東大阪 弐
親爺について銀三郎達がやってきたのは瓦葺きのすこしくたびれた趣きのある木造二階造りの宿、玄関の前には赤々と燃える提灯の紙張りに「七宝」とある。
「荷物をお持ち致しましょう」
宿の前で親爺は振り返ると、手に持った提灯に照らされ、親爺の細く切れた目があやしく光ったかと思えば、すぐにまた人の好い、古翁のような万福の表情に戻る。
「これはかたじけない」
銀三郎は何だか不思議な心持ち。
だが、それも宿を前にして旅の疲れがどっと押し寄せてくると、どうでもよくなってしまう。
「これはいい刀をお持ちでございますね」
親爺は銀三郎から荷物を受け取ると、すぐにその中の「小烏丸」にじっくり目を落として、仔細深く検分する様子。
「鞘の上からでも良さが分かるのか」
「お客さんのような旅の方に今までも何度も見せていただいたことがありますし、それに——」
「それに?」
「この刀からはあなたの怨念じみた執念のようなものを強く感じます。今までも数多の人を斬ってきた歴戦の気立てを感じる——お客さん、この刀はよき刀、さぞ切れ味がよろしいでしょうな」
知ったような口ぶりをする——と銀三郎は笠の中で親爺を笑止がって薄く笑った。
親爺に一階の部屋へ案内されると、銀三郎は黒袴の帯は解かずに、編笠だけ取ると、美男子と偽っても隠しきれぬ凛々しく美しい顔立ちが障子窓から照らす月明かりを受けて、ぼうと銀三郎の顔を青白く照らす。
沈んだ物憂い目は瑠璃のようで、現世に生きるというよりは夢の世界の住人のような雰囲気。
人間というよりは幽霊や妖怪の類い。
現実というより夢。
しかし、それもこれもすべて銀三郎本人の生まれ持った気質というもので、ちゃんと実体もあれば影もあり、今は敷かれた夜具の上で胡坐をかき、腕組みをして、「西果つる国」にあるといわれる秘剣を明鏡止水の気持ちで一念しているのである。
「かー、はやくこの目で見てみたい」
とか、
「秘剣というとどのくらい切れ味がいいのだろうか」
とか、
「匂いはどんなものだろう」
とか、
「私の『小烏丸』も斬った時には胸の透くような痛快さだが、秘剣はそれを越えられるだろうか」
とか、終いには、
「ああ、眠れない!」
勃然とこう叫ぶ始末。
さっきまでの疲労困憊はどこか遠くへ飛翔していったものらしい。
これは今に始まったことではなく、旅先でたびたびあったことで、一種の恋の病のようなものである。
人を愛する代わりに、剣を愛する銀三郎の恋の病。
普段、同輩の男にも目のくれることのない銀三郎だが、剣のことになればたちまち一人のうら若き乙女になって、頬はゆるみ、ひとりでに笑いがもれたり、未だかつて誰にもみせたことのない門外不出の処女の笑顔を見せる。
「ふう、少々熱くなりすぎた。もう寝よう」
銀三郎は枕元に置かれた無銘の業物「小烏丸」と脇差を順序を変えて置き据え直し、透き通るような銀髪のポニーテールも解かずに、夜具に仰向けになって寝転がる。
部屋には銀三郎一人しかいない。
では奈良市から苦心してきた娘はどこ——その娘は銀三郎の隣の部屋で元気のいいいびきをかいて眠っている。
銀三郎が今から寝付こうとした時、ふと砂壁にかかった真っ赤なでかい鼻が特徴の天狗のお面が気になる。
どこに飾られていてもなんの不思議もない能面に過ぎないが、銀三郎はまどろみ落ちそうな意識の中で、そのお面を睨めていると、不意に天狗のお面が瞬きを一度だけした。
その瞬間、銀三郎はガバッと布団を振り払い、起き上がって「小烏丸」の柄に手をかける。
しかし、それから暫く天狗のお面とにらめっこを続けていたが、瞬きはそれきりで、釈然としないながら、銀三郎は睡魔を堪えられずに、ついに柄を掴んだまま、突っ伏して眠ってしまった。
二
下宿屋を営んでいる親爺は銀三郎やその連れの娘を無事部屋に案内し終えると、自室に戻り、明かりもつけず、畳の上には何も敷かず、何かを待っているように、ぽつねんと胡坐をかいて座っている。
「遅えな」
時はすでに丑三つを迎えようとするとき、魑魅魍魎が最も盛んなる時である。
「九助の奴、何をしていやがる」
この親爺、さっきから九助、九助と苛立ち混じりに怨気を吐いてばかりいる。
九助とは一体誰か、それは知らないが、九ツ時を過ぎたあたりから、しきりに廊下に面した襖に人の気配を探って、誰も来る気配がなければ、チッと舌打ち一つして、また、じっとしていることももどかしく見えて、しばしば顔を廊下に出しては、物音一つ逃さないように耳をそばだてている。それでも誰も来る気配がなければ、チッと舌打ち一つ漏らして、銀三郎達の案内をつとめた時と打って変わった、厳めしい面をして、九助と呼ばれる奴を待っている。
これを見れば、親爺と九助との間に何か重要な約束があるに違いない。
それをすっぽかしてか、いつまでも現れない九助に親爺の我慢のキャパシティーもいよいよ限界に近づき、
「もう我慢ならねえ!」
野郎ぶち殺す!! という勢いで胡坐をかいていた膝をダンッと叩いて勢いよく畳を立つと、上段の間を抜けて沓脱ぎの草鞋を突っ掛けて、暗い廊下を腰を屈めて進む。
親爺の、足音一つ立てず、スーと廊下を突っ切って行く姿は心得たもので、イタチかキツネのごとき速さ。
そうして廊下を渡り、壁に背中を密着させた先は彼の佐々木銀三郎が眠っている寝室。
そろりそろりと抜き足差し足忍び足で膝を進めて襖の前まで行くと、小指一本が入るか入らないかの隙間を作って、細くつり上がった目を光らせて、中を覗く。
六畳一間という決して広くない部屋で、襖から一畳半隔てたところに銀三郎は首まで布団を被ってそっぽを向いて眠っている。そして、その枕元には大小の差し料が一つずつ……。
親爺はそのうちの大きい方——「小烏丸」をじっと見てにたにたと邪悪の笑みを浮かべた。
これを見れば、大体この親爺の性質が知れたようなもので、この小翁こそここ最近東大阪の地で旅人を好んで狙う盗人であることはいうまでもない。
しかし、盗人が表立って下宿屋を営んでいるというのもおかしな話。
幾多の旅人の持ち物を掠めてきたというのだから、いつかは役人たちの御用の手が伸びそうなものであるが——これには何か相当な裏が隠されているに違いない。
親爺はといえば、それから銀三郎の寝室を侵すわけでもなく、また、「小烏丸」に見とれるでもなく、じっと息を潜めて三白眼をもって何をかを睨みつけるようにしている。
その何かとは、つまり、上の砂壁に掛けてある天狗の能面で、親爺はそろそろと銀三郎の寝室に侵入すると、「小烏丸」には目もくれず、一目散に天狗の能面めがけて走って行く。そこでもやはり足音一つ立てず、蜘蛛のように天井を伝い、鮮やかに能面をさらって行くところは、非常に人間離れした業である。
天狗の能面を無事に回収すると、銀三郎の寝室をそっと閉じてから、能面に大きな頭突きをドカン! と一発。
「イッテェ!」
不思議なことに、天狗の能面は大きな悲鳴を上げる。
「バカたれッ!! 静かにしやがれ!」
今度は大きな拳骨がぽかんと言わずドゴォン!と天狗の額に飛ぶ。
「勘弁してくれ!」
天狗の能面がわなわなと震えだすと、天狗から急に真っ黒い毛むくじゃらの手足が飛び出しかと思えば、首の代わりに獣の胴体と尻尾が現れ、天狗の能面は次第に形を変えて、終いには狸の顔になった。
おっとこれは化け狸。
古来より人を騙すこと数千里、その名を知らぬ者はない日本の中で特に馴染みのある妖怪の類いである。
化け狸は変化を終えると、二本足で立って、上段を降り、沓脱ぎを越えて、親爺から一、二間ほど離れた所に突っ立つ。
「おい九助、どこまで行くんだ。こっちに来い」
「いやだよ、虎二郎。行ったらまたぶつだろ」
「ったりめーよ」
「だったら、そっちには行けない。これ以上おつむが悪くなったらやだもん」
「冗談だよ。ぶたねえから、さっさとこっちに来いってんだ」
「来ねえとこうだ」と親爺が腕を回して見せると、化け狸九助はすっかりすくみ上がってしまい、しゅくしゅくとなって親爺のもとへ行く。
九助が親爺に近づくと、「むん!」と親爺が声を殺して喝!!
そうすると、次第に親爺の着ていた服は消え、代わりに、暗がりではよく分からないが、ふっさりとした金毛が現れ、尾は二つに分かれて、手足は赤茶けて、胸は白く、相好のいい親爺の顔は崩れて、吻が尖り、糸目が凛々しい狐に化けた。
親爺に化けていたのもまた妖怪。化け狐といって、化け狸と並んで日本古来から人を欺いてきた妖怪である。
「おい、九助」
最前から潜めていた声を更に潜めて、金色の瞳に怒りの紅蓮を灯して、化け狐虎二郎は九助を厳しく追及するつもりである。
「何だい……」
「とぼけるな。一体いつまで俺を待たせる。あの侍が寝た所を見計らって、俺の所に合図しに来いと何十回もやったことだろうが。まさか、寝ていたわけじゃ——」
「いや、虎二郎。まず聞いてくれ、聞いてくれ。これにはちゃんとした訳があってだな。寝てた訳じゃないんだよ。むしろ、今晩は寝るに寝られない。あの女は恐ろしい……」
「女? 女なんていたか?」
「驚くなよ。お前が男だと思ってるあの侍、実は女だぜ」
「なにっ!?」
ここで安からぬ怨気と怒気をまとっていた虎二郎の顔が水を打たれたように驚愕に染まる。
「それマジ?」
「マジだよ」
虎二郎はまた襖を小指の太さ程開けて、中を覗く。九助もその上から中を覗く。
銀三郎は相変わらずそっぽを向いて、すやすやという寝息も立てず、部屋は全くの静寂に包まれている。
これだけ見ても、自分が連れてきたこの侍が女だとは俄に信じ難い虎二郎は穴の空くほどに銀三郎を見つめやがて襖をそっと閉じ、
「ふん。あれが女であれば、物怪の幸いじゃないか。どうせ人の目を忍ぶ為に武家の格好をしているだけだろう。本筋の侍じゃなくて良かったじゃないか。何をビビることがある」
「それがそうでもないんだよ。あの女の殺気には凄まじいものがあるぜ。俺、あの女と最初にちょっと目が合っただけなのに、あやうく勘付かれるところでよ、それからしばらく動けなかった。その後も、寝静まった頃を見計らって、お前のもとに行こうとしたんだが、行こうと思って降りた瞬間、あの女、寝ぼけたまま斬りつけてきやがったんだ」
「ホレ、証拠に」と狸の九助は大きなまん丸い尻尾をふりかざす。
確かに尻尾の一部の毛が剃刀で切って落とされたように、禿げてなくなっている。
その剃り口を見れば、実に見事なもので、毛先が滑らかに切って落とされているのだから、虎二郎もこれには少し驚き、戸惑った。
皮や肉が切れていないのは、不幸中の幸いとも呼べるもので、結論は銀三郎が寝ぼけていて助かったという事実一つに尽きる。
もし、相手が寝ぼけておらず、尻尾ではなく胴体を落とされていたら——それを想像すると、この妖怪二匹は自分達はどえらい怪物に目を付けてしまったのかもしれないと少し後悔し始めた。
「くそ! 妖怪が人間に恐れてどうする……」
「なあ、虎二郎。今回はもう諦めねえか?」
「いーや、諦めない。ナニ、今まで屈強な男や多少腕に覚えのある剣客を相手にしてきたんだ。相手は強いとはいえ女だ。お前もじっくりと見ただろ、あの大きい刀、あれは一級品に違いねえ。それに一度迷わすと決めたんだ、それをビビって成し遂げられないようじゃあ、化け狐の名折れだ」
「だけども……」
九助は虎二郎の身の上を案じて、顔を曇らせる。
「俺の敏捷な足と器用な手、お前の逃げ足があれば、天下に敵なし」
フンッと鼻息を荒げて、虎二郎は難路を前にして息巻いている様子。
「今回もアッと驚かせてやらあ」
「大丈夫かなあ……」
一方、九助は嫌な予感を感じずにはいられない。