先生、股間が腫れました
股間を蚊に刺された。
昨夜やけにプンプンうるさい蚊がいるとは思ったが、起きてみるとそれどころではない。通常の何倍も大きく腫れている。パンパンである。
人は驚愕すると周囲の音が聞こえなくなるということを初めて知った。もはや飛び回る羽音などどうでもいい。
私の注意は耳元のプンプンではなく、目下のパンパンに向けられていた。
咄嗟に薬を塗ろうとしたが、生憎私が所持するものは全てクール系。これらを使おうものなら地獄のような苦しみを味わうのは想像に難くない。
それを考えると、塗ってもいないのに股が冷え込む。スースーする。
しかし異常なまでの痒みには耐えきれず、私は病院へ向かうことにした。
〜〜〜〜〜
どうにか気合いで受付を済ませ、待合室の長イスに座る。今すぐにでも掻きむしり叫びたかったが、周囲の者にあらぬ誤解を生んではならぬと己を律し、この冷や汗は熱病によるものであると要らぬ説明を漂わせながら(後から考えると泌尿器科にいる時点でお察しだったが)、とにかく気を紛らわせようとした。
顔を上げると、テレビの中で、コメンテーターたちが生活を彩る便利グッズについて何やら話している。私は純然たる姿勢で食い入った。
初めは気を紛らわすためのものであったが存外に引き込まれる。平日朝の情報バラエティとはこうも有意義に無駄な時間を楽しめるものだったのか。
昨夜彼に刺されていなければ気づかなかったことだ。この発見をもたらした彼には心から感謝したいところだが、そもそも彼がいなければ私は更に有意義な時間を過ごせていたであろうことを思うと、ふつふつと怒りが込み上げた。
眉間にしわを寄せると同時に局部に猛烈な痒みが走ったので、私は姿勢を変え呼吸を整え、血の流れを少しでも遅らせようと努めた。虫刺されによる充血への抵抗としてはいささか心許ないが、これが私にできる精一杯だった。
テレビでは、ちょうど虫刺され用の薬が紹介されていた。
「そういえば、蚊の中でも血を吸うのはメスだけらしいですね〜」
コメンテーターはやや間の抜けた調子でそう言った。
なんと、私が彼だと思っていた相手は彼女だったらしい。今のご時世、安易に彼彼女と断ずるのは憚られるが、蚊の性自認がどうであるかなど人間の私には知る由もないので、ここは彼女としておこう。
しかし血を吸うのがメスだけとは。昨夜彼女に刺され、今ここにいなければ知り得なかったことだ。
この発見をもたらした彼女には心から感謝したいところだが、そもそも彼女がいなければ私は更に有意義な時間を過ごせていたであろうことを思うと、ふつふつと怒りが込み上げた。
再び眉間に皺を寄せ、再び痒みが走ったところで私の名が呼ばれたので、私は前屈みになりながら席を立った。
そういえば昔、『泌尿器科に勤務する若手美人女医』なる存在の噂を耳にしたことがある。
ハッキリ言って幻想だ。もはやそのような場でしか女性に股を晒す機会のない哀れな連中が膨らまし囃し立て、腫れ上がった幻想である。パンパンである。
だがしかし、あの扉ひとつ隔てた向こうでは、実在と非実在が入り乱れているのである。
私が観測し、その存在を確定させてやろうではないか。
その時こそ、その出会いをもたらした彼女には心から感謝してやろうではないか。
私は鼻下を伸ばし、股下を腫らしながらドアを開いた。
〜〜〜〜〜
診察室にいたのは、この道ウン十年という気配を放つおじいちゃん先生だった。
私は『泌尿器科に勤務する若手美人女医』という伝説への期待を砕かれたことに絶望したが、同時に安堵もした。期待こそしていたものの、期待通りの美女に診察された日には、治る腫れも治らなくなってしまう。それは避けたいものである。
「今日はどうされました?」
「先生、股間が腫れました」
「ああ、男性ならよくあることです」
「確かに私はよく腫らしますが今回は違うんです。いや腫れてるけどそうじゃないんです。性病でもないんです」
予想通りという顔をする先生に向かって、私はダラダラと汗をかきながら必死に弁明した。
私は決して破廉恥な病を貰ってきたわけではない。そもそもそんな相手など、生まれてこの方できたことがない。
「これは虫刺されなんです。病気なんて罹りようがないんです。童貞ですから」
己の身は清廉にして潔白であると、身を乗り出し、より一層前屈みになって伝えた。
もはや汚れていないことこそ恥という年齢ではあるのだが、ここで引いては男が廃る。
目を血走らせて語る私を前に、先生は淡々と答えた。
「いやだから、そこを刺される患者さんね、最近多いんですよ。蚊も人間のどこに血が集まるか学習しとるんでしょうな」
私は唖然とした。一瞬、彼の言葉が聞き取れなかった。やはり人は驚愕すると音が聞こえなくなるらしい。
「ただ、そんなとこから吸うもんだから人間もすぐに気づく。そこで蚊はバレずに血を吸うために、唾液に含まれる麻酔成分を強めた。これが凄まじいアレルギー反応を引き起こすわけですな。まったく、余計な進化をしてくれたもんです」
なんということだ、先生は一から百まで分かっていらしたのだ。なのに私は一人で勝手に盛り上がり、股間をよく腫らすだの童貞だの、余計なことを……
恥ずかしい。性器を見られるよりも恥ずかしい。
心なしか動悸がする。熱も上がってきた。
「先生、体調が悪いので帰ってもよろしいでしょうか」
「アンタ何しに病院来たんですか」
その後私はただ黙って先生の話を聞き、塗り薬を処方されて帰った。
〜〜〜〜〜
薬を処方されてから一日、私は再び病院に足を運んでいた。
端的に言うと、あの薬は私の体質に合わなかった。蚊も驚くほどの強烈なアレルギー反応を引き起こしたのである。パンパンである。
自宅から近いのはあのおじいちゃん先生の病院だったが、昨日の今日でコレを見せに行くのは気が引けたので、少し遠出して別の病院に来た。
前回同様気合いで受付を済ませ、呼ばれるのを待つ。
診察室のドアを開けた瞬間、私は絶望した。ただし安堵はしなかった。
「今日はどうされました?」
そこにいたのは、もはや伝説とも言うべき存在、『泌尿器科に勤務する若手美人女医』であった。
ただ美人なだけではない。端的に言って超タイプである。
こんな相手に診察された日には、治る腫れも治らなくなってしまう。
しかし、ここで引いては男が廃る。
私は薬のアレルギーのせいで更に一回りは大きくなった───誓って言うが他の要因は一切ない──ソレを押さえながら言った。
「先生、股間が腫れました」