幻の桜島小みかん
しょーもない話で、申し訳ない。
コミカは、声は全く出さないし、顔はあるけど、それは俺がテキトーに油性ペンで描いたものだ。
俺が家の中を歩くといちいちついて回るし、擦り寄ってきたりもするので、たぶん懐いてるんだとは思う。
足はないので、ぴょんぴょんと小さく飛び跳ねて移動する。動く原理はわからない。
俺が落書きみたいな顔を描きいれるまでは目も鼻も口もなく、どうやって周囲を認識しているのかもさっぱり不明だし、ぴょこぴょこ動き回るわりには、エサを食べるということも必要としていないようだった。
まったく奇妙なやつだったが、不思議と愛嬌がある。
俺の感性がどうかしてると言われたら、そういう部分もあるのかもしれない。
しかし、明らかに生きているコミカを、ともすれば何事もなかったようにその命が消えてしまうのではないかと恐れた俺は、傷つけてまでその正体を探ろうとは、到底考えられなかったのだ。
コミカとの出会いは、一月ほど前にさかのぼる。年の瀬だ。
今年は仕事の都合で帰れないと、実家の、鹿児島に住む母親に電話した数日後である。
俺が借りてるアパートの部屋に、差出人として母の名前が書かれた一つの段ボール箱が届いた。
「おじいちゃんの畑で、今年もいっぱい、おいしいミカンがとれたから送るね」
電話をしたときに母がそう言っていたので、中身はすぐにわかった。
俺の実家であり、今は両親が二人だけで暮らす家は、鹿児島市の南部に位置する住宅街にある。
おじいちゃん、というのは、俺から見た祖父のことだ。母の父親にあたる。
確か、もう年は七十を超えているはずだが、矍鑠としたもので、まだまだ子供の世話にはならんと、俺の両親とはまた別の場所、桜島で一人暮らしをしている。
定年退職でそれまでの仕事を辞めたあと、半ば趣味でやっていたみかん畑の管理に本腰を入れているそうだ。
鹿児島市、桜島には、「桜島小みかん」という名産品があるのだが、それを作っているのだ。
直径五センチほどのみかんで、世界最小のみかんとして、ギネスにも載っているんだとか。
小ぶりだが、とてもジューシーで、酸味は少なめ、非常に甘みが強く、鹿児島では、普通の温州みかんとともに、冬の定番、人気の逸品なのである。
それを、一人暮らしの息子に段ボール箱いっぱいもよこすのはもどうかと思ったりもしたが、食べ始めると十個ぐらい一気に食べてしまうので、持て余すということはないだろう。
カッターで段ボールに貼られたビニールテープを切り、ふたを開けると、小さなみかんがたくさん詰まっている。自家消費用なので、傷のついたものもちらほら見えるが、味には影響はないはずだ。
ふと、箱に詰められた小みかんの一つが、ピクリと動くのを見つけた。
その一つだけじゃない、周りのこみかんも小さく動いている。
なんだ、虫でも混入しているのかと、最初に動いたように見えた黄色い小みかんを手に取ると、その下には、暗くてよく見えないが、他の小みかんより若干小さな、緑色の小みかんがあった。
あれ、じいちゃん、間違えて、熟してないのをもいじゃったのかな。
周りの、黄色い小みかんをどかして、黄色ばかりの中で一際目立つ、緑色の小みかんに手を伸ばす。
緑色の小みかんは、当然、ぴょんとジャンプした。
おおう! と思わず声が出て、伸ばしていた右手を慌てて引いた。
な、なんだ、今の?
みかんというのは、通常、跳んだりするものではない。桜島小みかんだって例外ではない。
それならば、なにかあるはず。気を取り直して、改めて手を伸ばすと、今度は普通に掴むことができた。
これは、どうも変だ。
寒空の下、すっかり冷たくなったほかのみかんよりも明らかに温かく、しかも、小刻みに震えている。
この感じ、なにかに似てるな。
そうだ、生まれたばかりの仔猫を抱いたときの、あの感触だ。
……って、生きてるのかこれ? そんな馬鹿な。
妙に温かい、青い小みかんを、潰したりしないよう、そーっと床に置いてみる。
しばらくはじっと動かない。そりゃそうだ、動かないのが当たり前だ。
と思った瞬間に、青い小みかんが少し傾いた。
どこが頭でどこがお尻か。そんなものがあるはずのない、どう見てもただのみかんである。
にもかかわらず、俺は、この青いみかんが頭を上げて、俺の顔を見たのだと確信した。
……正直、今考えてみると、かなり疲れていたのかもしれない。
ここ二週間ほど残業続きで、その日はようやく一段落、久しぶりに定時で帰れた夜だった。
誰もいないアパートに実家からの贈り物が届き、中からはまったく想像もしないようなサプライズの登場である。連日のストレスにやられていた俺の精神は、みかんの形をした生き物を、あっさりと受け入れてしまったのだ。
しゃがんでいる俺の顔を覗き込んだ――少なくとも俺にはそう見えた――青い小みかんは、ぴょんぴょんと二回ジャンプした。右手の人差し指を突き出すと、みかんの皮の側面部分を擦り付けてきた。
それは、みかんが動くという不気味さより、小動物的なかわいさが勝っているように思えた。
飼おう。どのように面倒をみればいいかは皆目見当がつかないが、様子をみようじゃないか。
そう思うやいなや、名前をどうするかをしばらく思案した。大きさ的に犬や猫というよりは、ハムスターのイメージだろうとしばし考えたが、ハムスターらしい名前というのが思いつかない。結局は、小みかんだからコミカでいいだろう、シンプルイズベストだ、というところで落ち着いた。
それからは、仕事上がりにアパートに戻るのが、ほんの少し楽しみになった。
相変わらず仕事が忙しく、帰りが遅くなる日も多かったが、家のドアを開けると、コミカは奥のほうから小さくぴょんぴょんと飛び跳ねてきて、足元にまとわりついてお出迎えしてくれる。
遠くのほうに座っていても、コミカと名を呼べばすぐに寄ってきたし、意味もなく俺の周りをぐるぐる転がったりすることもあった。
ある日は、ちょっとした悪戯心から、コミカの頭だと思われる部分に、油性ペンで、つぶらな目と、ニコリと笑った小さいU字型の口を描き加えてみた。コミカはそれを嫌がる素振もなく、体全体をわずかに、縦横に伸ばしたり縮めたりした。その動きは、表情を変えているかのようにユーモラスで、俺はふふと笑って目を細めた。
そんな風に、ちょっと奇妙だが楽しい日々が続いていた一か月。
年も明け、一月もあと数日で終わるという今日になって、コミカに異変が起こった。
いつものように残業を終え、家に帰りついた夜十時すぎ。
ただいまーと玄関を開け、廊下の明かりを灯すのだが、いつも待ってましたとばかりに飛んでくるはずのコミカが、今夜は出てこない。どうしたことだろう。
胸騒ぎがした。コミカに、なにかよくないことが起こったのでは。
廊下を進み、正面のドアを開く。リビングの大きな窓から、月明かりが差し込んでいる。
その窓の手前に、コミカはいた。なんだ、いるじゃないかと、ひとまず俺は、は大きく息を吐く。
床にぽつんとある濃緑色のみかんを、月の青白い光が照らしている。
コミカは、我ながらかわいく描けたなと思う油性インクの黒い瞳を、窓の外に向けていた。
その落書きの顔は、ニコリと笑っているはずなのに、なぜか寂しさを感じさせた。
「おい、どうした、コミカ。外の空気でもすいたいのか?」
コミカは、くるっと回転してこちらに顔を向けると、こちらの声に答えるように二回飛び跳ね、再度窓のほうに向きなおった。
「しょうがないな。外は寒いぞ。」
そう言いながら、俺は鍵を開け、窓を開いた。真冬の冷たい空気が流れ込む。
開いた窓から、コミカはベランダへとぴょんぴょんと躍り出た。
ぐるっと半回転して、コミカはもう一度俺のほうを見る。油性インクの瞳が月の光を反射して、ハイライトをいれたように輝いていた。
コミカはまたも外のほうに向き直り、顔を上げる。
月を、見ているのか?
こんなことをするコミカを見るのは、はじめてだった。いったい、どうしたというんだ。
ベランダに出た、青くて小さなみかん。やがて、そのつるつるの表面に、突然ヒビが入り始める。
な、これは、いったい!
肩口、と言えそうな場所に発生したヒビは見る見るうちに大きくなり、小みかんの底部まで続く、痛々しい亀裂となった。ほぼ同時に、同じような亀裂が四本も走っている。
異変はそれだけにとどまらない。亀裂の入った底の部分から、左右にどんどん皮がめくれていく。
翼でも生えたかのように、めくれた皮を、身体の上に掲げる。
実際、それは翼だった。左右に剥けたみかんの皮が羽ばたくと、コミカが宙に浮いた。
ベランダのフェンスの上にいったん降りると、コミカは今一度だけ振り返った。
その動きで、俺はすべてを理解した。別れのときが、来たのだ。
コミカは再び背を向けると、フェンスから飛び降りた。落下したのかと一瞬心配したが、次の瞬間には、青いみかんの皮の翼を強く翻し、高く高く飛び上がる。
青い満月に重なる、翼を広げたコミカのシルエット。
俺は、それをただ呆然と見送りながら、一つ、大きな勘違いをしていたことに気付く。
アイツは、小みかんなんかじゃない。スダチだったんだ、と。
反省はしていない。