プロローグ
吾輩は猫である。名前は、どうでもよろしい。
猫である吾輩は夢を見ている。草原で、吾輩は満天の星空を仰向けで見上げる。
四本足を動かして、星の位置を操作する。星は星座のように、過去に書かれた猫キャラの姿を形作って実体化するのだ。長靴を履いた猫が颯爽と歩きだす。
エドガー・アラン・ポーが書いた黒猫は、夜の空に紛れて姿が見えない。夢なのに、妙な所で融通が利かないのは困ったものだ。吾輩の夢見術は、まだまだ改良の必要がある。
猫である吾輩は、紙の本は読めない。猫の前足ではページをめくれないのである。電子書籍というものは偉大な発明だと吾輩、本当に思う。これのお陰で読書を楽しめている。
タッチパネルの要領で再度、星を動かして猫キャラの作成を試みる。『牡猫ムルの人生観』という吾輩は未読の小説キャラを作ろうとするも、これは上手くいかない。我らが夏目漱石先生に、多大な影響を与えた作品らしいのだが。電子書籍化されない限り、吾輩が読むことはないだろう。やはり、ここは読んだことがある、イメージしやすい猫を思い浮かべよう。
『吾輩は猫である』の猫。これは容易くイメージできる。明治時代の日本に生まれた、人語を解する猫である。吾輩は平成末期に生まれた令和育ちだが、違いはそれだけだ。
星空に猫が浮かぶ。『吾輩は……』の作品内では、生まれて1年ほどで溺死してしまう猫。悲劇的なのだが、お経を唱えながら「ありがたい、ありがたい」と呟いて世を去った姿はユーモラスでもある。吾輩が作成した猫は夜の空を笑顔で飛んでいくのであった。
『吾輩は猫である』は、最後が悲劇的なためか、他の作家が続編をいくつか書いたそうだ。それは電子書籍化されていないので吾輩、読めてないのだが。
これは一種の生まれ変わりであると、吾輩は思う。漱石先生も仏教的な思想でいう、輪廻転生は信じていたのではあるまいか。物語のキャラは、追随者が蘇らせるのである。
漱石先生が書いた、明治生まれの無名の猫の話はその後、日本の小説家たちに大きな影響を与えた。無論、『吾輩は……』後の漱石先生の、文学的な功績は計り知れない。しかし、もっと単純に、吾輩は親近感を覚えるのだ。吾輩も無名の猫であるから。
無名だった漱石先生は、無名の猫の話によって有名となった。吾輩は令和の世を生きる、無名の猫に過ぎない。電子書籍を読んで満足している存在でしかない。
猫で言えば中年の世代に属する吾輩は、何も成しえずに生涯を終えるであろう。しかし、それが不幸であるとも思わない。五十歳にも満たぬ年齢で亡くなった漱石先生より幸福かもだ。
いつの世にも、無名の猫は居るのだ。吾輩が漱石先生の書いた、猫の生まれ変わりだとは言わない。しかし吾輩は漱石先生の作品を愛している。フォロワーの一匹ではあると言える。
愛がある所に、復活がある。こんな事を言ったのは昔の聖人であったか。漱石先生が書いた、無名の猫は死んだ。しかし、他の作家が続編を書いて蘇らせた。作品への愛が尽きない限り、無名の猫は帰ってくる。明治から大正、昭和から平成、令和の世になっても。猫は、帰ってくるのである。そう吾輩は確信している……