ぼくと大狼と貞操
◇
「だ、大丈夫ですか?」
ぼくは追われていた少女に声をかけた。
「あ、ありがとう」
言って、少女は頭を下げた。
栗色の髪は所々見だれていて衣服も破けている。傷なんかはないようだけど、その姿はそれだけ必死に逃げてきたのだということを教えてくれる。
「と、とにかく、ぼくの後ろに隠れてください」
言って、ぼくは背負っていた荷物を下し、彼女をかぼうように前へ出た。
腰に差していた短刀を引抜き、身構える。
「姉さん」
「大丈夫じゃ。ジタンはその娘っ子を頼むのじゃ」
三人の暴漢を視界に収めたまま、姉さんは言い放つ。
「なんだ、こいつら。落ち着いてみれば、ガキじゃねぇか。」
「はっ。威勢がいいからなんだと思えば。こんな手の込んだことする必要はなかったな」
「いいのか? 嬢ちゃんたちよ、降参するなら痛い目にあわずにキモチイイことだけしてゆるぜ?」
先は慌てて姿を確認できなかったのだろう。
月光に照らされるぼくと姉さんの姿を見た三人組は、そう言って嘲った。
その言葉に違和を覚えたけれど、その違和は次の姉さんの行動にかき消された。
「……虫唾が走るのう」
「なっ」「消えっ」「ぐきょっ」
二人が驚きの声をあげ、一人は泣けない声を上げて吹き飛ばされた。
やったのはもちろん姉さんだ。
思い切り男の顔へ蹴りをお見舞いしていた。
「妾のかわいいジタンに気持ちいいことなど、妾以外がすることは許さんのじゃっ!!」
「「えっ?」」
姉さんの言葉に思わず声が漏れた。
ぼくだけではなく、後ろにいる少女の声も被っていた。
「あの、姉さん……」
「許さんのじゃあっ!」
ぼくの言葉など聞くこともなく、勢いそのままに姉さんは残った男たちにとびかかった。
―――聞いてない。
「よくはないけど……いまは」
言って、ぼくは視線を姉さんの方へと釘づけたまま、落とした荷物へと手を伸ばす。
見たところ姉さんの楽勝のようだ。あちらは姉さんに任せて、ぼくは女の子の面倒を見た方がいいと思ったからだ。荷物の中にはちゃんと包帯なんかも入っているのだ。
―――あれ、荷物が……。
落としたはずの荷物に手が触れず、不思議に思って振り返る。
瞬間だった。
「―――っ!」
視界を覆う黒い影。
それは鋭く太い獣の掌だった。
突然のことに、体が硬直するのを感じて、次には顔面をむんずと掴まれていた。
「ジタンっ!」
姉さんの慌てる声が鳴る。それと同調するように、甲高い遠吠えのような笑い声が一筋聞こえ、突然の浮遊感がぼくを襲った。
「ジタンをどうするつもりじゃっ!!」
遠ざかる姉さんの声を聞きながら、ぼくは悟った。
ぼくは、どうやらさらわれてしまったらしい。
◇
ぼくは小狼族という一族の末裔だ。
ぼくの父や母、そのまた父や母、つまりはもう覚えていることがないほどずうっと昔、神代の時代にはぼくらの一族は神狼族と言ったらしい。
神狼族は、月の雫から生み出された神狼を祖とする一族だったという。神狼自体は月の女神の反乱に付き従って、今もこの大地の奥深くに幽閉されていると、人の神話ではなっている。
細かい歴史については、文字の文化がなかったようなので分からない。でも、神狼族は長い時を経て、二つの種族に枝分かれした。ひとつは月の女神に仕える巫女の一族を先祖に持つぼくら小狼族。もうひとつが月の女神に仕える戦士の一族を先祖に持つ大狼族だ。
神代の時代から三千年以上経っている現在、二つの種族は別々の道を歩いていた。小狼族は巫女の先祖に故に、異能を宿し、大狼族は戦士としてより強く大きくなった。つまりは元々の職掌に特化する進化を見たのだ。
そもそも小・大狼族という名も、その体躯の違いから後の時代に人間から名づけられた種族名で、昔はべつの呼び名があったという。
ぼくが知っているのは本で得た知識だから、これくらいのことだ。
ああ、あと、姉さんから言われていたこともあった。
姉さん曰く、これが最も重要だということらしいけど―――
『大狼族のやつらにだけは絶対にジタンは捕まっちゃダメなのじゃ!』
―――ごめん、姉さん。
ぼくは心の中で姉さんに謝罪した。
だって、
「あ、起きた?」
ぼくをさらったのが、他ならない大狼族だったからだ。
「あー、どうも……。おはようございます」
手足を縛られ、床に放り出されているぼくは、なんとも言えない気持ちでそう言った。幸い床は土ではなく、暖かい毛皮が敷かれているので不自由はなかった。
「捕まってるのに挨拶なんて、変な狼だねぇ」
言って、栗色の髪をした少女はブアの実を一粒口へと放り込んだ。口元はおかしそうに笑っていた。
いまはもうさっきみたいに汚れた格好はしていない。彼女は襟と袖に独特の文様が刺繍された毛皮のマントを羽織っていた。
「えっと……、はじめから狙っていたんですか?」
「なにを?」
「……ぼく、いや、ぼくらの荷物のことを、です。あなたを襲っていたのは、同類なんでしょう?」
「そだよ? 目の前をのこのこ羊が歩いてたんだ。襲わない狼はいないよね?
まあ、罠を仕掛ける必要があったのかはわからないけどさ」
ぼくの予想は正しかったようだ。
じつにあっけらかんとした調子で、彼女は言った。
「それで、なんでぼくまでさらったんです? 荷物だけで充分だったんじゃないですか? 」
「え? それ、聞くの? あたしは大狼だよ。それで、きみは小狼でしょ? なら、決まってるよね」
「なにが決まっているのかはわかりませんが、やっぱり大狼なんですね。いま時はめずらしくはないんですか?」
ぼくは問う。
ぼくら小狼族も少ないが、大狼族もまた少ないのだ。
彼らは冒険者の腕試しや、その力を危険視されて里を焼かれたと聞いている。
笑うと犬歯が見える彼女は、たしかに狼に見えるけれど、ぼくは大狼族を見たことがなかった。犬族の一部と見間違えることもまれにあるらしいので、そうだと聞かれてぼくは安堵した。
けれど、そんなぼくの意見を、彼女は『女の人狼は少ないのか?』という意図にとったようだ。
「女は、ここでもあたし一匹だよ」
「そうなんですか? でも、丁度よかったです」
ぼくは素直にそう言った。
強がりなんかじゃない。本当に都合がよかったのだ。
「よかった?」
不思議そうに彼女は聞いた。
囚われの身であるぼくが『丁度よかった」などと言うのだ。彼女の反応は至極当然のものだった。
「ええ、だって、ぼくはあなたに会いに来たんですから」
「―――っ。へーぇ、そうなの」
ぞくっとした。
なぜそう感じたのかはわからない。
でも、ぼくを見ろしながら艶やかに笑った彼女に、ぼくは恐怖に近いものを感じたようだ。
笑いながら、仰向けになっているぼくの腹の上に、彼女がまたがる。
「じゃあ、いいよね?」
身じろぎしたぼくを逃がさないとでも言うように、彼女の手がぼくの顎に添えられる。
狼とは思えない白く細い少女の手だった。
「なにを……」
「なにって、あたしに言わせるんだ? あんまりいい趣味だとは思わないなぁ」
甘えるような声で彼女は言う。すでに吐息が当たるほどに彼女の顔がぼくの近くにあった。
訳が分からない。
―――ぼくはこれから何をされるというのだろう?
「ぼ、ぼくは……、あなたたち大狼と話を、―――っ」
思わず変な声が出てしまった。
彼女がぼくの耳を甘噛みしたのだ。
「うふふ、―――耳、弱いんだぁ」
驚き見れば、潤んだ瞳でぼくを見つめる彼女がいた。
「ま、まさか……」
―――発情してる?
でも、なんで、と考えて、ぼくは思い至った。
神狼族は巫女と戦士の二つの役職に分けた。
それは最初、女性と男性の性差に基づくものであったという。男は戦士に、女は巫女になった。それが長い間に枝分かれ、ぼくら小狼族と彼女たち大狼族になった。
多くが変わり、別の族となったぼくらだが、たったひとつだけ神狼族のころから変わらないものがある。
それは男女の好みだ。
好みだけが変わっていない。
小狼族は自身に足りない大狼族の逞しさに惹かれ、大狼族は自身に無縁な可愛らしさに惹かれてしまう。
幸か不幸か、元々同一の種族であったからか。大狼族と小狼族は子を成すことが可能だ。というよりも、むしろそうやって寄り添いあって生きてきた種族なのだ。大狼はその力で小狼を護り、小狼はその知恵と知識で大狼の繁栄を支えてきた。
だから、彼女が言っているのはそういうことだ。
―――つまり、いま、ぼくは貞操の危機にある!
「じゃあ、はじめよっか」
今度ははっきりと分かった。
ぼくは獲物だ。
恐怖のあまり全身の毛が逆立った。
これはまずい。
ぼくはお嬢さまの従者なのだ。
あの清廉なお嬢さまの従者がこんなところで蹂躙されるなどあってはならない。そんなことになったら、お嬢さまに顔向けできない。
「逃がさないよ?」
にこりと一ミリも微笑んでいない顔で、彼女は言う。
必死に抜け出そうとするけど、少女とはいえ彼女も大狼族だ。ぼくとの膂力の差は歴然で、つまりはぼくは絶対絶命だった。
―――だめだ。逃げられない。
姉さんが言っていた近づくなという理由はこれだったのだ。
「大丈夫、痛くしないから」
ブアの実はブドウを想像してもらえればよいかと思います。