。
「――それ、どこで聞いた」
半目になって眉間に皺を寄せている瑠架に対して、蓮はとびきり楽しそうだ。
「えー、どこもなにも、いろんなとこで噂だよ? アレキサンドライトの家の跡取り息子が、夜の街を全力疾走! 追いかけるのは金髪の色男。喧嘩か、あるいは痴情のもつれか――」
「もういい」
それ以上聞いていると頭がおかしくなりそうだ。
隠しきれない苛立ちをたちのぼらせている瑠架と、それを見てきゃっきゃとはしゃぐ蓮。対照的な二人を、周囲の生徒はおっかなびっくり遠巻きに見守っている。そこにゆっくりと近寄って輪に入る、長身の影がひとつ。
「随分盛り上がってるね」
そう言ってにこりと笑う浅葱を、瑠架は黙ってねめつける。それに対して蓮は「そうなんだよ~!」と更にきゃっきゃと声をあげていて、やはり二人は対照的だった。
「もしかして、昨日の晩の話?」
そう先手を打ってくる浅葱に、噂話は一体どこまで広がっているのかと頭が痛くなる。「そうそう! ねぇ瑠架、一体なにがあったわけ?」
真正面からそう問われて、瑠架は数秒黙り込む。
そしてしばらく思案した後、昨日おこったこと――透夜という石士を、予定よりもかなり早くつけられたこと。そしてそいつが追いかけっこの相手であること――を適当にかいつまんで説明した。
「へぇ、瑠架のところにももう石士がきたのか」
蓮はそう言って、興味深そうにしげしげと瑠架の表情を観察する。
「今から《採掘》までってことは、三か月? リングの完成まで含めたらもっとかな? 随分長いね」
「そうだね。何か特別な理由があるのかな?」
「……」
今朝がた透夜から話された、裸石のスキャンについてはなんとなく話していなかった。瑠架自身がまだどういったものか飲み込めていないし、なにしろ不確定な要素が多すぎる。
「んで、どう? 仲良くなれそ?」
蓮はそう言って、長い睫毛に縁どられた目をぱちぱちと瞬かせる。
「――別に、仲良くなる必要なんてねぇだろ」
ぶっきらぼうに言うと、「とんでもない!」とばかりにパパラチアカラーの頭をぶんぶん振った。
「だってさ! 自分の裸石を任せる相手だよ? やっぱり信頼できないと嫌じゃん」
蓮が当たり前のようにそう告げるのもまた、《採掘》を恐れるゆえだろうか。
こころなしかその大きな瞳には、ほんのかすかな不安の色が映りこんでいる。
「浅葱の石士はどう? 仲良くなれそう?」
蓮はそう言って、質問の矛先を浅葱に移した。
急に話を振られて、困惑したようにネオンブルーの瞳が細められている。
「うーん……そうだな……」
思案している浅葱は、答えに窮しているというよりは言葉選びに迷っている様子だった。
「俺は、もともと仲が良かったと思ってるよ」
含みのある不可解な言葉に、瑠架と蓮の二人が眉を寄せる。
蓮が言葉の真意を尋ねる前に、浅葱が続けた。
「俺の石士はね、若葉なんだ。覚えてる? 三つ違いの、俺の姉さん」
その言葉に二人ははっと息を吞む。三年前にパライバの家を騒がせたとある事件のことを思い出したからだ。
「若葉、〝あの後〟石士になったみたいなんだ。俺の《採掘》も自ら買って出てくれて……」
三年前、浅葱の姉・若葉の喉元から、彼女の裸石が取り出された。
例に漏れず、彼女が発現させたのは家の石であるパライバトルマリンだ。しかし彼女もまた、瑠架と同じ混じりものであった。そこまでは、《採掘》の前段階でわかっていたことだ。
取り出された若葉の裸石は、ひどく色が薄かった。事前に鑑定で予測されていたランクよりも、二段階ほど評価が下がったと聞く。当主は激昂し、悲嘆に暮れ、若葉を家から追い出した。
「そっか……。じゃあ、今は家族みんなで過ごせてるんだね」
蓮がそう言って小さく笑った。
「うん」
それに返された浅葱の笑みは、まるで綻んだ花の蕾のようだった。それだけで彼が、この再会をどれほど喜んでいるのか知れる。
「……」
瑠架は押し黙ったまま、微笑みをたたえている浅葱を見つめる。
浅葱にとって、離れ離れになっていた姉との時間は貴重なものだろう。もともと若葉にべったりだったし、彼女が家を出た時にはひどくふさぎこんでいた。
家族の団欒を喜ぶ気持ちが瑠架にはわからなかったが、浅葱が喜んでいるのなら今はそれでいいんだろう。
しかし、石士との付き合いはあくまで時限的なものだ。
《採掘》が終わり、また若葉と離れ離れになる時、こいつのこの笑顔はどうなるんだろう。心の底から喜ぶには、この時は少し刹那的すぎる。
つらつらとめぐる瑠架の思考を断ち切るように、電子音の予鈴が鳴り響いた。
生徒たちはあわただしく、それぞれの教室に向かい散り散りになっていく。
「わっ! いそげ~!」
先頭をきった蓮に連れ立つようにして、瑠架と浅葱も教室へ向かい足を早めた。