16話 二人の距離
「すっごく良かった……!」
曲が終わったのち。
イヤホンを外すと、ほたるが興奮した様子でこちらを向く。
「すごいね、なんていうんだろう、爽やかなのにすごく熱いっていうか、今すぐ走り出したくなるっていうか……とにかくすごかった!」
「先輩、仮にも漫画家志望がその語彙力はどうかと」
若干呆れ気味に言うが、確かに。言葉が浮かばないほどの感動というものはあるし、自分の勧めた曲でそこまで喜んでくれたのは、素直に嬉しい。
「でも、ほんとに良かったよ。多分あたしこれ、家に帰ってからあと百回くらいリピートするかも」
「そこまでですか」
「そこまでです! 逆に、かがり君はそういうことないの?」
「……いや、まぁ。俺も初めて聴いた時はそれくらいしましたけど」
「でしょー」
えへへ、と無邪気に笑うほたる。けれど、普段はしばらく続くはずのその笑顔は、程なくして微かな曇りを見せる。
「うん、すごいよね。こういう……聴くだけで情景が浮かぶような、人の心を揺さぶるような。そういうものを、作れる人はさ」
自分も作りたいのに、という本音がその裏にあることは明白な言葉で。
……まぁ、仕方ないだろうと思う。
「ご、ごめんね。色々言うこと聞いてもらってるのにこんな」
「いえ、仕方ないでしょう。何週間も何ヶ月も時間をかけて頑張って、その時の全てを懸けて作ってきたものが一度真っ向から否定されたんです。気持ちは……少しは、分かるつもりです」
「……かがり君」
「お前の全てが無意味だって言われてるようで、心臓の奥に真っ黒な穴が空いたようなどうしようもない気分になる。落ち込んで、ネガティブになって、何もかもがマイナスに見えて……そう簡単には、立ち直れませんよね」
ああ。自分を懸けてものを作るとは、そういうものだ。全てを捧げてしまったからこそ、否定された時に受けるダメージは桁違い。常にそのリスクを孕む所業だと。
良く、知ってる。
そんな燎の言葉を受けたほたるは少し驚いた顔をした後、表情を和らげて。
「きみはさ、すごく良く分かってくれるよね。初めて会った時もそうだったけど……『作る側』の気持ちを、丁寧に汲み取って寄り添ってくれる」
「そんな御大層なものじゃないですよ。ただ……先輩が頑張ってきたことを、近くで見てきたから多少共感できるだけで」
「ううん、それだけじゃない。あ、いやもちろんそれも嬉しいんだけど……やっぱり今の言葉はさ、本気になったことがない人には出てこないものだと思う」
そして、ほたるは彼女にしては珍しい……何処か怯えるような、それでも踏み込むような表情で。
「だからさ……聞いてもいいかな、かがり君」
こう、聞いてくる。
「……きみも、やってたの? 何かを作ること」
「……」
「多分だけど、音楽関連……作曲方面で」
……まぁ、流石にいずれはバレるだろうと思っていたが。
否定できるようなことではないので、ここは素直に頷く。
「ええ、まぁ。中学の頃ですかね、やっていたことはありました。先輩が河川敷で最後に歌った曲とか、今の曲とかを作った人に憧れて、自分もって作り始めて」
特別何かがあったわけではない、ありふれた話だ。
親からある程度の自由なインターネット使用が認められた中学の頃、若者に人気な動画投稿サイトを漁っていたときにその曲に出会って。人生が変わるほどの衝撃を受け、何時間もその曲だけをリピートして。その作曲者の他の曲や、他の人が作った曲も聴いて、大好きになって。
やがて、自分も作りたいと思うようになるまで、そう時間は掛からなかった。
ネットで作曲をする方法を調べて、デスクトップミュージックの存在に辿り着き。自分が最初に憧れた作曲家――主に『夏』をテーマにした爽やかで透明感の高い楽曲で人気を博しているその人も、同様の手法で初めての作品を高校一年の時に制作したらしいとも知り。
じゃあ、自分も今から始めればもっと……だなんて馬鹿馬鹿しい期待を抱いて、必要ソフトを購入し。幼い頃通っていたピアノ教室の知識と、姉が実家に置いて行ったギター。そしてソフトを手元に、中学二年の春に準備を整え。
若く、無謀だけれど。それでも眩く真っ直ぐな、熱い目標を持って活動を始め。
――そして。中学三年の夏に、辞めた。
「なんで……って、聞いても良い?」
「これも大したことはないですよ。ずっと思うような結果が出なかったことに加えて……親が、あまり俺が曲作りにかまけることを快く思っていなくて。その圧力とか諸々が重なって、ある日折れてしまった。それだけの、話です」
そう、本当にそれだけだ。
別に辞めるに足る劇的な出来事があったわけではなく、辞めなければならない不幸な事故があったわけでもない。
たかが他人に何か言われた程度で折れてしまった自分が、悪いというだけで――
「んなわけないでしょ」
だが、そこで背後から聞き覚えのある声。
驚きと共に振り返ると、歩いてくる人影。姉の灯が、呆れと苦味の等分に混じった表情でこちらに歩み寄ってきていた。
「ともちゃん! え、なんで」
「そこの弟に呼ばれたのよ。……確かに、いくらこっちが気まずいからってあそこで別れてそのままの方がいけないと反省したから。――ま、今はそれより」
……いや、確かに余裕があれば来てほしいと言ったし、何も悪いことはないのだが。
それにしても、なんてタイミングで来てくれるんだ。苦い表情と共に、燎は自分を見据える姉に思わず強めの口調で言葉を発する。
「姉さん……嘘は言ってないだろ、今話したことが全てだ」
「ええ、そうね。結果が出なかったことと、親の反対に押されて辞めた。一言だけで言うなら、確かにそうなるわ」
でも、とそこで言葉を区切って、一息に。
「作曲していると分かった途端、あなたがこれまでのお年玉をはたいて買ったソフトの入ったパソコンも、ギターもピアノも全部問答無用で取り上げて」
「え」
「それでも学校のパソコン室にソフトだけ持って行って作曲を続けると、今度はあなたが投稿したサイトをストーカーじみた執念で突き止めて、出す曲出す曲全部に徹底的にイチャモンをつけて、毎日毎日顔を合わせるたびに否定の言葉しか言わなくなって」
「――」
「挙句の果てには、作曲を辞めさせるためだけに強制的に塾に通わせて自由時間を奪い、学校に直談判してまであなただけパソコン室の自由使用を禁止し、家ではネット環境すらない部屋に閉じ込めたことを」
『親の反対』の一言で片付けるなら、そうでしょうね――と。
灯が言い終える頃には、ほたるの顔は蒼白になっていた。
「姉さん」
「っ。……そうね、その時あなたを助けられなかった私に、これを言う資格は無いわね」
それではない。灯を恨む気持ちは欠片もない。
ただ……ほたるの前でそれを言う必要は、絶対になかっただろう。
彼女にそんな思いはして欲しくない。燎がほたるに協力することを決めた大きな理由の一つが、それだったのだから。
「……かがり、君」
「先輩。……忘れてくださいと言うのは無理があるでしょうが、気にする必要はないです。少なくとも俺の中では辞めたことに納得しているし、折り合いもつけているので」
と話すが、まあ流石にこんな話を聞いた後ではまともな話はできないだろう。
実際そこから二言三言言葉を交わしたが、ほたるが明らかに挙動不審になっていたので。編集と二人での話もあるだろうと言って、夕食の準備をするために席を立つ。
「あ、その、かがり君!」
けれど、そんな彼の背にほたるが声をかけ。振り向く燎に、ほたるは少し言葉に迷うような素振りをした後。
「えっと……ごめん、ちょっと正直今混乱してる、けど……」
「……」
「少なくとも、あたしは。今の話を聞いて情けないとは、思わなかったよ」
……随分と、曖昧な言葉だ。
けれど何故か、響く言葉だった。
「……ありがとうございます」
複雑な表情でそれだけを返して。今度こそ、その場を離れるのだった。
◆
「……あの馬鹿。本当に割り切れてるなら、そんな表情するわけないでしょうが」
燎が去っていく方角を見つめ、灯がなんとも言えない顔で告げたのちにほたるの方へと向き直る。
「ごめんなさいね、ほたるちゃん。確かに、今のあなたの前でするような話じゃなかったわ」
「う、ううん。それはいいんだけど……」
ほたるも同様に、燎が歩き去った方向を眺めていた。
そんな彼女の胸中を占めるのは……先ほどの話と、その時に彼が見せた表情。
「……かがり君のあんな顔、初めて見た」
「でしょうね」
「あんな、ちょっと聞くだけでひどいって分かる過去を抱えてることも、全然言ってくれなかった」
「あの子、結構意地っ張りなところあるのよね。だから何があっても失敗を他人のせいにしたがらないし、『不幸自慢になるだろ』って言って話すことも無いのよ。……ま、何でもかんでも自分以外が悪いって喚き散らすよりよほどマシだとは思うけど」
おかげさまで、話を聞き出すだけでも大変だった――と当時を振り返る灯に。
囁くような、ほたるの声が耳朶を打つ。
「……かがり君のことなら、気持ちなら。結構知れたと、思ってたんだけどな……」
その声には、少しばかりの拗ねた響きと、寂しさが宿っていて。
あまりにいじらしい表情でそんなことを言うものだから思わず抱きしめてしまいそうになるのを抑えつつ、優しく問いかける。
「知りたいのよね? これまで、色々と普通とは違うあなたに真っ直ぐ向き合ってくれたあの子のことが。じゃあ、聞いてもいいんじゃない?」
「それは……っ。でも……」
けれど、ほたるから帰ってくるのはこれも珍しく、何処か苦悩を滲ませた切なげな声。
「あたしでも、これくらいは分かるよ。人には訊かれたくない部分があって……それで、かがり君にとっては今のがその部分だってこと」
「……まあ、そうね」
「じゃあ、だめだよ。そこを無視して、あたしが知りたいからって理由だけで首を突っ込んで……また、疎ましがられて嫌な気分にさせちゃうのは」
「……」
「普段は何でも答えてくれるかがり君だからこそ、そこは、本当に聞いちゃいけないところはあたしの方で見極めないと。じゃないと、また嫌われちゃう。また……特にかがり君に嫌われるのはすごく、なんでか今まで一番すごく、辛いの」
だから、だめ。と遠慮する理由を言い終えたほたるは寂しげに笑って、締めくくりに告げる。
「あたしは、『人の心を理解できない』らしいから」
聞き終えた灯は……とりあえずあの講評を書いた編集は絶対に後でシバくと決心しつつ思う。
(……本当に、この子たちは)
絶対に弱音を吐いて良い経験をしているくせに強がって、自らを罰するみたいに溜め込みすぎて不器用に意地を張る少年と。
奔放に、真っ直ぐ目標に進んでいるようでありながらどうしようもなく繊細な部分を内側に隠し持って、不器用に気を遣うことしかできない少女。
不器用で、拙くて。どうしようもなく、愛おしいくらいに不器用で。
こういう子たちが羽ばたけないのは、囚われて閉じこもってしまうのは。
……自分の職業柄。そして個人的にも、絶対に嫌だと思ったから。
「ねぇ、ほたるちゃん――」
だから灯は、彼ら二人と出会い、不思議な関係で結びつけた張本人として。この二人が、お互いに良い影響を及ぼしてくれたら良いなと願う心のままに。
まずはこの少女に。お節介という名のアドバイスを一つ、与えるのだった。
次回、燎君の過去のお話。読んでいただけると嬉しいです!