大江山の怪物、伊吹山の怪物 四
「私は行く」
純一郎は眼前のキジバトがパッと飛び立って行く後ろ姿を見送りながら、念を押すように、もう一度強く唱えた。
スイは絶句、取りつく島も隙も与えない夫の取り澄ましたような顔が返って今は面憎くて仕方がない。夫の顔が——純一郎の横面が今は不倶戴天の仇敵のように感じてしまうのは、憂い多き母親の子を守る本能がそうさせるのであり、多少癇癪を起こしやすく、悲観に沈みやすくなっているのは世の女の常である。
純一郎もそれを分かっているから、言うことは言ったと、これ以上は妻を刺激させないため、何も言わず、プカプカと水煙管を吹かして、相変わらず澄まし顔。
「どうなっても知らないっ!」
一体どんな罵詈雑言がスイの口をして地獄の亡者の呪詛のように降りかかるかと純一郎は閻魔大王の審判を受けるように内心、戦々恐々として待ち構えていたが、意外にもスイから飛び出したのは一喝のみ。
常のスイならば、三十分ぐらい過去から現在までの小言をひっくり返して、こんこんと説き伏せるはずだが……。
純一郎は内心、唖然とするよりは、少しの飢餓、物足りなさを感じた。
それから一言も告げず、スイはダンッとつっけんどんに立ち上がると、屋敷の奥に引っ込んでしまった。
純一郎は沈黙をもって、スイの背中を見送り、もう一度奉書を通読してから、ちょっと思案顔。それから、また一服。一服終えて、お茶を一杯……。
純一郎が朝の一人ティータイムを終えて、自室の襖の桟に手をかけようとした時、襖越しに大いなる地鳴りが空気を唸らせるのを感じ、桟に向かいかけた手が反射的に鯉口にかかり、勃然と眉間に殺気を寄せたのも一瞬のことで、純一郎は何かを悟り、すぐにそれを解くと、当初の予定通りサッと襖を開け放し、現れたのは、山、いや、岩、それもかなり大きい赤銅の岩、ウルルのような大男が純一郎に尻を向ける形で横たわって寝ているのである。
純一郎は大して驚きもせず、むしろ嘲笑と軽蔑と悲哀を含む目で眼前の一枚岩を見下ろしている。
「起きろ、雄二郎、ここはお前の寝床ではない」
純一郎が雄二郎と言うからには、この岩のように角張った筋肉ダルマは佐々木雄二郎に間違いない。
「くくッ、そこ、そこ、そこが気持ち良いんだ。もっと揉め」
純一郎が腰を蹴ったのを、雄二郎はくすぐったいようにもぞもぞと体を揺り動かし、目覚める様子はない。
であれば、もう一発。今度は一回目よりも強く……。
「フンッ!!」
「ハハハ、なかなか力強い、腕を上げたな、タエちゃん。タエちゃ〜ん、今度は足の裏も頼むよ〜」
大男の発する猫撫で声ほどおぞましく気色の悪いモノはない。
聞いてはいけないモノを聞いてしまったような、禁忌に触れたような気がして、純一郎もその時ばかりは鉄仮面が剥がれて、渋面を作る。
しかし、目覚めない。この酔いどれが、と純一郎は足の裏で蹴るのを止め、今度はスネで蹴り起こすつもりらしい。
純一郎の鍛え抜かれたスネは鋼より頑丈である。
帯をほどき、蹴りやすくしたところで、下から上へ突き上げる一撃!