6 エピローグ
家族水入らずである。猫の吾輩も、この家の家族の一員として扱われた。主人の奥方は、そういう女性であった。龍之介くんの前で、彼女の実の子供のように吾輩へと接してくる。恥ずかしいのだが、龍之介くんと兄弟のように扱われるのは気分が良かった。不愛想な主人でさえ、今日は口元をほころばせて、奥方と吾輩の方を見ている。
家族水入らずの描写は適当に省略する。それは仲が良い家庭なら、何処でも見られる光景である。吾輩は今、平和な時間に居るのだと実感する。
吾輩は漱石先生が詠んだ、菫の俳句を思い出す。小説の神様が居るという、二〇二二年の四月を思う。菫の花が咲くのは三月末らしい。外国の戦地で、菫の花は咲いているのだろうか。
厳しい環境の中で、たくましく咲く花に目を向けた漱石先生の偉大さを吾輩は再認識する。先生が今の時代を生きていれば、やはり何かを述べたであろう。我々が継ぐべきは、その「何か」である。一言で表せば「魂」だろう。
目には見えなくとも必要なもので、愛や希望や物語も、同様に人間には必要なのであった。
夜になった。吾輩、こっそりと外出する。主人の奥方が中々、吾輩の事を放してくれないので苦労した。向かう先は、お白さんの家である。
「あら、吾輩さん。会いに来てくれたのね、嬉しいわー」
お白さんは、屋敷の門の前で出迎えてくれた。吾輩はお白さんと門をくぐり、広い庭へと移動していく。ロマンチックな夜である。
「今日はですね。主人から、漱石先生のエピソードを聴いたんですよ。それをお白さんに伝えたくて来ました」
「まあ、興味深いわ。ぜひ、話して聞かせて」
エピソードとは、漱石先生の晩年の門人である、和辻哲郎という先生に寄る話である。和辻先生は、芥川先生より三才年上だった。そして芥川先生より三十三年、長く生きた。
吾輩、不勉強で、この和辻先生が書いた著作は読んでいない。しかし彼が記した漱石先生とのエピソードは実に読みやすかった。『漱石の人物』というタイトルだ。これは無料で、ネットを使えば読める。
和辻先生が漱石先生と直接に会ったのは、二十代の頃である。大正二年の十一月に、初めて漱石先生の家を訪ねたとある。この三年後に漱石先生は亡くなる。
『漱石の人物』では、和辻先生から見た漱石先生の姿が書かれる。「良識に富んだ、穏やかな、円熟した紳士であった」で、つまりベタ褒めと言っていい。後に夏目家の長男が、漱石先生に付いて「癇癪持ち」としか記憶してない事から、和辻先生は漱石先生が家庭で上手く行っていなかったという事を知ったと。そういう事が書かれている。
「それでですね。大正五年、つまり漱石先生が亡くなる年の春に、和辻先生は漱石先生の家を訪れたんですね。そこには滝田樗陰という、雑誌の編集長が居て、漱石先生に習字を書かせていたんですって」
漱石先生は、李白の詩を書いた。人静月同眠という五字が李白の詩で、読み下すと、「人静かにして月同じく眠る」となる。人も月も静かに眠っている、という事である。
「でも漱石先生は、その詩を一字、変えちゃったんですね。雑誌の編集長が、『それは間違いだから、書きなおしてください』と言って。漱石先生は、自分が書いた詩を『これは和辻君にやろう、なかなかいいじゃないか』と与えて。和辻先生は、その詩が書かれた紙を掛け軸を、長く愛蔵していたそうです」
漱石先生が書いた五字の詩は、次のものである。
人静月同照
人静かにして月同じく照らす、と読む。月が輝くのは闇の夜である。世の中は時に暗くなる。そういう時に、人も月のように、静かに輝いて世を照らすのだ。それが漱石先生の求めた理想であったのだろう。以下、和辻先生の文章を引用する。
「これは漱石の晩年の心境を現わしたものだと思う。人静かにして月同じく眠るのは、単なる叙景である。人静かにして月同じく照らすというところに、当時の漱石の人間に対する態度や、自ら到達しようと努めていた理想などが、響き込んでいるように思われる」
そういう話であった。吾輩とお白さんは夜空を見上げる。雲が掛かっていたが、いいタイミングで雲の間からは満月が出てきた。
「月が綺麗ですねー」
「ええ。とっても、月が綺麗ね」
吾輩とお白さんは、寄り添い合って夜空の月を眺める。アイ・ラブ・ユーを「月が綺麗ですね」と訳したという漱石先生は、やはり凄い先生であった。スーパー・ロマンティストである。
「知ってますか、お白さん。吾輩達、百二十才まで生きるらしいですよ」
「あらー、素敵じゃなーい」
吾輩はお白さんと生きる。だらだらと太平楽に百二十才まで生きる。生きて生きて、そろそろ飽きて世を去って、また転生して戻ってきて「いい加減にしなさい」などと突っ込まれる。
物語という名の吾輩は、過去にも現在にも未来にも存在する。どの時代の何を題材にするのも自由である。異世界にだって行けるかも知れない。異世界は良く分からないから、行ってすぐに戻るかも知れない。物語を終えなければ次回作は得られぬ。
吾輩、心の中で読者に感謝を告げる。ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。最後まで読んで頂いて、ああ有難い、有難い。
終了です。今後も夏目漱石先生をよろしくお願いします。




