東大阪 壱
奈良盆地と大阪平野に囲まれた生駒山地の主峰の天を穿つ生駒山を東大阪市の方に下り、ちなみに東大阪方面に傾く生駒山を別で草香山と称することがある、銀三郎達が東大阪市街に降り立った頃には油照りの空は天蓋で閉じられ、柳が風に泣き始めると、雲間から月明かりがぼうと銀三郎達を照らす。
もういつ百鬼夜行の集団にでくわしてもおかしくない時刻。
すやすやと五つ児のように寝息を立てて銀三郎の逞しい背中に頬を埋めて眠る娘を背負って、銀三郎は田んぼ道を急いで歩く。
提灯もたいまつも持たず、頼りになるのは月明かりだけ。
ここはどこだ。
方向も何も定めず、道往くままに任せていたので、銀三郎は自分が今どこにいるか全く把握していない。
それに、
ぐるぐるぐる、ぎゅるぎゅるぎゅる、
結局何も口にできず、腹の鳴りはいよいよその危急を強く訴えるばかり。
ただならぬ疲労と熱感が体の内から萌すのを感じ、足はぱんぱんに腫れて、足の爪は少し欠けているというのにそれでも足を休めずに、どこともつかない道を歩いていると、ふと前方に立て看板が現れる。
その看板にしたためられた文字を見れば、
東大阪市 山手町
この先 額田町 後ろ 生駒山
「なるほど、ということは生駒山を越えて、大阪へ流れたということか」
木津川市には出られなかったか——残念。
木津川市とは京都の南端に位置し、奈良市のすぐ上に隣接し、名前の由来となった木津川が市中を横断するように流れている。その木津川は加太越えをした銀三郎には少し懐かしい鈴鹿山脈と布引山地のすぐ麓を源流に持つ拓殖川から流れてきている——つい一昨日のことではあるが、銀三郎はその清流でもって渇く喉を癒したことを覚えている。
その木津川市に出ていれば、目的である鬼切安綱——まあ、探索や実地見分の手間は省いておいて、銀三郎が望んでやまないそれが待つ洛中は目と鼻の先にあったというのに。
銀三郎は後ろを振り返り、靄が立つ生駒山を見上げ、ここを再度登って、木津川へ出ようかと思ったが、それはかなりの手間だし、何より奈良市中に戻れば、手捕りにされる恐れがある——鬼切を目の前にして、それだけはぜひとも避けておきたい。
そうなると、やはり大阪から京都へ迂回しなければならないわけである。
しかし、銀三郎はあまり大阪に明るくない。大阪の端の端となる場所であれば、なおのこと。
「とにかく、今晩はどこかまともな場所で夜を明かさないと」
銀三郎はずり落ちそうになる娘を背負い直して、足を踏み出していざ往かんとするとき、ふと視界に留まったものがある。
看板にぶら下がるようにして釘で止められているのは一葉の唐紙。
さっきまで気がつかなかったのは暗さのせいでもあるだろうが、風に揺られて紙が舌を巻くようになっていたからだろう。
宵風に吹かれて鬱陶しい、もとい、書いてある文字がよく見えないので、ペッと紙を外してみれば、そこには繊細で豪快な筆跡で、
近頃 人の善意につけ込み 誑かす 不届きなる鬼 あり。 夜分遅く 外出する場合は 注意されたし。
とこんなことが書かれてある。
「鬼、となると賊かそれとも本物の鬼か……」
過去に人を幾人か斬り払ったことがある銀三郎であるが、未だかつて妖怪の類いは斬った試しがない。
妖怪を斬ればどんな感触がするのか——、
そもそも斬れるのか——、
これは銀三郎の永久の議題として頭の中にあることである。
それを考え始めると、銀三郎は好奇心でワクワクする。それに呼応するように、今は腰に差した無銘の業物「小烏丸」がひとりでに鞘から抜けるのではないか、という荒唐無稽な妄想さえわき起こる。
一度でいいから、斬ってみたいものだ——
そんな風に銀三郎が思っていると、
「もしもし、そこのお侍さん」
その呼び声は立て看板の置かれた三叉路の分かれ道いずれから起こった。
いやに猫なで声で、かつ物腰の柔らかな、ややたけなわを過ぎたぐらいの男の声。
銀三郎のほかに夜道に人は見えないので、自分に声を掛けているとすぐに悟り、今しがた見た鬼が出るという触れ書きのこともあいまって、銀三郎は少しの訝しむ心と大いなる警戒をもって、いざとなればすぐにでも業物「小烏丸」を引き抜ける余裕とをもって、この怪しげな声のした方向を向いて、
「誰だ!!」
一喝をいれると、
「おお、そんなに警戒する必要はねえ、といっても無理か」
「誰だと聞いている!」
「下拙めはこの先で下宿屋を営んでいるしがない親爺」
「もし、お侍さん。あなた随分お疲れでしょう。息の乱れで分かります。下駄の鼻緒ももう少しで千切れてしまうでしょう。もしよろしければ、今からウチに来ませんか?」
「私からはそちらの姿は見えぬが」
月が出ているとは言え、一寸先は闇。それを提灯もなしに、下駄の鼻緒が切れかけていることも見通すとは甚だ怪しい……。
下宿を営んでいるという親爺はハハハと寂寞とした暗夜に明朗快活とした笑い声を上げて、
「下拙は昔から夜目が利くんですよ。ですから提灯がなくともよく夜の世界を見渡せます」
「それは頼もしいことで」
「ええ、全く」
「して、そなたはどうして今時分こんなところへ?」
「それはこの時間帯のこのあたりは、ほら右も左も水田ばかりでよく旅人が迷うので、それで下拙が夜回りついでによろしければと案内を買って出ているわけですよ」
「提灯もなしに?」
「下拙はもう盛りも過ぎて非力でございますから、提灯をぶら下げていたら賊に餌をちらつかせているようなもので、ですが、下拙の天賦の夜目をもってすれば、闇夜にまぎれつつ、道も分かるし、闇に潜む賊もすぐに分かるので、鬼が出ればまあ諦めるかないですけれど、賊だと勘付かれる前にひっそりと逃げ出せるので、分がいいですね。まあ、鬼が出るというのは冗談ですがね」
闇夜にまぎれて今だ正体を明かさぬ親爺はまたハハハと快活に笑う。
「鬼が出るという触れ書きが看板に張ってあったが」
「どうせ子供の悪戯でしょう。捨てといていいですよ。おおかたそれで町民や旅人を驚かそうという魂胆でしょうし」
「それで、どうします。ウチに来ますか。ウチに来ないにしても、どこか安全な場所までは案内致しますよ」
まだ油断ならないが、泊まる場所を提供してくれるという話は願ってもないことである。
娘という慣れないものを背負って、生駒山を越えて、銀三郎の体力も残り僅か。
正直に言って、もうどこでもいいから休まりたいというのが本音。
銀三郎が「泊まろう」と頷くと、親爺は快諾し、ぬっとようやく銀三郎の前に姿を現しました。
背は今背負っている娘より低く、目はきりりとして細い。
気味の悪い登場の仕方だ。
銀三郎の率直な感想である。
「では、下拙のあとについてきてください」
「待て。提灯は持ってないか。どうも疲れがたまって目が瞬く。あるとついて行きやすいのだが」
「一応、ありますよ。待っててくださいね。今、火打石を打つんで」
カチカチと金と石の乾いた音のぶつかりが暗い中で響き渡る——ぼう、と提灯の中に暖かい火の明かりが灯ると、周囲の情景が少しだけ顔をもたげる。
「では、ついてきてください」