20話 波及
「――ひどくない?」
その噂が広まるのは、あまりにも迅速だった。
「『興味が持てない』なんて、そこまで言う必要ないじゃん」
「ね。必死の思いで告白してくれた人のこと、全然考えてないって感じ」
あの告白の現場を目撃していた人間は、燎以外には居なかったと思う。
……けれど、告白した側にとっては相当にショックな出来事だっただろうことは想像に難くなく。
あの男子生徒はそれなりに交友関係の広い人だったようだし、告白することもその顛末も、誰かに話すようなことはしたかもしれない。
ほたるを貶めるような悪意は無くとも、自分の体験してしまった――特に悲しい出来事を誰かに話したいと思う程度は自然な心の動きだろう。
「夜波さん、前から何考えてるか分かんない雰囲気あったけど……やっぱりそういう人だったんだ」
「周りのことなんて、なんにも興味ないんだよ。だからあんな、人を傷つけるようなことも平気で言えちゃうんだと思う」
「ひどいよねー」
結果、話した当人に悪意はなくとも。それを受け取る側に、そこからまた人づてに話される誰かの中に、悪意や偏見を持たない人間はむしろ一人もいない方が稀だ。
伝言ゲームは、そうやって尾鰭がついて歪んでいく。今まで謎の多かった学園二大美女の片方、ミステリアスな才女の放った強い言葉は話題性も伴って極めてセンセーショナルに解釈される。
そして、誰もが知る通り。
噂話というものは――悪印象の混じった方が桁外れに拡散されやすいのである。
「ひどい」「ありえない」「意味わかんない」「性格悪すぎ」「最低」「人でなし」「人の心が分かってない」「調子乗ってる」…………、……。
「…………」
翌日、昼休みになる頃には。
既に学内のそこかしこで、そんな言葉が囁かれるようになっていた。
「……やー、思った以上に持ちきりだね」
「夕凪。なんで、ここまで」
同様の噂を聞いていたらしく、隣の席で呟く星歌にそう問いかけると、彼女は苦い表情でこう答える。
「やっぱ、夜波先輩だからじゃないかな。ただでさえすごく美人で目立つ上に、これまで『この人はこういう人』って性格的な情報がほとんどなかったからミステリアスって言われていたわけだしさ。そんな中で……どこまでが事実かは分かんないけどああいう告白の断り方をした、って噂が出たらみんなが食いつくのも無理はないかも」
そこまで告げた後しかし、「まぁ、だとしても……」と少し訝しむような表情に変え。
「確かにちょーっと、悪意強めの噂が多すぎる気もするなぁ。この学校、進学校なだけあって良識的な人が多いと思うんだけどなんでだろ……」
「――そういう方向に誘導されてんだよ」
発された疑問は、そこで教室に入り席についたもう一人の友人によって解答された。
「影司、どゆこと?」
「意図的に悪い部分だけ抽出して拡散してる奴がいる、ってこと。さっきまで校内回って軽く探ってみたけどそういう方向性が見られたし、出どころも大まかにだが推測できた」
目を見開く二人の前で、影司がその答えを述べる。
「多分、芸能系一芸入試組の女子生徒連中だ」
「芸能系……」
所謂、アイドルとかモデルとかその辺りだろうか。確かに旭羽高校はそういう一芸も受け入れているし、その手の専門学校に事情があって入れなかったり、親の意向等で偏差値も必要だったりする生徒たちが毎年何人か入学していることも知っている。
「……あー、なんとなく察しがついた」
「ああ。そういう奴らって所謂見目の良さや華やかさを磨いて仕事にしてる人間だろ? それを自分の武器にして、多分小さい頃からも人の注目を集めてきただろうさ。ひょっとしたら、中学まではそれこそ『学校一の美人』だのなんだの言われてきたかもしんねぇ。にも拘わらず、高校では――」
そこまで言われれば、燎にも理解ができた。
中学までは自分が人の視線の中心で、それに誇りを持ち、自信も持っていたのに。
高校では、自分を差し置いて芸能系の人間でもないほたるが学年二大美女だなんて言われて注目されている。もう一人である生徒会長も芸能系の一芸入試組ではないそうだし……尚更嫉妬心を抱いていたところに、今回の噂がきて。
ここぞとばかりに、ほたるを貶めるべく噂を悪い方向に加速させているという流れか。
「つまり、逆恨みってことかよ」
「気持ちだけなら分かんなくもないけど……そこまでしちゃうのはなぁ」
歯噛みする燎に、やるせない表情で呟く星歌。
二人も常ならば、もう少しそこに加えて怒りの感情も発していたかもしれない。
でも、今回ばかりはできなかった。なぜなら、
「…………」
半端に怒ることが失礼に思えるくらいに、影司が。
出会ってから今まで見たことのないほどの怒りの感情を、抑え込んでいる中にさえ表情で見てとれるほどに表していたから。
「影司。君なりに抑えてるのは分かるけどごめん、大分顔怖い」
「っ、あー悪ぃ」
言われて気づいたようで、申し訳なさそうな表情に戻す。
正直なところ意外だった。ほたると親しい人間ならともかく、そこまで交流の無い人間の噂でここまで怒りを顕にするのは……なんて疑問が顔に出ていたのだろうか。
影司が、困ったようなぎこちない笑みを浮かべて少し迷う素振りをした後。
「んーと。俺は基本、好きなものだけ語っていたいタイプなんだけど。その方が話す側も聞く側も気分良いと思うし、楽しいだろうからさ。
……でも。その上で尚、今はこれだけ言いたい」
吐き出すように説明してから、一言。
「――俺、こういうのだけはいっちばん大嫌いだ。他人の粗探しをしてここぞとばかりに攻撃して、相対的にしか自分を上げようとしない連中が、一番」
凄絶、とも言える表情だった。明るく、爽やかな笑顔が似合う整った容貌であるからこそその迫力は際立っており。
そう考えるに足る何かがあったことは、一目瞭然で。
……当たり前のことを思い出す。
自分達三人は、所詮まだ出会ってひと月半だ。当然お互いの知らない面なんてたくさんあるし、その中には今の影司のように極端な側面もあるだろう。
でも。
「すまんな、変なこと言った」
「いやいや変ではないよ。うん、大丈夫、びっくりはしたけど……安心もしたから」
「ああ。……お前がそこまでちゃんと怒ってくれるのは、むしろ頼もしい」
少なくとも今の言葉には、素直にそう思った。それを正直に星歌と共に伝えると、影司はこちらも安心したように笑って。
「サンキュ。まぁそういう訳で、噂は出来る限り生徒会でもなんとかしてみせるさ、最低限出どころは断てるようにする。体育祭も近いんだ……せっかく皆が楽しみにしてる青春の場を、くだらない話題で潰したくはねぇしな」
いつも通りの調子でそう言ってのける影司。決して簡単なことではないだろうが平然と言えるのは相変わらずすごいな、と思いながら彼の方を見ており。
「……頼もしい……か」
そのせいか。燎の最後の言葉を反芻してこちらを見る星歌には、その時には気づかなかった。
放課後。
早速影司は意図的に悪意の尾ひれをつけて噂を歪めているだろう生徒たちに会ってくるらしい。噂話などしらばっくれられればそれまでとは言え、少なくとも目をつけていることを伝えるだけである程度の抑止力にはなるだろうとのことだ。
「……」
影司がこの件に関して沈静化させようとしてくれるのは素直にありがたいし、彼ならば自分よりもよほど上手く色々と片付けてくれるだろう。
でも……影司を責める気は微塵もないが、恐らく仮に首尾良く行ったとしても厳しいだろうなと思う。
既に、ここまで告白の件は広がってしまった。仮に出どころを断ったとしても、既に火種は盛り上がっている。まさしく人の口に戸は立てられないの格言通り今後も広がり続けるだろう。
何より、彼女が告白を断る際に言ってしまった言葉自体は事実である以上。
彼女がどうしてああ言ったのかはまだ分からないが……それに付随する印象だけは拭い去れない。『夜波ほたるは告白した人にそう言い放つ人間である』ことから連想される明確な悪印象は、よほどの事がなければ今後もずっと纏わりつき続けるだろう。
それは、漫画の描写力を上げるために『周りと積極的に関わる』ことを課題としている彼女にとっては、この上ない逆風に違いなく。
(……なんで、こうなるんだろうな)
もし、彼女が今噂されている通り。完全に漫画を描くこと以外に興味がなく、周りに何を言われようと気にしない人間であったのならまだ幾分か燎も気が楽だっただろう。
でも……ほたるはそこまで冷血な人ではないと、もう知ってしまっているから。
「……くそ」
その事実を認識するとまた、何故か行き場の無い苛立ちが燎を襲う。
けれどそれは今考えることではないと無視して、別のことに思考を回す。
――自分は、何が出来るだろうかと。
でも、昼休みからずっと考えていても――出た結論は、『何もできない』だけだ。
だって当たり前だ。自分がそうやって周りからの逆風に悩まされていた時は、その全てをシャットアウトして殻に閉じこもることしか、創作の世界に逃げ込むしかできなかった。
ならば、それができなくて苦しんでいる彼女のために役立つ知識の持ち合わせなど、最初からあるわけがないに決まっている。
……馬鹿みたいだ。
自分と同じ目に遭ってほしくなくてほたるを手伝い始めたのに、いざ彼女が困っているときは有用な解決策など何も思い浮かばず突っ立っているだけ。
やっぱり折れてしまった人間に、今戦っている人間の苦しみに寄り添うなんて、土台無理な話なのだろう。
「くそ……ッ」
自分が腹立たしくて、情けなくて、やるせなくて。
顔を歪めて拳を握り締めた……その時に、がらりと教室の扉が開き。
「……燎?」
入ってきた女子生徒が燎の姿を認め、驚きで軽く目を見開いた。燎も意外そうな表情でその生徒の名を呼ぶ。
「夕凪。どうした、今日はすぐ帰ったんじゃ」
「普通に忘れ物。それよりどうしたはこっちの台詞だよ、こんな時間まで教室で何してたの……っていうか」
時計を見ると、既に放課後になってから相当の時間が経っている。思ったより考え込んでいたらしいと若干驚く燎に対し、星歌は眉を寄せる。
「顔、結構すごいことになってるよ。本当に何してたのさ」
どうやら、相当訝しまれるような表情をしていたらしい。
「昼休みの頃から結構思い詰めた顔してたけど、やっぱり何か悩んでたりするんじゃない? 全然話くらいなら聞くけど……」
そのまま、いつも通りの口調でそう問いかけてくる。
彼女なりに最大限、気を遣ってその申し出をしてくれたことはよく分かった。
……だからこそ、甘えてはいけない。多分今燎が抱えているものは、彼女が想定しているよりも遥かに重いものだ。話されても、困るだけだろう。
だから、半ば無理やりに燎は顔を微笑の形にとって。
「心配させてすまん、でも夕凪に話すような内容じゃないから。辛気臭い顔で教室にいて悪いな、すぐに退く」
そう告げ、いつも通りの口調と動作を心がけて鞄を取って。教室を後にしようと立ち上がって教室の出口に歩み出したが、そこで。
「――っ!」
ぱしり、と乾いた音と同時に引っ張られる感覚。
驚きと共に振り向くと、燎の右手首が星歌の細い指に掴まれており。意外なほど熱を持った感覚が伝わってくる。
「夕凪?」
「……えっと。こういう強引なのは柄じゃないって分かってるんだけど……」
続けて告げられた言葉に、更に瞠目して顔を上げ星歌の顔を見ると。
「――流石に今のは、かちんときた」
彼女は、言葉通り。
端正な顔に、確かな怒りと……それを遥かに上回るこちらを案じる色を浮かべて、まっすぐに燎を見据えてきていた。
「あのさ燎、確かに私らは仲良くなってたかが一月やそこらだよ。お互いのこともまだ全然知らないし、深いところまで話すような仲じゃないって言われたらぐうの音も出ない」
「……」
「でも、でもさ。少なくとも私は、燎とも影司とも初めて話した時からびっくりするくらい気が合ったし、楽しかったよ。普通ならやっかまれても仕方ないようなことも、君らならちゃんと聞いてくれるって話すくらいには信頼してた。
……そんで、そっちもきっとそう思ってくれてるんだろうなって思ったのは、私の勘違いだった?」
「!」
「燎は多分今、こっちに遠慮して話すのやめたよね。下手なものを背負わせるわけにはいかない、重い話をされても困るだろうって。でも……」
そこで星歌は、握った燎の手首を軽く引き寄せ。
「『夕凪に話すような内容じゃない』って、何さ」
顔を近づけて。感情ごとぶつけるように、言葉を紡いだ。
「悩みを話す価値すらない相手だって思われてる。私はそっちの方が、ずっと傷つく」
「……あ」
「ていうかもうここまできたらぶっちゃけて良い? 私、君がどんなことで悩んでるか大体予想つくんだけど。夜波先輩のことでしょ?」
真っ直ぐな宣言の後、流れるように図星を突かれて燎の体が強張る。
「やっぱり君、夜波先輩と知り合いだよね。いくらなんでも気づくよ、昨日と今日で一番変わったことなんてそれしかないし……あと今日、影司が噂を沈静化させるために動くこと聞いた時『頼もしい』って言ったよね。それって、夜波先輩が噂みたいな人じゃないって知ってないと出てこない台詞じゃん」
完璧な推察に、ぐうの音も出ないのは燎の方だった。
勢いのまま、星歌は若干気まずそうな表情をしつつも続けて。
「ああもう、本当柄じゃないし正直かなり恥ずかしいけど、そういうの分かるくらいには君らのこと見てるしこれからも仲良くしたいと思ってるの、何かあるなら聞きたいって言ってんの! ……だから、一旦私に迷惑とか置いといて。燎が話したいと思って、燎の迷惑じゃないなら……」
慣れない言葉で顔を赤らめつつ、それでも最後に、縋るような目線を向けて告げる。
「……ちゃんと。友達、させてよ」
…………改めて呆れ返る。自分の情けなさ、至らなさに。
ほたるのために何かをしたいと悩んで、自分だけでは何もできずに、資格がないと苦しんで。
――じゃあ、他の誰かの力を借りる。そんなことすら考え付かなかったのかと。
自分の力で何とかしたいとこの後に及んで甘えた考えを持っていた愚かさも、友人を案じているふりをしてその気遣いを踏み躙っていた後悔も、今は飲み込んで。
「悪かった。確かに正直なところ、自分一人で考えるのは限界があったんだ。……聞いてくれるか?」
まずは素直に謝り、ありがたく申し出を受けて頼もしいクラスメイトに相談を持ちかける。
「! ……ん、まかせてっ」
その言葉を受けて、嬉しそうに柔らかくはにかむ珍しい星歌の様子を見て。
……彼女が、クラスの皆や他クラスの生徒にも可愛いと騒がれるのも納得だよなと改めて思いつつ。言葉をまとめて、星歌と共に再度席に着くのだった。