第一話 2
「はい、今日はこれで様子を見てくださいね。」
「はい、ありがとうございましたー。」
にこりと笑いながら、老齢の患者がベッドから起き上がる。
「では、お着替え終わられたらおっしゃってくださいね。」
カーテンを閉めて受付に座ると、川井岳人はふうと息を吐いた。
「えーと、脈は左右とも沈んでて、強く、力あって・・・形なく・・・」
ぼそぼそと呟きながらカルテに素早く書き込んでいく。
患者さんがどんな症状で、どんな脈で、どんな治療をしたか、などを書き込んでいく。これが無いと前回どのような治療をしたことでどのような変化があったかがわからなくなるので、大事な作業だ。
「先生、ありがとうございました。」
にこ、と老女が微笑む。思わずこちらも笑みを返した。
「梨田さん、今日は食べすぎないようにね。腹八分目で医者いらずって言うでしょ? あと水分の取りすぎも注意ね。梨田さん細いんだから、二リットルの水分なんかいらないよ。」
支払いをしながら、老女が目を丸めた。
「えっ、でも一日に二リットル飲まないといけませんって宣伝でやってたけど・・・」
「あー、それね。」
岳人は苦笑しながら頭をがりがり掻いた。
「おかしいと思わない? 性別も身長も体重も違うのに二リットル飲めなんて、明らかに飲みすぎでしょ。あれは脱水対策で言ってるんだけどね。たぶん政府は『水の飲みすぎくらいなら体は平気だろ』くらいしか思ってないんだろうけど、そんなことないからね。」
そう言いながら、引き出しからプリントを出した。
「これ、良かったら差し上げます。飲みすぎ注意のパンフ。」
可愛らしいイラストがデザインされたプリントを渡す。上には『水毒に注意!』と書かれてある。
「みず、どく?」
「すいどくって読むの。東洋医学の言葉ね。水は体の外に出て行けばいいけど、いかないやつは溜まっていって体の機能を邪魔しちゃうんだ。梅雨時期は体が重いでしょ? あれは皮膚から余分な水分が入ってくるからなんだよ。水分は重いからね。だるさなんかも水分の取りすぎでなることも多いよ。」
「あら、私がんばって飲んでたわ。そう、違うのねぇ。」
へえー、と感心するのを見て、うんうんと頷く。
「もちろん少なすぎると脱水になるからそこは注意ね。大事なのは『喉が渇いたら飲む』こと。もちろん服用してる薬や年齢で感じ方は変わるけど、たいていの人はこれで充分だね。」
「あら、でも先生、私喉が渇かないのですけど・・・」
「梨田さんは二リットル飲んでるから渇かない可能性が高いんだ。まずはやってみるといいよ。」
「わかったわ、やってみます。」
丁寧にプリントをたたみ、財布を取り出した。
同じタイミングで岳人は手元にあった予約表を見てペンを回した。
「次回はどうする? この感じだと今週もう一回か、来週なら早めに来てほしいんだけど。」
「じゃあ今週、金曜日のこの時間でお願いします。」
「はい、ではお待ちしてます。お身体に気をつけてね。」
「ではまた。」
靴を履きながら、老女は振り返ってにっこりと笑った。
「お世話様でした。」
「はい、また次回。」
と手を振ろうとして、あ、と岳人は声をかけた。
「梨田さん、あのね――――」
「はいはい先生、言いたいことはわかってますよ。」
くす、と孫を見るような優しい笑顔で言った。
「「過ぎたるは猶及ばざるが如し」」
二人が同時に言うと、岳人は照れたように頭を掻いた。
「えー、梨田さんすごいな、なんでわかったの?」
「何言ってるの、先生いつもここでそれを言うじゃない。おかげさまで私まで口癖になっちゃいましたよ。娘に『影響受けすぎよ』なんて笑われるくらいね。」
あはは、と笑いながらごまかす岳人にもう一度頭を下げ、老女は出て行った。
「いつも・・・言ってるかなぁ?」
はは、と顔を赤くしながら、黒豆茶をずずっとすすった。