東大阪 四
化け狸や化け狐も並の人間なら到底追いつけないほど速いが、それにも増して銀三郎は速い。
風を切って走る姿はポニーテールと相まって、さながら天馬の如し、彼の駆け抜けた後には猛勢なる颶風が吹き荒れる。
彼の二人が玄関を躍り出てからすぐに銀三郎は愛剣小烏丸を青眼に構えて、二人の眼前に立ち塞がった。
「畜生ごときが私を出し抜けるとでも思っていたのか」
見上げれば、空は星一つ見えないほどに曇天が垂れ込めて、地上には風がないので、三、四間先は見通し難い濃霧が降りている。
「下宿屋の親爺というのも大方お前のことだろう」
銀三郎は虎二郎を睨まえる。
「口に隠した財布を返せ」
財布とは、銀三郎が入ってすぐの戸棚に置いておいた赤朽葉の巾着袋のことで、中には旅に出る前に育ての親である佐々木惣一郎からの相当な心付けも入っており、どうやら虎二郎は文字通りしっぽを巻いて逃げようとしたとき、銀三郎に一矢報いるとて、土壇場で盗み出してきたものらしく、ここまでくれば盗人根性猛々しく、かつ随分としつこい、骨髄まで腐りきっていると分かれば、悪妖を断ち切らんとて、銀三郎も飛び出し、これで無事財布が返れば、悪妖は斬れるし、財布は戻り、父に対する不甲斐なさもなければ、後味すっきりで、一挙四得といった感じでまさにウハウハの豪華セットなのである。
「ペッ、口じゃねえ。腹ん中だよ」
虎二郎はすっとぼけるかと思ったが、随分とあっさり白状した。
「どちらでもよろしい。財布を返さなければ、殺る。素直に返してくれれば、今回は見逃してやる」
銀三郎のこの言葉に表裏はなく、銀三郎が青眼の構えを取るような真っすぐな言葉である。
「へッ、たかだか十年、二十年行きただけの青人間が数百年生きてきた俺がそう簡単に殺されてたまるかって話よ」
「返すつもりはないのか」
「ないね」
虎二郎のあっけらかんとして全く悪びれる様子のない態度を銀三郎は答えと受け止めて、「やはり数百年生きたとて所詮は畜生」と烈々たる気合い一閃、しかし、二匹の悪妖をまとめて払ったかと思われたが、一匹たりとも殺った感触がないのはどうしたことか。
二匹の魔物は凶悪な笑みを浮かべ、不気味な甲高い笑い声とともに、たちどころに霧散してしまった。
しかし、まだ近くに悪妖の気配がする。
銀三郎は小烏丸を取り直すと、もう一度青眼に構えて、今度こそ逃がせじと、一歩も動かず、周囲の気を探る。
「そこっ!」
今度も気合い十分。
銀三郎の一太刀を肩から浴びて、無言のまま地に伏したのは、黒ずくめの装束に打裂羽織、頭には黒い頭巾腰には大小を差した、闇討ち人体の男。しかし、銀三郎は特に闇討ちを受ける謂れはない、いや、あるにはあるが、それは奈良市での加護氏お抱えの駕籠かきの片割れを処分したこと、だが、たかがいくらでも替えのきく駕籠かき風情にわざわざ足軽が結束して闇討ち一隊を成して、やってくるとは到底考えにくいことで、それにもし仮に暗殺部隊がやってきていたとて、すでに生駒山の下り斜面で娘ごと背中を貫かれていそうなものである。いずれにせよ、尋常の闇討ちではない。さすれば、あの二匹が人として化けてでたと考えるのが妥当な判断だが、それにしてはあまりにも虚しい手応えである、だとすれば、これは人にあって人にあらざる者。
二
「幻覚か。こしゃくな」
銀三郎は四方を霧で包まれた中、悠然と小烏丸を青眼に構え直す。
化け狐や化け狸の幻術の本領は術中の人間の内秘めたる恐怖や願望を鏡のように写し出すといわれる、そうすると、銀三郎の目の前に絶命したる男は何の暗示になるのであろうか——。
「殺れ! 殺れ!」
霧の中から都合五人の新手が飛び出してくるが、いずれも銀三郎の敵ではない。
ある者は腕を飛ばされ、首を飛ばされ、果ては胴が落ち、そして銀三郎が得意とする突きは、内蔵を貫き、肺を抉り、刺客はバタバタと土に埋もれて屍の山をつくり、また新たな刺客がぼんやりと現れては、すでに屍の道。
この間、休む間がないのにも関わらず、銀三郎は息を少しも乱さずに、一人斬っては構え、構えてはまた一人斬って、すこしも型が乱れる様子がないのは、秩父市で山田氏が道場の立ち切り稽古を修了した成果であろう。
むしろ銀三郎は斬るほどに身体と心が引き締まっていくような心持ち。そして、それに呼応するように、剣もまた斬るほどにますます冴え渡り、斬れ味を増しているようであった。
「あいつなかなかやりやがる! 斬った数はもう十人は下らないはずなのに、全く隙が見えない」
懲りない虎二郎、また闇討ち人体に化け、次々と生み出す幻影に隠れるように移動しながら、銀三郎の様子を注意深く観察している。
「今の内に逃げた方が賢明だと思うけど」
まさしく九助の言う通りである。
しかし、強欲な虎二郎は銀三郎が形勢不利であると見るや否や、すぐに立ち戻って、ギラギラと瞳に野心と復讐の炎を宿し、
「いやいや、ここしかない。ここで幻影で奴を疲れさせたところの隙を狙って、バシッと俺があの刀をひったくりゃ、こんな濃霧だ、この霧に乗じて逃げれば奴にもバレないし、お宝も無事にゲットできる、まさにうってつけじゃないか!」
今のように息巻いている。
「今回はもう諦めた方がいいんじゃ……」
「いや! ここで行かなきゃ漢が廃る——おっ、今だ!」
虎二郎、千載一遇とばかりに銀三郎の隙を見つけて、バッと銃弾にように飛び出すも束の間、
「ぐ、ぐるじい〜」
あっという間に銀三郎に締め上げられ、結句地面に組み敷かれた姿は愚の骨頂である。
これには九助も何の観念も湧かなければ、静かに組み敷かれる友達を遠巻きに眺めているだけである。
虎二郎が捕まると、銀三郎を取り囲んでいた黒ずくめの集団はたちまち消え、銀三郎が浴びた血も蒸発し、背後の下宿屋も風にさらわれるように消え、あたりは茫洋たる荒原かと思えば、どうやらどこかの河原であるらしく、今さっき下宿屋があった場所は薮畑へと姿を変えている。
どうやら今晩の出来事はみな芝居であったらしい。
銀三郎はまんまとしてやられた気がして、一度でも畜生妖怪に心を許した自分が酷く腹立たしい。
「さっきまでの威勢はどうした」
「どうか、どうか、命だけは勘弁してくれ……」
「仲間は、もう一匹の仲間はどうした」
「ここに……」
九助はおずおずと濃い霧の中から姿を現す。
「お前達はいつもこんな悪戯をしているのか」
「夜中に旅人を見るとつい脅かしてみたくなって、特に大事な物品を盗られたときの人間の驚いたような、怒ったような顔が面白いから、ここ半年はここらへんを根城にしてしょっちゅう人を脅かしたよ……」
虎二郎はすでに抵抗をやめて、ついでに変装も解除して、獣のままぐったりと悄然しきった様子で答える。
「アンタみたいな強い侍に遭ったのは生まれて初めてだよ。人間に正体を看破されたのも初めてだ。あーあ、みっともねえなあ。すっかり自信がなくなっちまったよ……」
「今すぐ財布を返せば、命まではとらない」
「俺の腸を裂いて中から財布を取り出せばいい」
「ふむ。そこまでの覚悟があるならば、遠慮なく——」
「待ってくれ!」
虎次郎の腹を切り裂こうとした銀三郎を慌てて止めたのは九助である。
「おい、虎二郎! 馬鹿なこというなよ! お侍さん、今回のことは本当にすいませんでした! 俺たち人間を脅かすことが生業のような妖怪なもんで、つい悪戯心が芽生えちまう性分で、もう金輪際、人を脅かすことは止めるんで、今回のことは水に流して下さい!」
「その言葉に偽りはないか」
「ないっす! 山に帰ってこいつと二人でのんびり鮎釣りでもして暮らしていこうと思います!」
九助は平身低頭して必死に詫びるので、銀三郎はそこまで責めるつもりもなかったから、
「よし、わかった。その言葉を信じる。では、財布を」
「虎二郎、ペッしろペッ」
虎二郎は木偶の坊のように口の中に力ない腕を突っ込むと、中からは唾液でべとべとした赤朽葉の麻袋、中も無事に父の金一封もちゃんとある。
「今回は本当に迷惑をかけました。では、これで失礼します」
狸の九助は依然、意気悄然としている狐の虎二郎を背負い込み、お辞儀をして河原を上がって去って行く。
「あっ、そういやお侍さん、あなたのお名前は何でしょうか」
深い霧では、まだ近いはずの九助は影ほども見えない。
「銀三郎じゃ」
「では、銀三郎さん、また機会があれば会いましょう」
それきり河原には何者の気配も音も消え、寂寞とした河原には本来の滾々と流れる恩智川の音が戻り、河原に残るのは銀三郎と娘——そうだ娘!
銀三郎は薮畑をかき分けて娘を探すと、それほど入り口から遠くない薮の中で股をおっぴろげて平然と眠っいるのを発見した。
太い娘だ。
銀三郎はまずは自分の荷物を薮の外へ出すと、次は娘を引いて、河原に延べたむしろの上で寝かせた後、自分も肘を枕にして横になり、川のせせらぎを聞き流しながら、遥か遠くのおぼろ月を望んで、そんなに長くない夜を、朝焼けの時まで過ごすつもりである。