あの時
僕が文江を好きになったのは高校三年の時だ。実は高校二年の時に文江からラブレターを貰ったことがあった。その時僕にも付き合っている人はいなかったが、クラスも違ったし、目立たない子で、話をしたこともなかったので、他に好きな人がいる事にして、その時は文江を振ったのだった。
桜が散り始め、ついこないだの卒業式の涙も春の温かい風に遠く運ばれ、春は別れから出会いに衣装を替え、新入生の足音が学校を賑やかにする頃、僕は新しいクラスの名簿と席順を見ていた。そこには、僕の席の隣に文江の名前が書いてあった。
教室に入って見ると、文江は既に椅子に座って、辞書やテキストを机にしまっているところだった。「今度、同じクラスだね。よろしくね」僕は椅子に座りながら文江を見て言った。
「こちらこそ、よろしくね」文江は、自分に振られたことなどなかったかのように明るい笑顔で答えた。
文江とは、修学旅行の班も同じだったし、席替えになっても隣同士になることが多かった。夏休み中の補修も同じ教科を選んで、いろいろ教えてもらったりすることも多くなった。僕は、最初こそ、振ったこともあって変に意識していたが、何事もなく接する文江にいつしかそういった意識はなくなり、いい友達として文江を見るようになった。
九月に入ったばかりの教室で、僕は数学の退屈な授業に飽きて外を見ていた。雲ひとつない空はさえぎるものがないようにどこまでも青く、夏とは違い爽やかな風が校庭の木々を揺らした。そしてその風は校庭をぐるりと回って教室に入ってきて、僕の教科書をめくっていった。
ふと、隣の席で一生懸命先生の話を聞いている文江を見た。文江も僕の視線を感じたのかこっちを見た。文江はにこっと笑い、ちょっと首を横にかしげて、また前を向いた。僕はそんな文江の仕草を見て、急に胸がせつなくなり、なにかに締め付けられるような感覚を覚えた。家に帰っても文江のことを思い出すと、同じ感覚に襲われた。僕は文江に恋をしていたのだ。
しかし、今更好きだとも言えず、僕はその思いを胸の奥深くにしまいこみ、何事もないように文江と接した。しかし、しまいこんだつもりでも、文江と話していると、いや、隣の席にいるだけで、むくむくとその思いは心を支配した。それを押さえつければ押さえつけるほど、更に、せつない思いが大きくなっていった。
二月に入ると、大学受験でクラス全員が揃うなんてことはない。授業もないし、みんな図書室で勉強したり、教室で勉強したりしていた。僕は、図書室で勉強していたが、暗くなってきたのでそろそろ帰ろうと、教室にバックを取りに帰った。そこにはバックにテキストを入れている文江の姿があった。「それじゃねー」文江とおしゃべりしていた友人が教室から出て行くと、教室には僕と文江の二人きりになった。文江はバックから何か取り出し僕の前に立った。
「これ、バレンタインのチョコ」
「えっ、俺に?」
「うん。私、バレンタインの日は受験だから、ちょっと早いけど」文江はいつものようにやさしい笑顔でチョコを差し出した。僕はそれを受け取って「ありがとう」と言った。その時、この胸の思いを告白しようと思って、「俺、実は」と言いかけた時、「いつも、お世話になったから」と文江が言ったので、「じゃあ、遠慮なく」と言っただけで結局告白できなかった。
卒業式の日、校門の前で友人たちとうろうろしていると、文江が近づいてきて、「今までありがとう、最後に握手して」と右手を差し出した。「うん」僕も右手を差し出した。僕と文江はしばらく握手したままお互いを見つめていた。文江の目には涙が溜まっていた。文江は「さよなら」と言うと涙があふれ出た、そして人垣の中に消えて行った。僕が文江を見たのはそれが最後になった。
一年後、僕は卒業アルバムを見ながらそのことを思い出していた。
過去はやり直せないが、あの時ああすれば、こうすればと考えることはできる。そして、僕は、誰もいない教室で、好きだと言えばよかったと思っている。きっと文江も自分のことが好きだったはずだと。過去を振り返らなければ経験は見えてこない。どんな貴重な経験をしても、それを生かさなければ進歩はない。僕は、ワンルームのアパートでコーヒーをすすった。そして、静かに卒業アルバムを閉じた。