プロローグ
一振りの刀を背に携えて日本諸国を巡礼する者がいた。
その漂浪者の名は銀三郎。
名前こそ男のものであるが、その実女子である。
育ちは神奈川県横浜市港北区綱島の道場で、生まれは不詳である。これには仔細があり、銀三郎はもともと鹿島の湾岸に捨てられていた、いわゆる捨て子で、そこへ偶然通りかかったのが、綱島に道場を経営していた今の、仮初めの父である佐々木惣一郎で、まだ生まれて間もない銀三郎を抱えて、道場へ連れ帰ったのが、銀三郎の物語の冒頭である。
銀三郎を抱えていた頃に、すでに還暦を迎えていて、跡継ぎには佐々木純一郎と佐々木雄二郎という二人の息子がいた佐々木惣一郎は銀三郎を銀子と名付けて、性別の通り女の子らしく育てるつもりでいたのが、どうしたことか、ちょうど銀三郎が六歳の時、銀三郎のほうから剣術指南を仰いできたのが初めで、惣一郎は再三に渡って説得を試みたが、銀三郎はそれでも頑に首を縦には振らず、剣術指南を仰ぎ続け、終いには私を男子のように育てて欲しい、とまで言うようになった。よし、そこまで言うなら、と惣一郎も幼き銀三郎の覚悟に感心を示し、名前を銀子から今の銀三郎へと改めて、それから九年間に及ぶ血の滲むような修行の日々を送った。
道場で約十五年間過ごし、銀三郎が十五歳になったとき、佐々木惣一郎の勧めで、埼玉県秩父市にある、とある著名な道場の下で五年間の荒稽古を終え、弱冠にして関東において名実ともにあっぱれとなった時、晴れて免許皆伝を授けられ、それから後は武者修行の旅に出るといって道場を後にした、今はその旅路の途中なのである。
して、関東第一の道場の下で撃剣を極めてまで武者修行に出た銀三郎の目的は何か、関東の道場を制覇し、更に剣を極めようと諸国の道場を訪ねて、総嘗めしようというのかと思えば、どうやらそれは違うらしく、銀三郎は秩父市での修行時代に町中でこんな話を聞いた覚えがある。
銀三郎が茶屋で息抜きをしていた時分、偶然耳にした浮浪者の形をした二人の壮士による話、
「船で太洋を突っ切った先にある西の果ての島国にはあらゆるものを紙を斬るように簡単に切り裂く秘剣が眠っているらしい」
「ソース」
「長崎で船乗りを業にしている知人によりゃ、西洋人がそう言っていたらしい」
「西洋人の言うことはあまり当てにならないね」
「それがそうでもなくてよ、マジな話、向こうでも割と有名な話らしくてよ、俺の知人に西洋人がいるんだけどもそいつも知ってるぐらいだからさ、案外、眉唾物でもないっぽいぜ」
「ふーん。で、その秘剣ってのは、こうすぱすぱとあらゆるものを紙のように斬るんだろ」
恰幅の良い方の壮士が立ち上がって、実際に刀は抜かずに想像の中で秘剣を抜き、二段、三段と斬り払う身振りをする。
「そう。岩でも鉄でも何でもだ」
「ハハハ、そりゃ愉快だ。その剣で立ちはだかるすべてを斬り払う気分はさぞかし爽快千万だろうな。京都にある鬼切と打ち合わせれば面白いことになりそうだ」
「鬼切より布都御魂が良いだろう」
「それも悪くないな」
おおよそこのような二人の壮士による朗々とした会話を聞くともなく耳にした銀三郎はこの後、遍歴することを決意したのである。つまり、銀三郎の武者修行の目的は各地を総嘗めして天下を制覇しようなどとは毛先ほども頭に置かず、ただ強く珍しい剣を求めて各地をさすらい、最終的に西の果てに眠る秘剣を手中に収める腹積りである。
そして、今、銀三郎は東は埼玉県の秩父市から神奈川、静岡、名古屋と東海道を下り、加太越を抜けて、そのまま京都へは入らず、一旦は奈良へと道を曲げ、大阪へ迂回して、そこから鬼切があると言われる京都へ足を向けて真っすぐと進出するつもりらしい。
自分の趣味嗜好ぶっぱの作品を描きたくて、この度なろうへと参入させていただきました。至らぬところも数多く散見されるかと思いますが、何とぞ最後までこの作品の行く末を見守っていただければと思います。
不定期で更新予定です。