大江山の怪物、伊吹山の怪物 壱拾
「スイこそ随分こっちに来るのが遅かったね」
「私はお月様を拝みながら縫い物をしていたから、遅くなったんですの」
そう言うとスイはより明るい方へ一歩、二歩と踏み出し、ホラとさも自慢げに、懐から取り出したのはヨダレかけである。それを純一郎の視界いっぱいに突きつける。
「それは?」
「今度生まれてくる赤ちゃんのために縫ったヨダレかけ」
「気が早いなあ」
「純は分からないかもしれないけど、私のお腹の中の赤ちゃんの鼓動が確かに聞こえるの」
スイはよく注意してみないと、ああ確かにと得心のいかないほど微妙なお腹の膨らみを寝巻の上から優しくさすってやり、
「それを聞く度に、何かしないとって思って……それで勢いで作ちゃった」
「へえ」
思いつきの、それも衝動で、加えて即席で作ったにしてはよく出来ている。いや、出来すぎている。
コットン素材のヨダレかけにはイチョウの葉の刺繍が散りばめられ、とても手の込んだ出来で、素人勘定の上からでも、いくらスイの手先が器用で器量が良く、要領が良いとはいえ、思いつきで作ったにしてはやはり怪しむべき点があるから、自分にはナイショでコツコツと針を打って、今晩完成に漕ぎ着けたに違いない、と純一郎は自然とそう考えた。
そうするとこの代物は自分をわッ! と驚かせる為の、いわゆるサプライズみたいなやつで、半分とは言わず七割、八割は赤子の為だとしても、残りの二、三割は自分の為に縫ってくれたようなものである。
「上手だね」
純一郎が一応、褒め言葉を述べておくと、
「えへへ、純もそう思う? 私も結構自信があるんだ〜」
案の定、スイはいたく夫の褒め言葉を気に入ったらしく、顔いっぱいいっぱいに広がる無上の喜び。
このやり取りを見ても分かる通り、純一郎はその限りではないかもしれないが、少なくともスイだけは今朝の確執をすっかり失念してしまって、水入らずでイチャイチャするところは円満な風景そのもので、全く今朝の確執は何だったんだ、別世界に置いてきたような様子。
スイは押し入れから二人分の夜具と枕を引っ張りだし、それを整えている間に、
「純、今日はどこに行ってたの」
「気になるの?」
「別にさほど気になるってわけじゃないけど……何となく」
「んー」
これには少し純一郎は返答に窮してしまった。
いや、誤解をしないで欲しいのは決して後ろ暗い事情があって純一郎が返答自体に困っているわけではないということである。答えようと思えば、答えられる。答えること自体は楽で極めて容易なのだ。なら、別に憚ることはないじゃないか、水臭い奴め、さっさと答えやがれ——と純一郎本人もそう行きたいところではあるが、ただ、内容が問題である。
つまり、バカ正直に答えようものなら「雄次郎の後をつけていた」と答えを提示することは容易であるが、
スイは義弟である雄次郎の放蕩癖、それに対して夫の純一郎が難色を示していることを知っている数少ない
人間である。そして、それは、この二人の人間関係の危うさを知っていることも意味しているのである。
事実を述べると、今晩中にも純一郎は雄次郎を手にかけるつもりである。昼ごろの外出も刀の手入れもすべては雄次郎を手討ちにする下準備のためであり、雄次郎が今晩はどこをねぐらにし、放蕩を極めているかは既に押さえてある。
それが知られれば、きっとスイは止めるに違いない。いや、スイでなくとも誰であってもこんな凶行は止めるに決まっているのである。
それをさせないがための純一郎の苦心。ここで止められる訳にはいかないという意地。
まさか追及されるとは思っても見なかったことであり、不意打ちの質問を食らったことなどが必然的に重なり、返答にやや時間がかかったのである。
「急に外出するって言い出したからびっくりして、追いかけようにももうどこにもいなかったし……」
「や、少し東京まで上って友人と会いに行っただけだよ」
結局、純一郎は噓をついて、その場はやり過ごすことに決めた。この場合、それよりなす術はなかったように思える。
「ふーん、そうなんだ」
それ以上は追及の手が伸びることはなく、二人枕を揃えて、行灯の火を消し、夜具に潜り込むと、早速スイは寝息をたてはじめたが、純一郎は闇の中で目を見開いたまま、いつまでも眠る気配がない。
万事は順調である。後は夜がさらに更けるのを待つのみ……。