22話 深夜、彼女と
「……かがり君」
その違和感には、すぐに気がついた。
考えて悩みながら眠りについたことで睡眠が浅かったせいか、早く就寝していた影響で丁度覚醒しやすくなったタイミングだったせいか。
「かがり君、起きれる……?」
ふわりと仄かに香る甘い芳香、布団越しの微かな重み、そして柔らかく耳朶を打つ控えめで愛らしい声。
普段ではあり得ないそれらの要素の違和感で、徐々に意識が浮上する。
半覚醒の状態で緩やかに瞼を上げると、真っ先に目に入ったのは見覚えのある顔と薄紫の瞳。燎が目を開けたことで、その表情がふにゃっと安堵したように緩む。
「……ほたる先輩?」
「良かった、起きてくれて。……こんな時間に起こしてごめんね」
何で彼女がここに、と疑問に思って現状を若干寝ぼけた頭で整理する。
辺りを見渡し、記憶を思い返す。自分は確か、星歌が相談に乗ってくれた後すぐ家に帰って。そのままずっと今抱えているものについて考えつつ、明日彼女と話そうと思いながら自室で布団に入り、そのまま眠りについて……と。
そのあたりで、現状が凄まじい異常事態であることに気づいた。
これまで、ほたるに起こされたこと自体はゼロではない。
ほたるの家で夕食の用意ができ待っている際にうっかり寝落ちてしまい、お腹を空かせてやってきたほたるに体を揺すられることが数回あった。だから、目を開いて真っ先に彼女の顔を見ること自体は別に不自然ではない……のだが。
問題は。
ここがほたるの家ではなく燎の家、どころか燎の自室のベッドの上であり。起こされた時刻も夕方ではなく思いっきり夜中であり。
必然、横になる燎の上から覆いかぶさるような体勢で、ほたるがその透明な美貌を近づけてきているということだ。
(…………、は?)
あまりに予想外の状況に思考がフリーズする。
真夜中、薄暗い部屋の中、ベッドの上、年頃の男女二人。あんまりにも意味深すぎる、深読みをしない方が無理と言わんばかりのシチュエーション。
彼女の美しい容貌が悩ましげに揺れ動くのが嫌に目に入り、薄手の服装の隙間から覗く真っ白な肌が月明かりに照らされて何処か艶かしく映る。布団越しの彼女の体温もひどく生っぽいものに感じられ、この状態が夢でも何でもないことを伝えて来る。
「ねぇ、かがり君。お願いがあるの……」
まさか、と思う間も無く。ほたるが少しだけ震えるような声で、何かを躊躇うような、けれどそれ以上に切実に何かを希うような表情と共に。潤んだ瞳と緊張に紅潮した頬を真っ直ぐこちらに向け――こう、告げてきた。
「今から一緒に……いけないことしない?」
「な――ッ!?」
思わず声を上げかけるが、咄嗟にほたるが手を伸ばして燎の口を塞いでくる。
「お、大声はだめっ。ともちゃんが起きちゃう」
当たり前だがここは燎の家であるため、二人暮らしをしている姉の灯も現在隣の部屋で就寝中。それを考慮すれば慌てた様子のほたるの心配もごもっともだが、今燎が考えるべきことも考えられることもそれではない。
どう考えても『そういうこと』としか思えないほたるの誘いを告げられた直後では、柔らかな掌が唇に当たっていることだけでも意識するには十分で。
尚更冷静さとか思考力とか理性とかその他諸々が削られていくのを感じつつ、それでも何とか踏みとどまって考える。
訳が分からない、とにかく訳が分からないが、それでも。
これに流されるのはどう考えてもまずい、それだけは瞬時に判断すると最低限の接触でほたるの手を剥がして、一呼吸置いてから口を開く。
「分かりました、大声は出しません。……でも、流石にそれは良くないです」
ほたるが体を震わせる。
「その、先輩が今すごく辛いことも多少は分かるつもりですし、今の心中も察するに余りありますが。それでも、いきなりそういうことをするのは……」
「……だめ?」
「っ、だめ、かと」
混乱する思考で、彼女がこのような行動に至った理由について必死に推理する。
言った通り、ほたるは今告白の件で学校に悪い噂が広まっている。今日も燎の知らないところでひどいことを言われたり、間接的に聞いたりしてしまったことは想像に難くない。
それで追い詰められて、精神的にいっぱいいっぱいになって。若干自暴自棄気味に何もかもから逃げ出したくなって、このような行動に移ったのではないだろうか。
だとしたら、尚更許すわけにはいかない。縋るような問いかけに心が揺らぎかけるが、それを抑え込んでほたるに向き直る。
「そもそも、何でいきなりこんなことを」
「だって……とびきりのわがままを聞いてもらうって、昨日約束してくれたもん」
いや、確かに告白を目撃した日の朝にそんな約束をした気もするが。だとしても叶えられるものと叶えられないものがある。だからそんな子供っぽく拗ねたような甘えた声を出すのはやめてほしい、端的に言って可愛すぎるので。
「だからって……もっと自分を大事にしてください」
「いけないことだし、危ないかもしれないって分かってるよ。でも……」
(……危ない?)
だが、その辺りで。
ようやくと言うべきか、ほたるの発言に覚えた違和感を契機に疑念が膨れ上がる。
いけないことだし、危ない、という見方もまぁできなくはないが。今この場で出てくる言葉にしては若干不自然な気がする。
いや、そもそも。いくら精神的に追い詰められているとは言え……彼女は、いくらなんでもこんな短絡的で突拍子もない行動に出るような人だったか?
そこで、慣れから多少の落ち着きを取り戻してきた思考で考え、思い至る。何か自分が早とちりしている可能性、勘違いやすれ違いが発生している可能性を。
その過程をもとに、このほたるに起こされてから今までの一連の会話を思い返して……疑念を解消すべく、核心的な部分を問いかけた。
「先輩」
「?」
「あなたのしようとしている、『いけないこと』って具体的になんですか」
問いを受けたほたるは、申し訳なさと気恥ずかしさが混じった表情で目を伏せ。
囁くように、答える。
「今から、きみと一緒に。……デートを、したいの」
………………。
「…………はい?」
とりあえず、思っていたようなものではなかったことに安堵はすべきなのだろうが。
それ以上に、思っていたよりも遥かに訳の分からない回答に。燎はのしかかられたまま、今度こそ本気で混乱と共に首を傾げるのだった。
◆
とにかく、まずは外に出た。
部屋での話が長引く分隣の灯を起こしてしまう可能性が高まるだろうことと、あれ以上あの場所で話していると雰囲気的に色々とよろしくないことの二つが主な理由。比率としては後者が七くらいである。
外に出て、初夏の夜の風を浴び。新鮮な空気を取り込んでようやく完全に冷静さを取り戻して、そこで。
「……はぁー……」
「か、かがり君?」
その場に蹲って、大きく息を吐いた。
自己嫌悪故である。勘違いしても仕方ないようなシチュエーションだったとしても、落ち着いて考えればほたるがそのような行動に移る理由はまずないと思い至って然るべきだろう。いくらそういう衝動が強くなる年頃でも、こうも簡単に誤解へと流されてしまったのは情けなさすぎる。ほたるの見ている前でなければそこらの塀に頭の一つでもぶつけていたかもしれない。
……まぁ、とは言え。とは言えだ。
いくら何でもこれは、彼女の方を糾弾する権利も少しぐらいはあるのではないだろうか。そう考えて、燎は顔を上げてほたるへと微かな不満の視線を向ける。
「先輩。……あまりにも、その、言い方が紛らわしすぎます」
「え? あの、い、言い方って……?」
どうやら分かっていなかったらしく小首を傾げるほたるに対し、懇切丁寧に説明するのも気恥ずかしすぎるので端的に。
「夜中に、女子が、男の寝ているベッドの上に上がり込んで、『いけないことしない』。……漫画だとどういうシーンの導入になると思います?」
「…………」
その言葉を受け、ほたるが改めてこれまでの行動を思い返すように数秒沈黙したのち。
「…………ッ!?」
ぼっ、と一気に表情を赤らめた。ようやく自分の行動の危うさを自覚したらしい。
「ぅあ、いや、ちがっ、そんなつもりじゃ……!」
「ええ分かります、今の反応を見ればそのつもりが一切なかったことはよく理解できますし、誤解したこちらにも非はあります。ただ、言った通りあまりに言い回しが怪しすぎるので、もう少し直接的に告げて欲しかったわけでして」
「だ、だって……あたしだって緊張してたんだもん、こんなことを直接言うのは気後れしてたし恥ずかしかったの!」
「その羞恥心をもう少し別方面で発揮できませんでしたかね……っ」
珍しく燎も若干声を荒らげて軽く言い合い気味になるが、お互い怒っているわけではないし何よりこれ以上はどちらも墓穴を掘りかねないと理解したのだろう。
自然とこの話題はここまでにして、咳払いを一つ。本題に入る。
「それで、先輩。あなたはこれから、俺といつもの『業務デート』がしたいと」
「……うん」
「移動手段は?」
「自転車、かな。流石に午前三時に電車は走ってないし」
「どこに行きたいとか、目的地とかあるんですか?」
「えっと、特にないかな……」
「いやほんとに何故?」
時間的にも非常識だし、あまりにも行き当たりばったりで不明瞭すぎる。
ただ――何の意味もなくほたるがこんなことをするとは思えない。目的地はなくても、目的はあるのだろうと再度問いかける。
その意思を汲んでか、ほたるが胸に手を当てて。
「えっと、ね。理由は二つあるの」
「はい」
「一つは……かがり君、『話をしたいです』って送ってくれたよね」
例のメッセージを読んでくれたのだろう、頷く。
「ありがとう、すっごく嬉しい。あたしもきみに話したいこと、きみに聞いてほしいことがたくさんある。……でも」
そこで彼女は躊躇うように、どこか何かに怯えるように目を伏せて。
「あたしが話したいことは……ちょっと辛いことで、特にきみに聞かせるには勇気がいることで。普段だと怖くて、臆病になっちゃって喋れないかもしれないから。だから……ちゃんと話すために、特別な場が欲しかったの。臆病でも話すしかなくて、話してもきみと夜空しか聞いてなくて。違うあたしを見せても良いかなって思えるような、そんな特別な時間が」
どんな内容かは、概ね察しがついた。
例の告白の件、何故あんな断り方をしたか。そこから更に遡って――彼女が今の彼女になった過去と経緯まで。今話すとしたら、それしかないだろう。
そして、彼女にとってそれが辛いものだろうことは、悪い意味で特別な話だろうことは容易に想像がつく。
だから、特別な話をするときは特別な場で。勇気を出すために、一歩を踏み出すためにこのような提案をした、という流れか。
「話すことも怖かったし……下手に踏み込んでかがり君に嫌われちゃうことも怖かった。でもね、それを話したらともちゃんにちょっと怒られちゃったの。『その程度で嫌うような人間なら最初から紹介してない、あんまりうちの弟を甘く見ないで』って」
灯が、そんなことを。察するに連載会議に落ちた日、あの喫茶店で燎が去ってからのことだろうか。その言葉もあって、これから話すことを決意したのだろう。
そこまで理解すると、続きを促す問いかけを告げる。
「……二つ目の理由は?」
「そっちは、実は結構しょうもなかったり」
しかしそれに対して、ほたるはどこか気を抜いた様子でたはは、と笑って。
僅かに目を開く燎に向けて、雰囲気を和らげたまま口を開き。
「覚えてる? 前のデートできみに聞かせてもらった、落ち込んだ時に聴く曲」
「ええ」
「夜明けに向かう曲。びっくりするくらい真っ直ぐで、綺麗で、爽やかで、眩しい歌。一回聴いただけでもう大好きになって、今日も何回も聴いて……それで、思ったの」
少しだけはにかんで、囁くように告げてきた。
「あの曲みたいに――きみと一緒に、夜明けに向かって走れたら。
きっとすごく、すっごく、素敵で楽しいだろうなぁって」
「……」
「無鉄砲に、飛び出すように。夜が明けるまで、自転車で行けなくなるところまで。当て所なくきみと走ってみたいなって、そう思っちゃったの。それで、勘違いかもだけど……それが出来たら、何か見えてくるんじゃないかな、とも」
……確かに、しょうもない話だ。
あの曲の、真っ直ぐ全力で夜明けに走る少年少女のようなことを。素敵な曲の真似事をしてみたいという、何とも子供らしいふわふわした願い。
でも、とほたるの話を聞いて考える。
色々なことがあって、色々なことを考えて。あまりに多くのものがのしかかって絡め取られて、疲れてしまった夜に。
何も考えず、言う通り無鉄砲に外に向かって飛び出して。背中にあるもの全てを一旦置き去りにして、身軽な体で初夏の爽やかな風を受け、藍空の下で彼女と笑いながら晴夜の世界を走れたら。
ああ、それは確かに……
「……とても、魅力的な提案ですね」
楽しいだろうな、と思わず告げる。それを聞いたほたるも「でしょ!」と非常に嬉しそうに愛らしい笑みを見せる。
……まぁ、どう考えても彼女の言う通り『いけないこと』だ。まず高校生二人が外を出歩いて良い時間ではないし、色々と危険だし、何より……
「ほたる先輩」
「なに?」
「その場合、先輩の分の自転車が見当たらないような気がするんですが」
問いかけに、ほたるの体が固まった。
ほたるの家から燎の家は徒歩圏内だが、この提案をするならば彼女の分の自転車も持ってきていないとおかしい。その考えでの質問に、彼女は気まずそうに目を逸らして。
「その……あたしのは、学校に置いてきちゃいまして」
「なにゆえ」
「……今日の学校で一日過ごした後で、帰りに自転車に乗る元気はなかったの」
ああ、それは確かに仕方ないかもしれない。
何かとガバガバだなと思う燎に、ほたるは申し訳なさそうに。
「だから、その。行くとしても一旦学校に寄ってからになっちゃうんだけど……」
「いえ」
不思議なことだが、それを聞いて覚悟が決まった。
よくない事であるのは間違いない。保護条例にも道路交通法にも文句なしに違反しているし、見つかってしまえば全力で謝るしかないけれど、それでも。
「後ろ、乗ってください。俺の自転車だけで行きましょう」
「え……」
「自転車二つだと体力や速度差が出るかもしれませんし、会話もしにくいでしょう。話をするならこの方が良いと思いますが……どうでしょうか?」
多分、半分くらいは言い訳だ。
いつもならこんなことには頷かない。自分は良くも悪くも普段は理性的で、狂的にもなれず凄まじい精神性も持てない、普通の人間でしかないけれど。
それでも今だけは、こんな特別な時だけは。この――それこそ物語のような、馬鹿馬鹿しいくらい青春全開のイベントに、呆れるほど全力で乗っかってみたいと思ってしまったから。
流石にここで拒否されると、燎も割と真面目に結構なダメージを負うところだったが。
ほたるは彼の提案に対し、最初は申し訳なさそうな、遠慮しているような表情をしていたけれど……でも最終的には、シンプルな考え。
――そっちの方がやってみたいと、彼女も思ってしまって。
だからはにかみながら、微笑みながら「ん、お願いしても良いかな?」と頷いて。
自転車の荷台にちょこんと腰掛け、体重を彼の背中に預け。
夜の旅、自転車、二人乗り。
どこにも行けない彼らが、どこまで行けるのかも分からずに。目的地もなく、当て所もなく、未だ見ぬ夜明けだけを目印に、彷徨うように真っ直ぐに。
恥ずかしいくらいに若い夜を始めるべく、一息にペダルを踏み込んだ。
一章最重要エピソード。夜明けに向かって走るデートのお話、始まります。
ここからの三話が一章で一番書きたかった部分、見守って頂けますと幸いです!




