29話 体育祭
旭羽高校、体育祭。
校内の一大イベントではあるが、学校の性質上どうしても文化祭には大きく劣る。開催期間からもそれは明らかであり、規模や内容も数年前に比べるとやや縮小気味。無論楽しみにしている生徒も多いが色々と問題も孕んでいる、なんとも複雑なイベントとなっていたのだが……その年だけは、何かが違った。
「おい、見てみろよこれ。すげぇぞ」
「マジか、こんなんあったんだ……これはテンション上がるな」
「誰が描いたんだろ?」
校門から入ってすぐ、グラウンド手前部分のこの体育祭で一番目立つところ。
そこに大きく聳え立つのは――木製の立て看板。
この学校では過去クラスごとに制作されていたものだが、五年前に廃止。知っている生徒はほぼおらず、伝聞として聞いている生徒も実物を見たことはなかったため……五年の月日を経て復活したそれは、大きなインパクトを持って生徒たちの注目を集めていた。
まぁ、注目を集める最たる理由は看板自体もあるだろうが、何より――そこに描かれているイラストだろう。
すごく端的に表現すれば、『体育祭』と聞いて思い浮かぶイメージそのものを丸ごと一枚絵にしたらこうなるかのようなもの。
徒競走、借り物競走、玉入れ、騎馬戦、リレー……等々、体育祭の代表的な競技や謎の競技まで、様々な種目に全力で取り組む生徒たちの様子が大きな看板一面に所狭しと描かれており。
そうして中央部には、非常に映えるフォントで大きく『第十三回 旭羽高校体育祭』と綴られている。
まさしく体育祭のキービジュアルと呼ぶに相応しいかのような、見ただけでここからのお祭りに期待せずにはいられないような。
そんな絵があれば、見た生徒たちが、多少乗り気でなくとも一段ボルテージを上げてしまうのも仕方ない。そう思えるほどの、まさに学生離れしたクオリティがあった。
そうして始まった体育祭は、看板のクオリティの影響かそれとも影司をはじめとした生徒会が精一杯の工夫を凝らしていたからか、既にかなりの盛り上がりを見せている。
前者もないわけではないだろうが、恐らく割合としては後者が相当に大きいだろう。実際クラス対抗というイベント自体の盛り上がりにも加えて、徒競走等のシンプルな運動能力を競う種目や借り物競走等の所謂ネタ種目、運に左右される種目のオリジナリティ溢れる工夫にバランスの良さ。
更にはそれらを加味して計算された各生徒の出場回数規定に配点。どのクラスの誰もができる限り活躍できるように必死に考えたことが、運営視点で見ればよく分かる。
その創意工夫にそれらを思いつく頭脳、そして何よりそれを実際の形にする能力等も全て含め、改めて影司、そして運営である生徒会の有能さには舌を巻く。影司曰く『フィクションの生徒会ほど強権を持ってるわけじゃない』とのことだが、多分それは比較対象がおかしい。普通の高校と比べても十分素晴らしいことをしていると思う。
それに関しては心から尊敬するし、盛り上げてくれること自体には感謝なのだが……
……そう素直に締め括れない理由も今の燎にはあった。それは、
「………………、しぬ」
その出場規定回数の都合で、然程運動が得意でない燎も普通の徒競走に駆り出され。
結果余裕で最下位を取ってしまい、一点もクラスに持ち帰れないまま大変微妙な空気と疲労困憊の体を引きずってただいま戻ってきたからである。
別にそこまでクラスに対して思い入れがあるわけではないが、クラス対抗の形を取っている以上全く貢献できないのは辛いものがある。そう思って自席で項垂れる燎に、軽い調子で声がかけられる。
「やー燎、お疲れ」
重い頭を上げると、体操服姿の星歌が苦笑いと共にスポーツドリンクを差し入れに来てくれていたところだった。感謝を告げてそれを受け取りつつ、一息ついて口を開く。
「……悪い。正直最下位とは思わなかった……運動部じゃない割には体力ある方だと思ってたんだが撤回する、もやしと罵ってくれ」
「いやいやネガティブすぎ。ていうかあれは仕方ないよ、私らも外から見てておかしいと思ったんだけどさ、燎が走る組だけなんか地獄みたいな組み合わせだったみたい」
曰く、燎以外はどのクラスも三本の指に入るほどの俊足が揃っていたらしい。放送部の実況でも『これはハイレベルな戦いです!』と言われていたとか。
「だから下手に強い人入れてそれで下位になっちゃうより、燎がぶっちぎり最下位になってくれた今の方が戦力配分的には助かってるよ。みんなも『暁原ナイス人身御供』って言ってた」
「言われ様」
あんまりな言い草だが、実際最下位という事実がある以上何も反論はできないだろう。
それに、変にクラスが盛り下がったりしていないのなら何よりだ。この徒競走で体育祭の出番を一足先に終えた燎は、それだけを確認すると改めて息をついて椅子に背中を預ける。
そんな姿を見て、星歌は何かに気づいた様子で。
「……あー、ひょっとして体育祭と関係なく結構お疲れ?」
「まぁ、そんなところだ」
「分かる分かる。……実は私も割としんどかったりするし」
言葉通り疲労を滲ませた声を出しつつ、隣の席に腰掛けた。
二人が疲れている理由は、言うまでもなくこの体育祭に関わる諸々の準備。特にあの看板の制作だ。
あのサイズのイラストを描く、というだけでも想像を遥かに超える手間がかかるのだ。ほたるの元絵からまず線画を拡大トレース、そこから線の太さの調整にペンキを組み合わせての細かい色作りに膨大な量の色塗り。流石に細かい仕上げは描いたほたる自身で行う必要があるが、一から十まで彼女頼りでは到底時間が足りない。自分達でできることは全て手伝わなければならなかった。
放課後は下校時刻までその作業にかかりきり、予定が押した時などは早朝に登校して作業を進める場合もあった。それが二週間も続けばいくらなんでも疲労は蓄積する、結果燎も星歌も一緒にクラスメイトとがっつり盛り上がる元気は残っていないというわけだ。
まぁ、でも。その甲斐あって――
「人気じゃん。夜波先輩の絵」
グラウンドの向こう、入り口にある立て看板。そこで今も数人の生徒が足を止めているのを見て、星歌が満足そうに呟く。
彼女も作業に携わった本人であることに加え、制作の過程でほたるとある程度交流して人柄にも触れていたので、感慨もひとしおだろう。
「初めて聞いた時はびっくりしたけど、本当にプロの漫画家さんなんだね。作業中に指示受けてる時も『ここまでこだわってるんだすごい!』って思うことが何度もあったし。でも……」
しかし続けて、少し訝しむような声でこう問うてきた。
「……なんで、あれが夜波先輩が描いたものだって公開しないの?」
「今公開しても、効果が薄いからだよ」
問われる予感がしたので、間髪入れず彼も答える。
「あの絵が人目を引いてるのは、まず目立つところにある大きい絵だってことと、シンプルにクオリティが高いイラストだからだ。それでも十分すごいんだが……まだ足りない」
「足りない?」
「『すごい絵だ』ってことしか分かってない生徒が大半なんだ。先輩があれに何を込めたか、何を思って、どう考えて描いたか……そういうことまで見抜いた生徒は、居ないとまでは思わんがごく少数なんだよ、まだ」
これは、ほたるの実力が足りないとかそういう問題ではない。もっと根本的な、場の不足とでも呼ぶべき問題に起因する。その場にあるだけのイラストを見る人間の大半は、イラストに長くとも数秒、短ければ一瞬しか注意を払わない以上仕方ないのだ。これが影司に最初立て看板のことを話した際『甘い』と言った所以でもある。
故に全てを開示するのは、その問題を解決してから――つまり、燎の企画の内容を完遂してからだ。機密保持の関係で情報の開示は最低限と決めている以上、星歌にもその辺りの細かいことまでは話していない。彼女もそれで了承してくれた。
その判断が、間違っているとは思わない。
ただ一方で、現在情報を秘匿した代償として……
「……」
向こうの――二年生の席の方角を見遣る。
クラス対抗の熱戦に、或いは友人知人の活躍に。確かな盛り上がりを見せる各クラスの陣営から離れて、ぽつりと。
ほたるが、ひとりぼっちで座っていた。浮かぶ顔は、明るいとはとても言えない。
そう。あの看板がほたるの絵を用いたものだと明かさない代償として、彼女の学校内での印象は未だ何も変わっていない。クラスの輪からも弾かれ、無難な団体競技に出るだけ出て。活躍する訳でもなく、燎のように派手に負ける訳でもなく、いてもいなくても変わらない――むしろいない方が良い、まさに腫れ物のように扱われていた。
こんな眩しい場で、青春の真っ只中で。そうでしかいられない今この瞬間は、どれほど辛いことだろう。
間接的に自分がそうしているということも相まって、何も言うことができず顔を歪める燎に対して。
「……そういう顔しちゃうんだからなぁ。……もー、しょうがない」
その横顔を見ていた星歌が呆れと共に呟くと、勢いよく立ち上がり。
「おっけ。私が夜波先輩のとこ行ってくるよ」
「夕凪?」
「一人の夜波先輩のことが心配なんでしょ? ああいう時は話し相手がいるだけでも結構変わるものだし、私も夜波先輩とはもう少し話してみたかったからさ」
どうやら考えていることを完璧に見抜かれていたらしい。確かに看板制作の作業を経てほたるとも多少の会話を交わしていた彼女が居てくれるならこの上なく頼もしい。
「悪い、助かる」
「ん。……ああ、その代わり」
静かに謝意を告げる燎に対して、星歌は振り返ってからぴっと指を立てて。
「全部終わったら、ちゃーんときっちり夜波先輩との関係も吐いてもらうからね。燎が隠していることも含めて、まるっと全部」
「んぐ」
「気づかれないと思った? 絶対ただの知り合いって間柄じゃないじゃん、作業中の雰囲気とか見ても親密なのはバレバレだったよ」
今度は分かりやすく息を詰まらせる燎にけらけらと笑うと、そのまま軽い足取りで二年の席の方へと向かって行く。上級生の場所というものは多少緊張するものだと思うのだが、その素振りもなく。
……本当に、夕凪星歌という少女は。
見た目にそぐわず、驚くほどに人懐っこく。
そして見た目にそぐわず――呆れるほどにお人好しなのだ。
ありがたい、と思う。いつか礼はしなければならないのだが、要請されたほたるとの関係開示に関してはあまり約束はできないと思うのが申し訳ない。
ただ、彼女には本当に助けられている。詳しいことを聞かないまま二つ返事で諸々のことを手伝ってくれたし、今も燎の心境を察してほたるの元へと行ってくれた。かなり疲れているのにも拘らず、だ。燎同様、星歌も、そして――
「よぉ燎盛り上がってるかぁ!!」
そこで、今丁度考えようとしていた人物に思いっきり背中を叩かれた。
……彼に対しても感謝はしているが、今の背中の痛みだけで正直それを白紙に戻したい気分である。その心境を隠さないまま燎は告げる。
「……影司。盛り上がる気力がない、というか逆になんでお前はそんな元気なんだ」
眩しい笑顔といつもより六割増しほどのハイテンションを見せる暮影司に向かって、半眼で燎は問いかける。
彼も、ここ二週間は相当派手に動き回ったはずだ。ほたる、星歌と共に看板制作作業にも参加していたし、各種の根回しも相当の手間だったはず。休める時間もほとんどなかっただろう。
なのに、疲労困憊の燎と疲れを見せていた星歌に対し、彼は驚くほど元気だ。どころか役員としての仕事と燎の企画協力までして、なお体育祭ではクラス最多の四種目に登録してかつ現状出た種目全てで好成績を掻っ攫っているのは最早バグか何かか。人間とは別の動力で動いているのではと本気で疑わしくなる。
そんな影司は燎の問いに対し、いつもの笑みと共に。
「そりゃそうだろ、せっかくの本番なんだぜ? できる限り全員が楽しめるように手を尽くして準備したんだ、じゃあ本番は俺自身が誰よりも楽しまんといかんだろ」
そうして告げられる屈託ない言葉もあまりに眩しい。……なるほど確かに、祭りの中心で誰よりも熱く盛り上がっているこういう人がいるのならば、そりゃ誰もが感化されるだろう。実際燎のクラスも彼を中心にして全力で体育祭を満喫しているようだ。
……普段ならば、この体育祭の場くらいは彼の熱に乗せられるのも悪くなかった、が。
「すまん、今回ばかりはパスだ。今は少しでも休みたいし……」
今回は別。その根拠を、計画の全容を共有している彼に告げる。
「――俺にとっての『本番』は、この先だ。そのための気力は取っときたい」
その一言で聡明な彼には伝わっただろう。顔に納得の色が浮かぶ。
「……あー、確かに。お前はこの後が一番大変だしな、残念だが了解だ」
「影司ほど体力がなくて悪いな。……だからその分、お前が全力で盛り上げてくれ。その方が良いものになるし、そういうのは見てるだけでも結構楽しいから」
続けて伝えた言葉に対して、影司は軽く驚いた表情を見せたのち……ふっ、と笑って。
「燎は、そういうのが良いとこだよな。んじゃ、行ってくるぜ」
それだけを告げると、最後の種目――花形競技であるクラス対抗リレーへと向かって行くのだった。
その後も、つつがなく競技は進行し。燎たちにとっての初めての体育祭は幕を閉じた。
生徒会の精一杯の工夫や各クラスの実力が比較的拮抗していたこともあって、最後まで結果が分からない大熱線がそこかしこで繰り広げられ。
多くの生徒にとっては思い出深い、青春を彩る素晴らしいイベントとなったことだろう。
そして、一つの競技以外の目玉となった例の立て看板については。
そこかしこでクオリティが褒め称えられ、『あれのおかげでテンション上がった』という声もいくつか聞こえてくるほどに好評で。
その上で――『誰が描いたのか』という最大の謎は未だ残ったまま。
――最高の状況だ。
「……やるか」
舞台は整った。ピースは揃った。
後はそれを、燎が最高の作品に仕上げるだけ。
勝負はこれから、具体的に言うならば週明けまで。そこまででどれだけできるかの勝負であり、ここからは燎の努力に何よりの比重がかかる。
だが、恐れはない。
ほたるはイラスト制作において最高の仕事をしてくれた。影司も体育祭を最高に盛り上げてくれた。星歌も様々な局面でサポートをしてくれた。他にも、いくつかの人員に多くの協力を貰った。
そこまでしてもらったのならば――応えるのは、最早義務だろう。
覚悟を決め、目標を持って、意思を固め。
体育祭終了後燎は改めて、懐かしい画面へと向き合うのだった。




