10 猫ちゃん、一仕事を終え眠りにつき、星空を夢のキャンバスにする
夜になって吾輩、主人の家に居る。まだ、それほど遅い時間では無いのだが、もう主人は酒を飲んで寝ている。何も書けなくて寝るしか無いのであろう。
一階で寝ている主人の姿を見ながら、吾輩、お白さんとの会話を想い起こしていた。
まさか山師に、あんな壮大な話があろうとは。お白さんが語る山師に付いての長話は、それはそれで興味深かった。人生の密度で言えば、吾輩の主人より遥かに上であろう。
とは言え、山師は脇役である。吾輩、山師を主人公にする気も、スピンオフを書く気もない。
主人は恐らく独力では小説を書けまい。吾輩、主人に手を貸そうと思う。手というか前足か。
書けない主人に手を貸す事は、卑劣な行為であろうか。あるいは、そうかも知れない。
しかし漱石先生だって、『吾輩は猫である』を書く時に、外国の小説を参考にしたと聞く。そして漱石先生の死からは、既に百年以上が経過している。猫の吾輩が作家にインスピレーションを与えても、怒られないような気はした。どう思われますか、漱石先生。
縁側に行き、夜の星空を眺めながら、耳を澄ませる。星空からは何も聞こえないが、「知らん」とも、「好きにせぇ」とも感じられる、愛や言葉が伝わってきた気がした。
腹を決めて、吾輩、階段を上がっていく。幸い龍之介くんは、まだ起きていた。
「あれ、吾輩さん。何か御用ですか」
「ちょっとね。龍之介くん、お父さんを助けたいんだ。協力してくれるかな?」
「もちろんですよ。何をすればいいんですか」
「これまで試した事が無い、テレパシーの実験から始めよう。さぁ行くよ……」
☆☆☆☆☆☆☆
朝になって、主人が龍之介くんの食事を持ってきた。吾輩は部屋の隅に居る。
「龍ちゃん、ご飯でちゅよー。良く眠れまちたかー……うん?」
食事の皿を床に置いて、主人は怪訝な顔で、龍之介くんに近づいていく。
普段なら布団で寝ているはずの龍之介くんは、電源が点きっぱなしのノートパソコンの前で、うつぶせに突っ伏していた。これは吾輩の指示によるもので、演技である。
ミステリーならダイイングメッセージを残した死体の登場だ。無論、彼は生きている。
主人は一旦、龍之介くんを布団に運んだ。龍之介くんも眠いので、演技という事も無く、そのまま寝入っている。主人は改めて、ノートパソコンの画面を見つめた。
その画面には、次のような文章が書かれてある。
『……猫の特技はテレパシーや夢見術で、夢の中で猫は星空をタッチパネル式に操作する……飼い主は、猫が言葉を理解し、時には開きっぱなしのノートパソコンでネットサーフィンをしている事を全く知らない……シロは今の時代に必要なのは愛であり、マイノリティーの無名猫が愛を叫ぶ事に意味があると説得する。無名猫は家に帰って、龍之介くんとテレパシーで繋がり、小説のあらすじをワープロソフトで書き上げる。それを飼い主が見つけ、喜んで小説執筆を開始するのだった……コロナ時代は精神も荒みがちで、その中では愛や文学が一層、価値を持つ。無名猫が希望を持って生きていく物語です』
吾輩が龍之介くんと共に書いた、小説のあらすじである。梗概、というらしい。
八百字ほどの文章で、この分量を書くのは猫の吾輩では辛い。そこで龍之介くんである。
吾輩、テレパシーで龍之介くんを操作させてもらった。彼と視界を共有し、龍之介くんの手でキーボードを打ったのである。幼児とは言え、やはり猫よりは文章入力の効率が良い。
初めての試みであり、実際にやってみて分かったが、これ以上の長文を書くのは無理であった。龍之介くんの体力も保たない。小説のあらすじは示した、後は主人に書いてもらおう。
「……天才だ……これを龍ちゃんが書いたのか……天才だ……」
画面に見入りながら、主人はそんな事を言っている。一歳以下の子供が書けば確かに、そういう評価を受ける文であろう。実際に書いたのは吾輩なのだが、龍之介くんが天才児なのは間違いないのである。
猫の吾輩が書いた文だと知ったら、主人が小説のあらすじを受け入れるか怪しい。しかし愛する一人息子が書いた文であれば、主人は喜んで受け入れるのではないか。そういう吾輩の計算もあって、龍之介くんにはノートパソコンの前で寝てもらったのであった。
主人は龍之介くんを起こさないように、静かに部屋を出て、階段を降りていく。「天才だ……天才だ……」と呟きながら。一階まで行って、主人は喜びの感情を爆発させた。
「天才だ、龍ちゃんは天才だ! ヒャッホーイ!」
階下から主人の大声が聞こえてきた。近所から苦情が来ないか心配だ。
この様子なら、主人はあらすじを受け入れて小説を書き上げるであろう。それが、どう評価されるかは分からない。吾輩も龍之介くんもベストを尽くした。後は主人がベストを尽くしてくれれば、それで良いと思う。吾輩、龍之介くんと共に、部屋の隅で眠る事にした。
主人も吾輩も、無名の存在である。主人は社会の片隅で生きている無名作家で、吾輩は部屋の隅で寝ている無名猫に過ぎない。しかし吾輩、もう卑下するのは止めにしよう。
昔も今も、中々に大変な時代であった。我々の苦難は今後も続くかも知れない。
しかし吾輩たちは、神様に愛されて生まれてきたのだ。我々は、我々の人生の主人公なのである。そのくらいの思い込みは、許してもらおうではないか。
吾輩たちは、時に過ちも犯すだろう。ついつい匿名掲示板に書き込んでしまう事もあるだろう。悪癖は徐々に無くしていって、他者への思いやりを増やしていこうではないか。
決して綺麗事では無い。漱石先生の時代から、無名の猫の話が愛に寄って蘇ってきた事を吾輩は知っている。猫は帰ってくる。愛は帰ってくるのである。
愛が無いルールは最低、だそうだ。この言葉と共に、苦難を乗り越えようではないか。
未来は誰にも分からない。主人の妻が帰ってくるかは吾輩、分からない。しかし愛が無ければ、そこに明るい未来はあるまい。主人に出来るのは、小説を書き続け、愛をもって龍之介くんと日常を過ごし、妻が帰る場所を守り続ける事だけであろう。
主人の小説が、女編集者と出版社を納得させられれば、今後の明るい展開も有り得よう。山師と元妻の関係はどうでもよいが、お互い独身なりに楽しく過ごしそうな気はする。
吾輩とお白さんの関係も深まって行くかも知れない。全ては小説の評価次第である。どうかお願いします。どうか宜しく、お願い致します。
主人が再び階段を上がってきて、部屋に入る。ノートパソコンで執筆を開始したようだ。吾輩は眠いので、目は閉じたままである。気配だけを感じながら、そういえば吾輩、あらすじで小説のタイトルを付けてなかったと気が付いた……まあ良い。そこは主人に任せよう。
「『帰ってきた猫ちゃん』……よし、これで行こう」
えぇー……子供っぽくないだろうか。龍之介くんが書いたと思っているからか。それなら、それで仕方ない。吾輩、夢の中で夜空の星を動かし、光を集めて希望を描いた。
第一章、終了です。次回は「第一章のあらすじ」を書きます。