3 猫ちゃん、二郎と一郎を語る
龍之介くんは、大人の飲み物で眠くなってきたのか、吾輩が座っているのとは別のソファーで横たわっている。夢の中で眠くなるというのも不思議な話だが、電脳世界では良くある事のようだ。バーチャルリアリティーのゲーム空間の中に主人公が閉じ込められて、そこで何年かを寝起きするという小説を吾輩、思い出した。
「タキシード姿で寝るんじゃないよ。寝るならパジャマか、ガウンに着替えたまえ」
「いつまで経っても、吾輩さんは僕を子供扱いしますねぇ」
「不満かね。そうだったら申し訳ないが」
「いいえ、その逆です。いつまでも僕を子供扱いしてください」
楽しそうに龍之介くんが笑う。吾輩も笑う。こちらは赤ん坊の頃から彼を知っているのだ。吾輩からすれば、幾つになっても彼は可愛い子供のままである。
「寝ながら聞いてていいからね、『行人』の話を続けよう。小説は長いから、第二部の『兄』と、第三部の『帰ってから』を続けてダイジェストで語っていこうか。第四部の『塵労』にも触れながらね」
家族関係に触れておくと、二郎には両親が居て、更に兄の一郎と妹の重が居る。そして兄の一郎は結婚していて、妻の名が直だ。一郎夫婦の間には小さな女の子が一人、生まれている。
これに加えて、家には若いお手伝いさんの貞が居る。第一部で結婚の話が出ていた女性で、この人は第三部『帰ってから』の最後で無事に式を挙げる。
「一郎は大学教授で、周囲から偉い人だと尊敬されてるんだろうね。母親も、妹の重も一郎の事を偉いものだと評価している。その分、独身の二郎は家の中で浮いていると」
「でも、二郎だって兄の一郎を尊敬してるんですよね」
「そうだね。それも第二部『兄』の途中までだけどね。ちょっと、二郎と一郎の性格にも触れておこうか」
二郎の性格に付いては「性急」と書かれて、兄の性格は、二郎の「五倍がたの癇癪持」と書かれている。要は二郎も一郎も短気で、一郎は二郎の五倍は怒りっぽいという事である。
「二郎は漱石先生の、二十代の独身時代を表した分身キャラで、一郎は漱石先生の結婚後の分身だというのが吾輩の解釈だ。つまり漱石先生は、結婚してからの方が五倍は怒りっぽくなったという解釈が成り立つ」
「神経症が悪化していった、という事ですか」と龍之介くんが確認する。吾輩が頷く。
「当時は精神科で気軽にカウンセリングを受けるとか、そんな事は出来なかった。漱石先生の妻が、夫の癇癪を恐れて漱石先生に睡眠薬を飲ませていたって話があるくらいだ。それは凄まじいものだったろうね」
第四部の『塵労』では、一郎が妻の直に暴力を振るっていたという事が明かされる。漱石先生と妻の間がどうだったかは、漱石夫人や子供達の証言があるのだが、その辺りに吾輩は深く言及しない。擁護にもならないが、昔は今より、妻が暴力を振るわれやすい時代だったのだろうと思う。
「とにかく、一郎も二郎も短気な性格だ。いつかは衝突が起こるのが当然と言える。で、第二部である『兄』の話だ」
ところで漱石先生は末っ子であった。夏目家の長男は漱石先生と十才差で、一郎と二郎の年齢差も同じくらいかも知れない。この長男は漱石先生に英語を教えていたくらい優秀な人だったが、三十一才で亡くなってしまう。
「『兄』では二郎を追いかけてくるかのように、二郎の母と兄の一郎夫婦が大阪にやってくる。そして皆で旅行するんだね。そんな中、一郎が二郎と二人きりの時に、『直はお前に惚れてるんじゃないか』と言い出す。二郎には全く心当たりは無いんだけど、更に『二郎。お前、直と一緒に和歌山で一泊してこい』と言う。そこで直が浮気をしないかどうかを知りたいと」
「酷い話ですよねぇ。何回、聞いても同じ感想になります」
「だよねぇ。一郎が分身キャラだとは言ったけど、漱石先生は当然、ここまで酷い人では無い」
こんなに人を馬鹿にした提案も無いだろう。二郎は一郎を軽蔑し始めるが、結局、押し切られる形で二郎は直と旅行する事となる。
「この時点では語られてないけど、直は一郎から暴力を振るわれてるからね。夫と離れた方がリラックスできるかも知れない。直には一郎から話を通されたようで、二郎が直を連れて和歌山に日帰りで旅行するという形式になる。母親は変な顔をしてる」
「それはそうですよね。弟と兄嫁の間で、間違いがあったら困りますし」
「その間違いが起こらないかを、一郎としては確かめたいんだね。故障点検みたいなもので、『論理のない事もあるまい』と一郎が言う。『倫理上の大問題ですよ』と二郎が返す。もう笑い話みたいなものだよ」
一郎というのは、「一周廻って基本、バカ」という人物に書かれている。少なくとも吾輩には、そうとしか読めなかった。
「『お前、秘密兵器を持ってるだろ? 持っていないって言っても信じないから攻撃する』という大国みたいなものだねぇ。暴力で他国を征服する事しか考えられない。愛も他人も信じられないというのが一郎じゃないかな。まあ、ともかく」
吾輩、ちょっとチューブのゼリーを飲んでから続けた。
「一郎と母親は和歌の浦という所に泊まって、二郎と直が和歌山に行く事となる。二郎はすぐに戻るつもりだったんだけど、大雨が降ってきて帰れなくなるんだね。二郎と直は宿に泊まる羽目になる訳だ」
「故障点検の機会が、やってきましたね」
そう、龍之介くんが笑った。