26話 旅の最後に
ちなみに、帰りは地獄だった。
「……はぁ……はぁ……」
「えっと……かがり君、大丈夫?」
「え、ああ、大丈夫ですせんぱ」
「デート中」
「……すいません正直めちゃくちゃきついです」
理由は単純明快、体力の限界である。
考えてみれば当然だ。燎は決して貧弱とまでは行かないが、運動部に入ったこともなく体育の授業以外で体を動かした経験にも乏しい。
そんな人間が、いきなり自転車を二時間以上も飛ばせば体力が切れるのは必然の話。無計画のツケを帰りの旅路で当たり前のように払わされていたというわけだ。
何が『不思議と行く時ほど重くはないように感じた』だ。重いわ、めちゃめちゃ重いわ。そんな気分でいられたのは最初の十分だけ、後は徐々に疲労が溜まっていって現在はしんどい以外の感想が今のところ浮かばない。
加えて、後ろにほたるを乗せているというのもあんまり言いたくないがかなりの負担になっている。彼女がどちらかといえば身軽な部類に入るのも分かっているが、それでも女の子一人分の体重は自転車の荷台に乗せるには相当だ。バランスを取るにも相応の力が必要になり、その分体力が余計に削られるのも道理。
(後ろに人一人乗せるってことを甘く見てた。いやほんと二人乗りなんて調子に乗った提案をした奴は誰――俺だよ)
疲労困憊の頭でなんとか原因の分析をしようとした結果、完膚なきまでに自業自得だと気づいてしまって落ち込むという馬鹿げた思考をしている燎の後ろから、ほたるの申し訳なさそうな声が。
「その、きついなら代わろっか? あたしはあんまり疲れてないし……」
「……そうしたい気持ちもありますが、多分そっちの方が危険だと思うので」
燎は男子としては平均的、ほたるは女子としてはやや小さめの身長だ。体格に差がある以上燎に合わせた高さの自転車に乗るのは危ないし、加えてその場合燎が、つまりほたる以上の重量が荷台に乗ることも考慮すればリスクは更に跳ね上がる。
何より、絵面的にもそれは燎にとってあまりに情けなさすぎるので。
「無理はしません、先輩を危険に晒すのが最悪なのでどこかで休憩はします。ただまぁ……ここくらいは意地を張らせてください」
「う、うん」
「申し訳ないと思ってくださるなら、応援くらいはしていただけると」
「え、えーと……がんばれー?」
背中をてしてしと叩いての、控えめで可愛らしい応援の声をかけるほたるに若干力をもらいつつ、なんとか体に鞭打って引き続き自転車を漕ぐ。
(自転車の長旅は、調子に乗ると帰りが地獄になる。……この先使う機会があるとは思わないけど、一応覚えておくか)
最後に、なんとも微妙な学びを得たものだと苦笑しつつ。
力を振り絞って、もう一踏ん張りだとペダルを踏み締める。
そこからは、宣言通り一度だけ休憩を挟みつつなんとかほたるを家まで送り届け、燎も無事に帰宅した。
現在八時。行きと比べると1.5倍の時間がかかった計算だが……まぁ体力を考慮するとこれでもまだマシな方だっただろう。
その思考を紡ぐあたりが精々だった。とっくに限界を超えていた体で幽鬼のようにふらつきながらも自室まで辿り着き、着替えだけを済ませるとベッドにダイブ。おそらく史上最速クラスで眠気が襲ってきて、気絶するように眠りについた。
起床すると、時刻は十三時。午後をとうの昔に過ぎた時間であり、寝坊とかいうレベルではない。
厳密には寝坊したわけではなく強いて言うなら奇妙な時間の昼寝なのだが、ともあれこの時間に起きるなど初めての体験で謎の罪悪感と勿体無い感覚を覚える。
今日が祝日で良かったと痛感しつつ、昨夜エネルギーを使いまくった影響で体の方は激しい空腹を訴えている。まずはそれを解消するべく、リビングへ続く扉を開け――
「あら燎、おはよう」
姉の灯が、リビング中央に立っていた。
長年の勘と言うべきか、その姿を見た途端猛烈な嫌な予感が駆け上がるが時既に遅く。灯はにっこりと、美しい笑みを湛えたまま床を指差し。
「――お説教。そこ、座んなさい」
……どうやら。
旅の最後に、ちゃんとやらかした分は怒られる必要があるようだ。
なぜもう知られているかと言われると、普通に家に帰る瞬間からばっちり目撃されていたとのこと。休日の起床時刻は遅いのがいつもの灯の生活リズムなのだが、今日は本来平日であることが仇になった。
既に大まかな事情はほたるを呼びつけて聞き出していたようだ。その証拠にほら、既に灯の前ではほたるが正座させられ俯いたままぷるぷると震えている。
有無を言わさぬ口調で燎も仲良く隣に座らされ、それを確認すると灯が今度は呆れた表情で口を開いた。
「それで? ほたるちゃんから大体は聞いてるけど、改めて燎にも説明してもらおうかしら。昨夜二人でどこに行って、何をして、どうしてそうしたのか」
虚偽は無駄だろう。良くないことをした自覚もあった燎は素直に話した。ほたると共に出かけた一夜の旅、その具体的な内容から動機まで全て包み隠さず。
それを灯が聞き届けた後は、正しい意味での『お説教』が始まった。
ほたると共に、全てちゃんと聞いた。よくない事をした自覚はあったし、帰りの道中に危険性も含めて何故よくないかも体験したから。
それに、灯は正しく大人だった。伝えることはちゃんと今の自分達に必要なことだったし、それ以上の余計なことをくどくどと言うようなこともなかったし。
何より。二人の使った移動手段と外出時間はしっかりと咎めたが、それでも。
――旅に出たことそれ自体は、決して一言も否定はしないでくれたのだから。
「……それじゃあ、最後に」
そうして、一通りを言い終えて。二人がきちんと理解してくれたことを確認すると、灯は口調を柔らかなものに変えて。
「そのデートでちゃんと、掴みたいものは持って帰れた?」
「――うん」
問いには、まず真っ先にほたるが迷わず答えた。
「ちゃんと、かがり君と全部話したよ。それで……また、これからも頑張れそう」
「そ。なら、許すわ」
静かに、けれど確かな芯を感じさせる宣言に。灯も眩しいものを見るように目を細めて微笑み、続けて燎の方にも顔を向ける。
自分も、ということだろう。正直家族の前で改めて言うのは気恥ずかしいが、それでも言うべきなのは間違いない。灯には、特に。
「……一応、俺も」
だから燎も、少しだけぎこちなく表情を緩めると、正面から灯を見据えて。
「ちゃんと気持ちの区切りはつけたし、新しい目標も先輩にもらった。……ようやく、本当にようやくだけど、前に進めると思う」
「!」
嘘や強がりでないことは、家族だから分かる。
故に聞き届けた灯は、一度目を見開いてから……くしゃりと、表情を歪めて。
「――っと」
燎に抱きついてきた。
正座が崩れつつも、それを受け止め。幼い頃から慣れ親しんだ感覚が身を包む。
「……姉さん、流石に先輩の前は恥ずい」
「うっさいわね、今くらい良いでしょ。……分かってたわよ。私は新米編集だけど、創作を続けられる人かそうじゃないか、どっちの人間かくらいはもう見分けられる。……あなたは、どう考えたってほたるちゃんと同じ『そっち側』の人間だってことくらい」
結果的には、灯の見立て通りだったわけだ。
言葉は強いが、裏腹に声色は仄かに震えていることが分かったので一旦はされるがままになる。
「それなのに……っ、ごめんなさい、私のせいよ。あなたが一番辛かった時にそばにいられなかった、あなたをあの家に一人きりにしちゃったから」
「……あれは仕方なかっただろ」
続けて告げられたのは、灯の後悔。一番辛かった時――燎が両親の束縛や強制を受けていた時期に、唯一の味方だった灯に助けを求められなかった理由。
単純な理由だ。燎が中学三年生の時、灯は大学四年生。つまり就職活動のもっとも大事なタイミング……灯の場合は、アルバイトしている出版社に卒業後そのまま入れるかどうかの瀬戸際だったのだ。
「夢を叶えられるかどうかの、一番重要な時期だったんだろ。それなら自分のことを優先するのは当然だ、むしろそんな時期に家族のことにかまけて叶えられませんでしたってなったら、俺はそっちの方がずっと嫌だったよ」
そうなれば、仮に燎が折れることなく曲作りを続けられていたとしても、代わりに別の十字架を背負うことになっただろう。自分以外が関わる分、よりたちの悪い。
それくらいなら、折れたとしても自分の責任である今までの方が良かったし……それに。
この一年間も、必要だった。立ち上がった今ならそう思う……とまではすぐには割り切れなくても、そうなれるようにする意思は持てる。
「今、立ってるから十分。……それをいつまでも姉さんに引きずられるのもめんどい」
「良い台詞すぎて腹立つわね、燎のくせに。……でも、ありがと。良かった……本当に、良かったわ」
「……ん」
一段強く抱擁され、それに対して燎も素っ気ない声を上げつつ軽く背中を叩いて返す。
姉の罪悪感がなくなったのなら良かったが……しかし改めて、家族以外の人間がいる場所ですることではないだろう。そっちの気恥ずかしさが強すぎてなんとも気まずい表情でほたるの方を見やると。
「……」
ほたるは、少し意外な表情をしていた。
驚きが出ているのは予想通りなのだが……それに加えて、どこか羨むような。物欲しげな色を浮かべていたのだ。
訝しげに燎が問いかける――前に、同様のことに気付いた灯が調子をいつものように戻すと、声に悪戯げな響きを乗せて。
「あら、ほたるちゃん。……混ぜて欲しいの?」
「うぇ!? あ、いやそんな恐れ多いことは! ただその、いいなぁって……!」
きゅっ、と何故か燎の首に腕を回しての問いかけに、ほたるが顔を真っ赤にして胸の前で手を振る。面倒ごとの気配に加えて何やらほたるが色々と失言しそうな気配も感じとった燎は、さくっと抱擁を解いて立ち上がった。
「姉さん、先輩に変なことを吹き込むのはやめろ。昼食の当番は俺だったよな、俺も腹減ってるからさっさと作るよ」
「あらら、逃げられちゃったわね。じゃあほたるちゃん、私だけで悪いけどこの件の罰としてぎゅっとさせてくれるかしら。なんか今はテンション上がっちゃって」
「!?」
引き続き背後で公私混同甚だしい光景が繰り広げられているが、振り返ると巻き込まれることが分かりきっていたので無視してキッチンへと向かい。
ようやく、一人の少女を交えた暁原家の日常も戻ってくるのだった。
◆
昼食を終えた後。
これからの打ち合わせをするとのことでほたるの家に行った灯とほたるを見送ってから、燎も自室に戻って机の上で思索に沈む。
考える内容はもちろん、これからのことだ。
あの夜の旅で、多くのものを得た。
自分の弱さを知った。それを吐き出した。彼女と共に、お互いの至らない部分を分かち合って認め合った。
抱えた悩みも不安も、背負い切れないほどの覚悟も夢も全てを擲って、何もかもを置いていくように夜の世界を走って、走って。
――それでも尚。捨てられない、捨てきれないものがあると知ったから。
抱えたままでも、背負ったままでも。それでも走り続けるしかないんだって分かった、その覚悟ができた。そんな自分を知れただけで、少し楽になれた。
自分達は、物語のように強くは在れないけれど。それでも本物にはなれると証明しよう、だから今はお互いをちょっとだけ理由にして、一緒に走ろうと言ってくれた。
その言葉と誓いと、彼女がくれた少しの理由を糧に、燎はもう一度立ち上がることができそうで。
一方で……ほたるの問題は、やはりまだ解決していない。
ほたるはあの旅で、悩みを吐き出してはくれた。けれどそれはまた自分で前を向くためのものであり、あの夜明けの景色の中で言ってくれたことも、ほとんど自分のためではなく燎にまた立ち上がってもらいたいという心からであり。
そう。だからほたるはあの時、『一緒に走ってほしい』とは言ってくれたけれど。
――『助けてほしい』とは、一言も言わなかった。
それで、良いのか。
あれだけのものを、言葉を、思いを、理由をたくさん、たくさん貰っておいて。
この期に及んでまだ、役に立ちたいと思っておきながら結局何も出来ない、一番情けない役立たずのままで良いのか。
「……いいわけ、ねぇ」
なら考えろ、考えろ。
彼女のために何ができるか。今の自分だからこそ、本気で考えろ。
まずは、問題の整理から。
彼女の目標は、人見知りを克服して学校でも普通に周りと仲良くできること。それがほたるの心からの望みであるし、『感情描写能力が低い』という漫画における弱点の改善にも繋がる。克服すべき課題は、シンプルにその一つ。
多分、今の彼女であれば臆することはないだろう。彼女自身も夜の旅で自分と向き合って前に進むための心の整理はつけられ、前向きに問題に取り組むこと自体はできる。
……だが、周囲の現状がそれを許さない。
彼女が某男子生徒の告白をこの上なく手酷い形で振ったことは既に学校中に伝わっており、悪意ある風評を付け加えたことも相まって最悪と言って良い形で多くの生徒に受け取られている。
学校というある種の閉鎖社会で一度貼り付けられたレッテルを剥がすことは容易ではない。根元を絶ったとしても既に噂の花はあちこちで咲いており、仮にあの時のほたるの心情や事情をただ丁寧に伝えたとしても最早心象自体が変わることはない。『同情を引こうとしているだけだ』と悪意的に取られて相手にされないのが関の山だろう。
噂とは、そういうもの。優先されるのは真実よりも感情であり、誰も他人のことを一々深く知ろうとするほどに暇ではないのだ。
だが、だからこそ。
ほたるを孤高の存在として排斥しようとする悪感情。それさえ、もしも根こそぎひっくり返すことができたなら。
「……」
彼女を取り巻く問題は集約された。ならば後は、それをどう解決するか。
無論、決して容易なものではない。簡単に解決できるのならばどこかの誰かがとっくにやっているし、それを自分ならなんとかできるなんて傲慢でしかない。
それでも、今だけはと。燎は必死に頭を回して探し続ける。
自分のできること。彼女のできること。学校の現状と直近に控えているもの、これまで燎が聞いた話。
それら全てを総動員し、一つ一つ吟味し頭の中で転がして。考えて、考えて――
――その、果てに。
ふと、一つの考えが降りてくる。
「……いや、マジか」
己のアイデアであるにも拘らず、第一声がそれだった。
だって、あまりにとんでもない。あまりにも突飛で荒唐無稽で、けれどベタな。それこそ物語でやるような、フィクションに毒されすぎたと文句を言われても何も反論できないような、呆れ返るほど夢物語のような。
そして……本当にできたのなら、とても楽しくて素晴らしそうな。
その感情を自覚すると、もう不思議と止まる気は起きなかった。
「……やってみるかぁ」
最近増えてきた苦笑とともに、呟く。
できるかは分からない、上手く行くかも分からない。けれど。
『現実はフィクションのようにはいかないって分かってるけどさ。それでも物語みたいな楽しいことは、やってみたいって思うじゃん?』
いつか、友人に言われた言葉を思い出す。
ああ……全く、その通りだと思う。
自分達は弱くて未熟で、それでも走ることはやめられない馬鹿な生き物で。
ならたまにはいっそのこと、全速力で突っ走ってみても良いかと思ったんだ。
それでもし派手に転んでも――また立ち上がれることは、もう知っていたから。
「そうと決まれば」
早速、頭の中の計画を実行に移さなければならない。
時間が足りない。人手が足りない。不安な要素もある。不足部分は山ほどある中、自分の使える手段を総動員して一つ一つにとりあえずの目処をつけ。
そうして最後に……机の中を探って、とあるものを取り出す。
それは、燎の預金通帳。
中に書かれている数字は、一介の高校生が持つにしては多少上等な額。
それなりに溜まっている理由は、ほたるとの『業務デート』によるものだ。時給千二百円の数十時間分、使い道が分からずなんとなく使うのも躊躇われた結果放置していたものだが……今となってはそれで良かったと思う。
もちろん、それなりに多いとはいえあくまで高校生が持つにしては。そんなに大それたことができるような額ではないが。
それでも――プロに一仕事を頼む上では、悪くない金額のはず。
(足りなかったら……後払いにできないか頼むしかないな)
最後はなんとも締まらない決意と共に立ち上がって、いつの間にか帰ってきていた灯に一言告げて外に出る。そのまま自転車を飛ばして家を訪問し、多少の驚きと共に要件を聞いてくる彼女に向け。
突飛な計画の始まりとして、そして今まで受ける側だった自分が今度は求める側として。
燎はほたるに、こう、告げるのだった。
「先輩。――業務依頼を、させてください」




