7 帰ってきた猫ちゃん、悪と対峙する
ところで先に、『門』の公案に付いて回答をしてみよう。あらためて紹介すると、「父母未生以前の本来の面目」である。父と母が生まれる前の自分とは、どのような存在であるかという問いだ。
答えは簡単である。吾輩は猫であった。そして百年以上前に、猫は漱石先生に寄って語られた。今も昔も、物を語る猫の話があった。これは別に、吾輩が、漱石先生が書いた猫の生まれ変わりという訳ではない。しかし、似たようなものとは言えるかも知れない。
こう考えてほしい。今も昔も、そして未来にも人が居る。人が生まれれば、それぞれのストーリーが発生する。人生とは物語なのである。連綿とした、川の流れのような、それぞれの物語が続いていく。天の川のように、光る魂の流れが今の吾輩には見える。
命は愛と共に誕生する。「違う」と言う者も居るかも知れぬ。命は偶然の産物でしか無いという主張はあるのだろう。
しかし漱石先生が書いた、猫の話はどうであろうか。あの猫は何処から生まれたというのか。答えは、「創作者の愛から」である。仮に人類が創造主の愛から生まれたとすれば、その後に何があろうが、創造主の愛は否定できまい。人も物語も、愛から生まれてきたのである。
つまり公案の回答は、「吾輩は物語る猫である」となる。もっと単純に「物語」でもいいし、「命」でも「魂」でも良いかも知れぬ。正解でも不正解でも、それはどうでもいい。
今、吾輩が見ている光景は、過去と現在と未来が一体の世界だ。吾輩は過去であり現在であり未来である。百年以上前に漱石先生は猫の物語を記した。その猫は亡くなったが、その後に蘇った。何故か? 追随者の愛に寄って、新たな物語が作成されたからだ。
愛がある所に、復活がある。漱石先生が書いた猫も、吾輩も無名であった。つまり少数派に過ぎなかった。吾輩は仔猫時代に死にかけ、水たまりで喉の渇きを潤していた。
過去も現在も未来も、爆撃で家を失った者が居る。死にかけた子供が居る。彼らを救うものは愛である。彼らの渇きが潤される事を吾輩は願う。愛に寄る復活を願っている。どうか少数派に愛を与えてほしい。
何が善で、何が悪かは分からないと良く言われる。だが今の吾輩は寝ぼけている。言ってしまおう、侵略戦争を行う独裁者は悪であると。未来からはイーロン・マスク氏が何処かの大統領に決闘を挑んだというニュースが聞こえる。漱石先生の遺志を継いで、猫の吾輩は帰ってきた。吾輩は吾輩の言葉で、未来の悪と対峙する。
それほど時間は掛からない。この世界は時間の流れが特殊である。これから色々と述べるが、それが終わるまでには一秒も掛からない。そう思って欲しい。
吾輩の前には未来に存在する悪が見える。彼は言うであろう、「これは帝国の領土を取り戻す戦いである」と。かつてナチスを率いたアドルフ・ヒトラーもそう主張した。
彼には彼の正義があるのだろう。その正義とやらが社会的、国際的に認められるかは別である。ドストエフスキーが書いた『罪と罰』の主人公にも、彼なりの正義はあったのだろう。その正義は認められず、彼は殺人者として裁かれた。彼は失敗した革命家である。
彼はまた、言うのであろう。「我が国だけが責められるのは不当である。あの国は侵略戦争を行ったではないか、あの国はナチスと手を組んだではないか。そんな奴らに我が国を批判する資格は無い」と。なるほど、なるほど。
何処の国にも血塗られた歴史はあるのだろう。この理論では、何処の国も彼を責める資格は無いらしい。ならば吾輩が、彼を批判できる存在を示そう。それは人類の創造主である。
創造主は言うであろう、「黙れ、小童」と。更に続けるであろう、「吾は十戒を石板に刻ませた。汝、殺すなかれ。姦淫するなかれ。盗むなかれ。吾は言を物語る者である。たかだか百年も生きていない若造の口答えなど、吾は認めぬ」。
漱石先生は『草枕』で、「憐れは神の知らぬ情」と書いていた。神とは怒れる存在かもだ。
吾輩、夢の中で赤子と青子に『草枕』を語っていた時の事を思い出す。あの時、吾輩の脳裏には閃きが起こった。「神様……小説の神様……吾は物語る者……愛……復活……憐れを知る者……吾輩は猫である……」と、これだけの断片的な言葉が浮かんでいたのだ。
聖書は最大のベストセラーである。なるほど、創造主とは、吾輩が出会った「小説の神様」の上位存在であるのかも知れぬ。
創造主の言葉には容赦が無い。もう少し穏やかなアプローチも、独裁者に対して必要かも知れない。十字架の上で息絶えた聖人なら、独裁者が抱える苦悩やストレスを憐れんだかもだ。
聖人も独裁者の侵略戦争は悪と見なすだろう。しかし彼の訴えには耳を傾けるかも知れない。「盗人にも三分の理」と言われる。侵略戦争を正当化する言説はあるのだろう。
吾輩なら、こう言う。「かつて日本も、大日本帝国として軍国主義を進めていた。当時の日本も、自国の正義を信じていた。その後、敗戦となって、日本は悪として裁かれたのだ」と。
自国の正義とやらも、どれほど正当なものであったか。言論統制に寄って行われる正義というのは信用できない。物書きの作家が処刑されるような国の正義は、漱石先生だって信じられなかったであろう。
吾輩は彼に言う、「敗戦とは惨めなものだ」と。敗戦までの過程は、国際的に孤立して経済制裁を受けて、国は貧しくなって追い詰められていく。何も良い事が無くなって、最後に原子爆弾を落とされる。日本は二発の原爆を落とされた。彼の国は最悪の場合、それ以上の数を落とされる。
周囲の国も無事では済まないだろう。彼の国は消滅するかも知れぬ。それが本当に望みなのか。
吾輩は彼に提案する、「撤退せよ」と。大国であれば、早期に停戦すれば敗戦のダメージも抑えられるであろう。吾輩は彼の国の兵隊に言う、「続ければ続ける程、君達の命と名誉は失われていく」と。蛮行の記録は百年後も残るであろう。略奪者、殺人者、戦争犯罪者として記録される事を本当に君達は望んでいるのか。
吾輩、言うべき事は言った。所詮、猫の説教である。言論は時に無力だ。未来に向けて、吾輩が出来る事は、ここまでである。
ふと吾輩、百年後に龍之介くんと『行人』に付いて話している光景が見えた。そこで最後に述べた言葉を繰り返そう。
「未来は決して、暗い話ばかりではない。だから希望を持って、今の時代を生きてほしい」である。今という時代を、何とか明るい未来に繋げてほしい。それには明るい夢を持って生きる事だ。当たり前の話だが、我々は今という時代を懸命に生きるしか無いのである。
そろそろ吾輩、本来の目的に戻る。これから行う事は、龍之介くんには見せたくない。
言論で緊急の暴力は止められないのだ。吾輩は雪子を見つけ、助け出さなければならない。
吾輩、意識を現在に向ける。雪子の居場所をテレパシーで探す。彼女が出かけたのは東京の範囲内であろう、ならば見つけられると吾輩は確信する。
人の意識だけが今の吾輩には見える。暗闇の中に、白い影が大勢、動いている。ややあって、主人の家の庭で会った意識を見つけ出す。雪子の意識というか魂は、名前の通りに白かった。
その雪子を付け狙う者が居る。性別は男で、意識に変調が見える。ストレスに寄る病的な状態なので、吾輩から見れば目立ちやすかった。
まだ外は雨が降っている。雪子は家に帰る途中であろう。おそらく傘を差していて、だから背後から尾けてくる男の存在に気づいていない。
吾輩、雪子を尾けている男から苦悩を感じる。彼は何かを失ったのだろうか。領土を失った独裁者も同様に苦悩しているのか。だからと言って、この男や独裁者の行為を容認する訳には行かぬ。
男は手に刃物を持っているのが吾輩には分かる。大きさは分からない。女子の肌を切り裂くには充分であろう。吾輩、右の前足から刀のように爪を伸ばす。爪は一本で、それが二メートル程の長さとなる。吾輩が今居る空間は夢であり現である。想念で爪を伸ばすくらい、大した事では無い。
男の憎しみが見える。負の感情が見える。吾輩、右足の一本爪に、その感情を集める。雷に対する避雷針に似ていて、爪にエネルギーが溜まっていく。男の憎しみを爪で取り去る事は出来ない。吾輩、そのつもりも無い。聖人の真似事は吾輩の能力を越えている。
男が駆け出す。雪子が気配を感じて、立ち止まって振り返る。男の刃物が雪子を襲うまでに一秒も掛かるまい。吾輩、右前足の爪を振り下ろした!
男が倒れ込む。自らの刃物が、彼を襲ったのだ。吾輩が行ったのは、彼の憎しみに寄る攻撃を、彼自身に向けさせる術である。彼の憎しみが大きければ大きいほど、彼自身へのダメージも大きい。助かるか助からないかは、彼次第だ。
吾輩は猫である。だから人の法には捉われない。
いつか独裁者も、猫を恐れるであろう。猫は天性の暗殺者だ。
猫は足音も立てずに忍び寄る。そして爪を振り下ろす。か弱い猫に非道を行わせないよう願いたい。
第九章、終了です。次が最終章となります。
次の更新まで、少し間が開くかも知れません。




