大江山の怪物、伊吹山の怪物
東大阪での狐の虎二郎と狸の九助との一件が終わって、銀三郎は大阪街道を目指して、淀川の方へ北上しているところ。
「銀三郎殿」
銀三郎に殿をつけてかいがいしく名前を呼ぶ声は誰のだろう——緋の着物を着て、日だまりの帯を締め、下げ髪、笑うと光を受けて映える八重歯、そして、何より柴犬のような墨汁を点で落としたような太い眉がこの上なくチャーミングな娘である。これは銀三郎が奈良の茶屋で助けた娘——名前は椿というらしい。
「なんじゃ、椿」
「銀三郎殿はこれからいずれへ向かわれるおつもりで——」
「京都」
淡白な答え方である。
「そうか——あの、銀三郎殿、折り入ってお願いがある」
「お願いとは——」
銀三郎は椿の方を振り返る。
「それというのは私の兄を一緒に探して欲しい。京都の怪物を追って出て行ったまま、私の兄は依然、帰らないままなのだ。奈良で助けられたばかりだというのに、わがままということは分かっている。でも、今の所私にはあなた以外に頼る術がない……」
椿は頭を深く垂れて、ともすれば拝み入るような勢い。
「それはまた唐突な願い——して、あなたの兄というのは一体何の怪物を追って京都へ参られたのかな、またその根拠は」
「鬼、京都の市中の金銀財宝、婦女、子供に果ては生気を吸わんと活きのいい男でもかどわかすような鋼よりも頑強な体を持ち、デコピンで岩石一つを砕けるような凶暴性を秘めた、恐ろしい鬼——私の故郷は長野の北西の奥まった姫川温泉がある平岩あたりの峡谷の間にあって、そこで代々、村に伝わる花の一文字と呼ばれる霊刀があるんだが——」
「待て、花の一文字とは何だ」
それまで娘の話を聞いているような聞いていないような、ともかくも娘の話を風になびく柳のようにされるがまま——聞かされるがままに右から左へと銀三郎は聞き流していたところ、銀三郎の耳に興味を引くものが引っ掛かれば、突然、興奮したように娘の話に食らいつく。
「花の一文字とは、村の温泉水で鍛えあげ、洗い清めた、霊験あらたかな宝刀で、あらゆる悪霊を断ち切ることができると言われた、由緒ある刀のことだ」
「よく斬れるのか」
「斬れるかと言われると、それは分からない。寺の奥に納められていた刀だから、花の一文字がなまくらであったか銀三郎殿の望むような斬れ味があったかは、手入れをしていた住職にしかわからない」
「そうか」
「それで、銀三郎殿、その村で大事にしていた——」
「花の一文字が京都の鬼に盗まれた、という訳じゃな」
「察しがようござんすね。それで兄はその霊刀を盗んだ鬼を追って、晩秋の頃に、誰も連れずに一人で村を飛び出したまま、春先になっても帰ってこないものだから、私は兄の身の上が心配でたまらない、なんとか兄の足取りが掴めないものかと、東海道へ出てみると、京都に鬼の出没するという風の噂を聞きつけ、東海道を真っすぐに京都へ向かって上がろうとすれば、そこで悪い駕籠かきに掴まって、奈良の地まで——といったいきさつがあるのだ」
「ふむ——」
東海道を加太越えまで馬を走らせていた時には、京都に鬼が出るという噂は耳にしたことがないが、そのような噂が流れていたというのは、甚だ不思議であると銀三郎は思った。
しかし、思い返せば、自分は東海道を旅愁を覚える暇もなく、通り過ごしたような気がしないでもない。
静岡県の吉原から見上げる富士山も脇目に、日本の三大偉人を生み出した愛知の地も顧みず、その他、わびさびを感じ起こすような物事には一向頓着なく、東海道をイノシシのごとく駆け抜けた銀三郎はここに来て、すこし風流を惜しむ心を起こすのであった。
「銀三郎殿、もう私には少しの路銀もなければ、頼る術はあなたしかいない、厚かましいと思うかもしれないが、人助けと思って、一緒に私の兄を探して下さい」
椿は腰を直角に曲げ、着物の裾を深く爪痕が残りそうなほど握り締めたところは、いかにこの椿が兄を思って苦心を払い、長野の奥村から覚悟をもってここまで来たのか、義理とは言え、兄を二人持つ銀三郎は椿の兄を慕う気持ちを痛いほど感じられずにはおれず、気づけば椿の体を抱き起こして、
「私も兄を二人持つ身の上、おぬしの気持ちはよく分かる。私も京都へは少し尋ねたいモノがあって、暫く逗留する予定じゃから、一緒におぬしの兄を探してやってもよい」
「本当かっ! 銀三郎殿、この御恩はいずれ何らかの形でお返しさせていただく!」
「ハハハ、私はまだ何もしておらんよ、さて、それじゃあ、さっさと京都に向かうとするか」
かくして椿の願いは無事、銀三郎のもとへと届き、一向は駕籠かきを雇って、京都へ向かう。