大江山の怪物、伊吹山の怪物 伍
「痛ッてえ! 腰が、腰が砕けるッ! タエちゃんッ!? 急にどうしたんでぇ!」
「静かにしろ」
「ああ? 兄者? タエちゃん、タエちゃんはどうした? おのれ! 畜生めがッ! オレのタエちゃんを返しやがれッ!」
雄二郎がむっくりと巨体を揺らして純一郎に掴み掛かろうとするのを、純一郎は蹴倒して、一瞬の間に畳に組み敷いてしまう。
体格差は歴然であるのに、あっけなく床に、うつ伏せで組み敷かれた大酔漢はジタバタと魚の水を求めるがごとく酸素を求めるも、虚しく、純一郎の細身ながら、逞しい腕の力強い圧制を加えられ、万事休すの様子である。
「寝ボケるのもいい加減にしろ」
純一郎、弟の自分に対する畜生呼ばわりが相当頭に来たらしく、相手が白旗を上げるのも忘れて、グングンとなお強い力を腕に込める。
しかし、これはいくらなんでもやりすぎである。
雄二郎が口から泡を吹き出し始めたところで、純一郎も流石に不味いと正気に戻って、しめ縄のように首に巻き付けた腕を解除すると、雄二郎は慌ただしく咳き込んで、この一時ですっかり酔いも醒めたようで、
「酷い寝覚めだ……。全く、おっかねえ兄者だ。何も俺を起こすのに、冥土を見せることはねえよ」
「お前が寝ボケるからだろ。一体、これで何回目だ。次は承知しないと前に忠告したはず」
「覚えてねえな」
こうぶっきらぼうに返すと、ふわっとこの巨躯なる男は欠伸を一つして、首をコキコキ、肩もかなり凝っているらしく、骨を鳴らして伸びをすると、畳の上に鎮座して、腕を組み、兄である純一郎を見上げる形。
さっきまで膝を曲げて横たわっていたから、奥羽山脈のようになだらかな山脈が地続きになっているようなものであったが、居住まいを正してみると、そのそびえ立つような肉体が富士山のような堂々たる貫禄を見せつける。甚兵衛羽織をしているが、盛り上がった肉体のせいでトーガをまとっているような感じになり、ほとんど半裸と言って差し支えないほどである。
それにどうかするとこの男、法隆寺に納められている仁王像、いや興福寺の、いや傑作と名高い東大寺の金剛力士像に見えなくもない。胸、肩、腕、股が服の上からはちきれないほどに迫り上がっているところや、日や酒に焼けて赤黒く変色した肌がますます、真に迫っている。
線の細い印象がある純一郎とは相対する肉体と相好、本当にこの二人は兄弟なのか、実は銀三郎のようにこの屈強なダルマも拾い子ではないのか。
いやいや、やっぱり雄二郎は佐々木の一族に間違いはない。よく見ると、顔や表情が父の佐々木惣一郎にそっくりである。面影がある。そうなれば、答えはシンプルで、体格や相好の違いは単純に遺伝の違いである。
純一郎は母親の遺伝を強く受け、雄二郎は父親の遺伝を強く受けただけにすぎない。
「ああ、そういやあ、アレは受け取ったかい、兄者の嫁はんに渡しといた例のアレ」
「奉納試合の明細が書かれた奉書のことだろう、受け取ったよ」
「そりゃよかった。で、中身は読んだかい」
「読んだよ」
「兄者は参加するだろ」
「お前は参加しないのか?」
純一郎は雄二郎の言葉に少しく引っ掛かるところを感じて、眉をひそめる。
雄二郎もまた銀三郎や純一郎と同じく直心影の剣術を学んだことがあり、免許皆伝まで受け取った元門徒であれば、当然、奉納試合には参加できる資格は十分備わっている。
しかし、雄二郎、きっぱり、
「しない」
とこう、すこしの逡巡も見せずに断言したものだから、純一郎は呆気にとられてしまった。