大江山の怪物、伊吹山の怪物 拾壱
夜はさらに深まり、あらゆる生者の息づかいが絶えて久しい頃。
密かに外出の機会を窺っていた純一郎は人知れず起き上がり、闇に馴染む黒ずくめの衣装をまとって、顔を頭巾で覆い、いつぞやの化け狐の虎二郎と化け狸の九助が妖術で見せた暗殺部隊のそれと同じような格好である。打裂羽織に、顔面をすっぽりと覆う頭巾から目だけを覗かせて……。
しめやかに準備を整え、帯を絞め直し、気合い入魂、肝心の二本も忘れず、雄次郎を討つため、いざ、と奮い立ち、膝をあげようとすると、
「どこに行くの?」と純一郎の素足に生温かい息がかかった。
黄泉が主、伊邪那美命に仕える泉津醜女の黄泉からの死の呼び声ではない、では化け狐の九助がわざわざ横浜まで来て、銀三郎に受けた恥辱を兄たる純一郎にぶちまけに来たのか、それも違う。妖怪は神出鬼没であるから、大阪から横浜まで一息に行けてしまう、なんてこともないことはないかもしれないが、第一、九助は純一郎の住処知らない以前に、銀三郎に兄がいることさえ知りはしないのだ。
では、一体この声の主は何者——不思議に思って、純一郎が自分の足元を穢れを払うように、今、息がかかった足を乱暴に振り回すと、「きゃッ、危ない!!」という叫声が上がる。
このおきゃんで弾力に富む女の声は我が妻、スイであるに違いない。
その証拠には黒いシルエットが両眼をぱっちりと開いて、上目遣いにこちらを見ているのを闇に慣れた純一郎の目がしかと捉えた。
「もう! 危ないよ! そんなに足を振り回したら、間違って目に入っちゃうよ、幽霊でもないんだし、そんなに気味悪そうにする必要もないじゃない!」
スイは純一郎に邪慳に払われたことが純一郎の妻である自分という存在を否定されたかのように感じ、強い孤独を感じる一方、それに比例して強い怒りが噴出してきて、この時に限り声を荒げたようである。
「悪い悪い、突然だったからびっくりしてよ……」
純一郎はすかさずスイをなだめて、その後で、
「起きていたのか……」
と動揺と困惑を隠せずに、思ったままのことを口にする。
にしても不味いところを見られちまったな。
純一郎は下から自分の顔を見上げる妻が妖怪変化の類いで人をからかって、それで妻の形をして、化けて出ていることを願い、もしくはこれが自分の良心の呵責が見せる夢幻であって欲しいと祈る反面、これは紛れもない現実……と諦めの気持ちが隅のあたりで、くすぶっているのを感じた。
「さっきから見てたよ、コソコソ何をするのかと思って見ていたら、そんな木炭のような格好になって、刀まで差しちゃってさ、一体どこに行くつもりだったの?」
「ちょっと腹の具合が悪くてよ……、トイレに」
これは純一郎、噓が下手である。下手すぎる。
「刀を持って?」
「河童に尻子玉を抜かれるといけないからさ……」
「川がないのに、河童がどこにいるっていうのよ」
「さあ……」
スイの厳しいお咎めには、剣術において右無しを誇る純一郎もさすがに言葉の剣を折るより他ない。
言うなれば、これは蟻と百足の競争で、勝敗は火を見るよりも明らかで、端っから純一郎は貪り食われる運命なのである。
さあ、こんな勝負が予め決しているような試合を続けることほど無益なものはない。
純一郎もそれを悟ってか、ようやく観念の体。
「全く、噓が下手ね。今時、子供でもそんな見え透いた噓はつかないよ。そんな大袈裟な物を持ってトイレに行く人なんている訳ないじゃん。本当は雄次郎さんのところに行くつもりだったんでしょ」
スイの核心を突いた言葉が純一郎の胸を圧迫する。