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帰ってきた猫ちゃん  作者: 転生新語
第四章 『三四郎』
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2 猫ちゃん、講義する(その2)

「君の父親が、母親と結婚できたのは奇跡みたいなものでね。数多くのライバルを押しのけて、愛する女性と結ばれるというのは大した事なんだ。君の母親は数多くの人から愛されてたようだし」


 吾輩も詳しくは知らないが、主人よりも奥方の方が高収入なのは間違いない。一体、何で結婚できたのかも知らない。そこには確かにドラマがあったのだろうと思う。


「とにかく小説の話だ。三四郎は二十三歳で、今で言う東大で学生として過ごすために上京する。今の感覚だと、大学に入るには遅めの年齢だけど、まあ当時と今は違ったのかもね」


「上京というのは、他の県から東京に来る事ですよね」


「そうそう。三四郎は九州出身なんだってさ、どんな所なのかは吾輩も知らないけど」


 吾輩も龍之介くんも東京で生まれ育っているので、他の県の事は今一つピンと来ない。上京する者が感じる心細さも分からない。猫と幼児の文学談義(だんぎ)は、どれほどの価値があるのやら、だ。


「東京に来た三四郎は、『うわー、東京だ。大きいなー、広いなー』と驚いてばかりでね。世の中は広いんだな、自分は何も知らないんだなと。そんな事を最初に痛感するんだ」


「九州は東京と違うんでしょうね。富士山も見えないんでしたっけ」


「見えないんだろうね。吾輩も龍之介くんも、実際に見た事は無いけど。書かれてないけど三四郎は、九州の山でカブトムシとか()って遊んでたイメージがあるよ」


「それで東大に行けるんですねー。それは凄い人なのでは?」


 そうかも知れないと吾輩、思う。きっと三四郎は、受験勉強では優秀だったのだろう。逆に言えば勉強だけをしていて、世の中の事を知らない男だったのだろうとも思う。上京する時に乗った汽車の中では、乗客が戦争の悲しみを語っているのだが、三四郎は何もピンと来ていない。


「まあ大学も、浮世(うきよ)(ばな)れしてるとか言われてるから。三四郎が通う大学の話なんだけど、大学の近くを電車が走る予定があって。それが大学の抗議で、離れた所を電車が通る事になったんだって。『電車さえ通さないという大学はよほど社会と離れている』って、小説の中で皮肉られてたよ」


 漱石先生の批判精神は全く、大したものであった。




「大学の中で三四郎が、池を見つめて考え込む場面があって。ここの描写が良いんだよ。ちなみに池は実在してて、今でも東大の中で『三四郎池』って呼ばれてるんだってさ」


 池を見つめながら三四郎は、浮世離れした大学の人間を思い浮かべる。自分も、そんな風に生きていけるだろうかと考えて、『無理だ』と三四郎は結論を出す。これは漱石先生の結論とも同じだったのだろうと吾輩は思う。三四郎も漱石先生も、社会の中で生きていきたかったのだ。


 三四郎は東京よりも日本よりも広い、世界全体の事を考えて、そして孤独を感じる。この孤独感は、その後も漱石先生の生涯に、まとわり続けたものかも知れない。頭が良すぎる人は、世界の大きさを実感してしまう。それは個人というものの小ささ、(もろ)さを再認識させるのだ。


「吾輩さん? 黙り込んでますけど、どうしましたか?」


「うん。何をどこまで話すべきかと思ってね」


 龍之介くんには言わないが、三四郎は上京する際に、汽車の中で女性と出会って誘惑される。何も起きなかったが、三四郎には衝撃の出来事だった。『現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界はあぶなくて近寄れない気がする』と、彼は女性との出会いを回想する。


「結局、男に取って究極の現実は、女なのかも知れないねぇ……」


「はい?」


 龍之介くんが不思議そうに吾輩を見つめてくる。吾輩は吾輩で、まだ(ひと)(ごと)が止まらない。


「世界の事を考えても、こっちに世界は近づいてこない。だけども男が女の事を考えてたら、それは男と女が互いに近づき合うもんなぁ……」


「吾輩さん? 吾輩さーん?」


 男と女が近づき合って、そして妊娠するのである。猫の吾輩はその辺りの現実を知っている。


 個人が考えるべきは、そういう現実であるべきなのかも知れない。あんまり観念的になっていては神経衰弱になる。現実は待ってくれないのだ、オギャーと生まれてきた現実の龍之介くんを育てている主人も同意見であろう。


「……池の前で考え込んでいる、三四郎の話だったね。観念的な世界に(ひた)ってた彼の前には、二人の女性が現れるんだ。この内の一人が美禰子だよ、三四郎が現実に引き戻される出会いの場面だね。言い忘れてたけど、美禰子も三四郎と年齢は同じなんだってさ」


 美禰子は初対面である三四郎の前を通り過ぎ、持っていた(しい)の花を彼の前に落とす。これは三四郎を何となく、からかってみたくなったのか。三四郎というのは余程ボンヤリした、からかいがいのある世間知らずの若者だったのか。あるいは彼にイノセントな魅力があったのか。


 何はともあれ、こうして三四郎が恋を知る話は動き出す。彼の青春が始まる。

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