奈良
銀三郎が京都に入る前に、彼が道を曲げて奈良県へ入った理由を記しておこうと思う。
銀三郎が東海道を逸れて、わざわざ奈良県の方へ入ったのにはしっかりとした理由がある。
プロローグにも記した通り、銀三郎は捨て子である。それは揺らぎのない事実であり、銀三郎が実父や実母に会いたいと願っているかは知らないが、本人もそれを受け入れて、佐々木惣一郎のもとですくすくと育ち、身長一七〇センチ越えという男にも引けを取らない貫禄を有しながら、眉目秀麗で白陶のようなきめ細やかな肌に線の細い身体は男から見ても女から見ても少なからず目を引くものである。殊に、それらよりもさらに目立つのは流れるような白銀の髪で、あまりに目立つ故、いらぬ注目まで浴びてしまうことを本人も嫌という程知っているから、普段はポニーテールのように結った髪を衣服の下に隠し、三度笠を深くかぶり、やむを得ず笠を取り払わなければならない場合や笠を取らねば命が危ないといった危急の場合などでない限り、滅多に、少なくとも人前でそれを取ることはない。
話を戻して、銀三郎が捨て子であることが、奈良へと足を運ぶ理由には全く繋がらないように感じられるが、銀三郎が拾われた茨城県の北は大洗岬から南は波崎にかけてひろがる鹿島浦、そこは武人であれば誰もが知る、武神タケミカヅチを祭神として祀る鹿島神宮がある場所である。そんな武神にゆかりある土地で、そのうえあらゆる生命の起源である海から運ばれてきたように海岸にひとりぽつんと取り残された女の子が武人を志し、かつ関東有数の剣客まで登り詰めたことに何かただならぬ因縁を感じない者はない。
育ての親である佐々木惣一郎の口からもかつて、
「お前はタケミカヅチ様の生まれ変わりかもしれぬ……」
とか、
「一度タケミカヅチ様のおわす奈良の春日大社に参拝するとよかろう……」
とか、言われた経緯があり、また銀三郎本人も薄々その決して薄くない縁故を感じていたから、一度春日大社へと足を運んでみる気になったのである。
銀三郎は奈良県奈良市の春日野町に社を構え、二十二社の一つに数えられ、自分の故郷?にゆかりある神を祀る春日大社へ足を運び、自らの生い立ちを振り返りながら、自分の武運長久を祈りました。
さて、春日大社への参詣が終われば、銀三郎が奈良に残る理由はない。
早速、雲助でも呼んで駕篭をよこそうと銀三郎が宮道を下って奈良市中へとでたとき、にわかに喉の渇きと若干の足の疲労を感じました。
(そういえばここに来るまで何も食べてなかった)
銀三郎が鈴鹿山脈と布引山地の間に緩やかな勾配を持つ加太越えから奈良方面に足の向きを変えたのはつい昨晩のことである。
それから一睡も挟まずして、馬にも駕籠屋にも頼らず、ただ己の脚力と体力をもって、決して楽ではない山道を足袋も穿かず、素足に下駄履きの状態で、半日と少しだけで奈良市の春日大社まで歩み抜いた上で、少しの疲労と渇きしか感じ得ない銀三郎の底秘めたる力は末恐ろしいものがある。
それこそ枯れることを知らない温泉のよう。
しかし、いかに体力や根性がお化けであっても身体の造りは人間のものである。ここに来て、まるで思い出したように飢餓の感を胃腸が訴え始めたのである。
くぎゅるー、くぎゅるー、
空腹を切に訴える腹をさすり、銀三郎は手近に迫った町角の茶屋を見つけて、藍色で染め抜いた暖簾をくぐると、
「いらっしゃい」
これは人のよさげで小柄な親爺。
銀三郎は隅の席に腰をおろして、
「親爺、団子三本と茶、ほうじ茶がいい」
ぶっきらぼうにこれだけ頼むと、
「へい、うけたまわりあした」
親爺はにっこりと笑って厨房の奥へと引っ込んで行く。
店内には、まだ昼時だというのにはやくも酒に飲まれててんやわんやとしている足軽の集団や銀三郎と同じく各地を遍歴していると思しき金剛杖に旅装の男、いずれも銀三郎を見咎める様子もなく、また銀三郎が女であることに気づいた気色もない。さらに店内を見回すと、これは雲助と思われる二人の男に挟まれたまだ十六ぐらいの白地の娘。
カラスの濡れ羽色のようにつややかな黒髪、気の強そうな太い眉、目はくっきりと大きく、水蜜桃のように紅が差した頬と桃色のしおらしい唇は白面にそっと愛嬌を添えている。背丈は小柄なようで、銀三郎とくらべると二〇センチぐらいは離れていると思われる。
顔に渋面をつくっているところを見れば、娘はとんだロクでなしに絡まれていると見えて、下卑た顔をして言い寄る雲助を払いのけて避けようとするが、右に避ければ一方で待ち構える雲助に触られる、それを避けようとして左に逃げると、今度はまたさっきの雲助が待ち構えている。
まさに前門の虎、後門の狼。
悪辣至極の二人の挟撃を受けて、逃げ場を失った娘は、徐々に顔に若干の不安を萌して「助けて」と言わんばかりに誰か余人にすがろうとして周囲をあわただしく見回しているところを見ていると、銀三郎は哀れを催すとともに義憤の感を起こして、段々いても立ってもいられなくなり、膝元に据え置いていた無銘の業物「小烏丸」を取って立ち上がろうとした時、視界を遮るように立ち塞がった者がいる。
「変な気を起こすのは止しなさい」
見上げれば、それは盆に熱々の茶と三本の団子をのせてやってきた人のよさげな親爺。
だが、そんな親爺も今では柔和な相好を崩して白眼をもって銀三郎を制している。
「しかし——」
「あなた様がお怒りになる理由は重々承知でございます。しかし、ここではそのお怒りをどうかお鎮めくだされ」
「アレを見てむざむざと放っておけるか」
銀三郎は納得がいかずに、親爺を振り払ってでも、悪辣な男共二人の前に立ちはだかる気概を見せる。
「ここには他のお客様もいらっしゃいます。もしここで殺生沙汰になれば、ホラあそこにたむろしている足軽達が見えるでしょう。彼らに変に飛び火すれば、いかに剣の腕に自信があろうともタダではすみません!」
親爺は極力声を抑制し、骨ばったしわくちゃな手を鞘に手を置いている銀三郎の手に添え、力強くなだめ諭すようにして、
「あの娘さんはかわいそうですが、あれは悪い雲助共の一時的な享楽で、ずっと続くものではありません。雲助共が飽きれば、いずれあの娘さんは無事に解放されますから、それまで私たちは黙って事が静まるのを待っていればいいのです」
「それでは親爺、娘の心が助からない」
銀三郎の意見ももっともである。
「……」
親爺は次に継ぐ言葉に困窮し、ちょっとだけ娘さんの方を見て、それからまた眼下の銀三郎に向き直り、
「そう気色ばんではいけません。ですから、ね? ここはひとまず怒りを押さえて——」
無理にでも銀三郎を押さえようとする時、店の奥から「キャッ」という短い悲鳴が起こった。その悲鳴の源はまさしく最前から娘が二人のゲスに挟まれていた所と一致する。
銀三郎はその悲鳴を聞いた時には親爺を振り払い、二人のゲスの前に敢然と立ちはだかっている。
銀三郎がこのように早く動けたというのはさっきから親爺の話には全く耳も貸さず、見ていられない、我慢ならない、というその時までゲス達の動向を笠越しに寸分も見逃さず、ゲス達の娘の身体を触ろうとする直前の動きを見て取ったからである。
二人のゲスは突然視界が暗くなったので、娘をいたぶる手を止めて、不審がって面を上げると、眼前を大きく覆うのは黒い木綿を着流した一人の長軀なる武士、すなわち銀三郎である。
ゲス達は顔を見合わせて、何も言わず、ぽつねんと立ちはだかる一人の武家にすこし戸惑いの色をみせるも束の間、すぐに顔色を嗜虐的なものに変えて、
「なんだ、おまえ? 俺らになんかようがあるんかいな」
「せや、せや」
銀三郎は何も答えない。いや、答えまいとする。ただ、笠に隠れて見えない目は娘の方にそそがれている。
かわいそうに、娘はテーブルに身を突っ伏して、肩をわななかせて泣いている。
さっきまで血色の良かった銀三郎の肌は一瞬血の気が引いて、青白く見えたと思えば、またすぐに元の血色の良い肌に戻る。
「言っとくけどなあ、コイツがちゃんと金を払いさえすれば、こんなことにはなってねえんだ。つまり、コイツは自業自得ってわけよ。何も知らねえくせして突っかかってくんじゃねえ!」
「せや、せや」
さっきから右のゲスが口を出すだけで、左に控えたゲスは首を振って相槌を打つのみ。
「んだてめえ、さっきからだまってばかりじゃ、何にもわかんねえぜ。用がないならよォ、さっさとあっち行けよ」
「せや、せや」
「何も金を払っていないからといってそこまでする必要もないではないか。それではあまりに人情がない。仮にその娘がお前達にしかるべき物を払っていなかったというのなら、私が代わりに払おう」
ゲス共は互いに顔を見合わせ、思わぬ邪魔が入ったものだと舌打ちして、
「邪魔すんじゃねえよ。関係ない奴は引っ込んでろっ!」
「せや、せや」
そうして眼前にそびえる銀三郎を無視して、右のゲスが娘を抱き起こそうとする時、銀三郎はゲスの膳に置かれた茶飲みを「小烏丸」とは別の手で持って、それをゲスの顔にぶちまけた!
右のゲスはわなわなと肩を震わせて、ダンッと席を立って、
「テン——メェッ!!」
胸倉を掴んで殴り掛かろうとしてきた所を、銀三郎は風圧に押されてつかみ所のない綿毛のようにゲスの腕をぬっと避けると、代わりに男の喉仏に「小烏丸」を収める鞘の突きをプレゼント。
喉仏を潰された男はドシンと力なく膝から崩れ落ち、血を吐きながら地面に突っ伏してしまった。
しばらく悶えていたが、やがてその動きがピタリと止まってしまった。
死んだわけではないが、まったく失神したものと見える。
これを見ていた外野の足軽達は酒も入っているせいもあるだろう大きな盛り上がりを見せ、金魚のフンのように右のゲスに追従しているだけだった左のゲスは相方を介抱すべきか、一人逃げるべきかを迷っている様子だったが、銀三郎が鞘を向けると、一目散に情けない声を上げながら逃げ去って行った。
これで万事解決かと思われたが、事態は銀三郎が想定していたよりもずっと根深いらしく、親爺が言うに、
「お二人ともここから早くお逃げなさい! あの雲助はここ一帯を支配する領主、加護宗一お抱えの駕籠屋でございます! もしあの蜘蛛助一匹が注進に走ったとすれば、あなた方の禁固刑は必至、最悪加護様の虫の居所が悪ければ、死罪となるかもしれない!」
「それは本当か!」
「ええ、だからお止めしたのです……。こうなれば仕方がありません。わたしのほうから上手く申し開きをしておくんで、お題は結構ですから、なにとぞお早く……」
しかし、そんな危急が迫っているにも関わらず、案外平気そうな銀三郎。追ってが来て斬り合いが始まろうとも、逃げ切る自信があるのだろうか。
「娘よ、立てるか」
「はい。ええと、その、お助けいただきありがとうございます」
「今は礼を聞いている暇はないようだ。走れるか、走れないなら私の背中に掴まれ」
「すいません。わたしばっかり迷惑をかけてしまって……」
娘ははにかんで、銀三郎の背中に股がります。
娘がしっかりと乗った感触を背中に感じると、銀三郎は勢いよく立ち上がる。
「しっかりと掴まっておけ——」
こうして、銀三郎は素性の知れない娘一人を道連れに、昼下がりの奈良市街を無二無三に駆け抜け、気づけば生駒山も下り、その頃にはすでに黄昏もすぎ、日が瀬戸内海に没し、宵闇の気配が銀三郎の背中を這い始めていた。そして、銀三郎が知らず知らずのうちに大阪へ入ったことを知ったのは、東大阪市の町に出たときであった。