2 猫ちゃん、赤子と青子に話を聞かせる
『主人公は温泉地で宿に泊まる。その宿の御嬢様が那美なんだね。宿と言っても、今は殆ど営業していない状態で、つまり那美の家は落ちぶれている。没落地主の娘なのさ』
宿が営業していないのは、継続中の戦争が原因である。いちいち、この娘達へ説明はしない。
『へー、落ちぶれた御嬢様っすか。ウチらみたいっすね』
『ウチらもパパ上が逮捕された時は、学校で虐められまくって。苦労したっす』
『そ、そうなのかね。大変だったね』
思いがけない話が出て、吾輩、動揺した。
『ユッキーなんか気が弱いところがあるんで、泣いて泣いて。姉としては何とかしないと』
『そー思って、三人で一緒のメイクで遊んだりして。それでユッキーも明るくなったっす』
あのメイクは、ただの奇行では無かった訳だ。那美も奇行が多いのだが、そこには同様に、周囲への反発があったのだろうか。
『……那美は出戻り、つまり離婚して実家に戻った状態で。この那美は結婚する前、京都の方に好きな男の人が居たんだよ。でも親の意向で、地元の金持ちの家に嫁がされる。没落地主としては、娘を金持ちと結婚させる方が都合も良かったんだろう』
明治時代は、家同士の関係で結婚が決まる事も多かった。後に書かれる、漱石先生の『三四郎』に出てくる美禰子も、そうであった。個人が大きな流れに翻弄される姿を、寄り添うように書いていく漱石先生のスタイルは、初期から確立されていたのか。小さき者に目を向け続けたのが漱石先生であった。
『結婚したものの、親が決めた話だからか那美と夫は上手くいかない。更に戦争で、夫が勤めていた銀行が潰れる。どうにもならなくなって離婚だよ。出戻った地元で、那美は周囲から陰口を叩かれて生きていく事になる』
『戦争……第一次大戦っすか?』
赤子が首をひねる。実際に出てくるのは文字だけだが、首をひねったような風情であった。
『もっと前の戦争だね。その辺りは最後に分かるよ』
『那美が叩かれるのは納得いかないっすね。無理やり結婚させられて悪者扱いっすか』
青子は青子で憤っている。思いの外、娘達が吾輩の話に反応してきたのが少し面白い。
『那美も那美で、反発からか、寺のお坊さんに抱き着いて見せたりする。ますます周囲からの評判は悪くなって、主人公が温泉地に来た時には那美に付いて、『あの女は頭がおかしい』という話ばかりが聞こえてくる。那美に好意的なのは寺の和尚さんと、父親と、従兄弟の久一くらいかな』
久一は、とある用事で那古井に戻ってきている。つまりは最後のお別れで、これが小説のラストとなる。
あと、那美には兄が居るのだが、この兄と那美は仲が悪い。出戻りの那美は兄から、家の恥だと思われているようだ。
『周囲からは良くない評判ばかりの那美だけど、主人公は絵を描くための題材を求めてるから、むしろ興味を惹かれるんだね。会って話をしてみると、これが実に刺激的で会話も弾むんだ』
『男女の小粋な会話って奴っすか。そういうのは映画でも何でもウケるんすよ』
『ウチらは男同士の絡みが推しっすけどね』
吾輩、無視して話を進める。主人も男女の小粋な話を書けば良いのでは、とは思う。
『主人公と那美の会話は芸術論とか、色々な方面に飛ぶんだけど、その辺りは省略するよ。とにかく主人公は那美を見て、創作意欲が湧いてくる。でも、あと少しという所で行き詰まる。困って主人公が温泉に入って考え込んでいると、誰も入浴してないと思っていた那美が裸で主人公と対面する』
『いいっすねー、ラッキースケベっすね』
『温泉と言えば、そういうシーンが必要なんすよね。良く分かるっす』
良く分かられてしまった。主人に必要なのは、こういう描写なのかと思った。
『那美は、さっと立ち去って、ホホホホと大笑いする。これは半分、照れ笑いなんだと思うね。不幸な目に遭っても何でも笑い飛ばすという、そういう習性が身に付いてるんだ。その後、宿の主人、つまり那美の父親が主人公に会いに来る場面があって』
吾輩、少し間を置いて、また説明に入る。
『宿の一室で、寺の和尚、那美の父親、従兄弟の久一が主人公と会話する。この時、那美は居ない。会話の中で、久一が戦争に召集されていると主人公は知る。数日後には戦地に向かう久一は、主人公から見れば、まだ子供にしか見えない』
『…………』
『…………』
赤子と青子の反応は無い。吾輩、先を進めた。
『その後、主人公が一人で読書してたら、那美が邪魔しに来る。じゃれ合ってたら地震が起きて、その拍子で主人公と那美の顔が近づく。慌てて、二人とも相手から離れる。
それから戦地に行く久一の話になる。那美は平気そうな顔をしているが、そんな訳が無い。主人公は、『さっき皆で、あなたは一人で何処に行ったのかと話してましたよ』と問いかけて。那美は『鏡の池の方を廻ってきました』と答える』
『鏡の池……』
『綺麗そうな名前っすね……』
『正に主人公もそう思って、絵の題材になりそうな所かと聞く。『身を投げるに好い所です』と那美が答える。物騒な冗談で、更に物騒に、『私が身を投げて、浮いているところを綺麗に描いてください』と那美は続けるんだ。『驚いたでしょう』と冗談にして、那美は笑って部屋を出て行く』
那美には不幸が絶えない。その中で那美は、猫のように、しなやかに生き続けた女なのだろう。