幕間 燃える町と少女
◇
―――ああ、燃えている。
「お嬢さまっ!! お早くっ!!」
ナルセの急かす声がなる。
普段はどこまでも落ち着いた彼女がここまで慌てているのは、一体いつぶりだったろう。
そんな益体にもならないことを思い浮かべながら、ランは茫然と立ち尽くしていた。
眼下には炎が広がっている。
夜の闇を背景に、真っ赤な炎が町を呑み込んでいた。
―――わたしくの愛する町が、燃えている。
「お嬢さま、お嬢さまっ! お気持ちは分かりますが、今だけは、いまだけはお早くっ!!」
ランの手を強引に引っ掴んで、ナルセが走る。
―――なぜ、わたくしの町が燃えているのですか?
混乱のなか、そんな疑問を抱く。夕方まで町は変わらず美しかったのだ。自分の屋敷の楼閣から一望できる見事な夕暮れの風景は美しかった。
町で一番高かった五重塔、碁盤の目のように整理された美しい街並、そして、そこで生活している人たちの活気。
夜になると赤提灯がそこここで灯り、町は暖かい赤い光に包まれる。
それを寝る前にもう一度見ようと、それがランの一日の幸いな終りとなるはずであったのに。
いま、何故か町は燃えていた。暖かさなどかけらもない汚れた炎が、町を呑み込み、黒く変えようとしているのだ。
―――なぜ? なぜ、なぜなのですか……。
思考が眼前の光景に追いつかない。追いついてくれない。
引っ張られるままに体は町から離れていく。
「おおっ! お嬢さまっ」
「ランっ!!」
町はずれの一角で、自分を迎える声が鳴る。
「ち、父上……。みなさんも。
これは一体、町がわたくしたちの町が……」
「ラン。よく聞くのだ」
混乱するランの言葉を遮って、父がランの肩に手を置いた。
大きな手だ。いつもランを安心させてくれる力強い父の手だ。だが、その手がいまランに与えたのは、不安だった。
「父上……」
「詳しく語っている暇はない。危険が迫っている。いまは、逃げるのだ」
いままで見たこともないほどの真剣な顔で、父が言う。
「父上?」
ただならぬ雰囲気に気圧され、ランは父を見、そしてその後ろに居並んでいる人たちを見た。そこにある二十ばかりの顔は、すべてよく見知っている顔だった。
幼いころからランとともにあった父の家臣という名の家族たちだった。
―――ああ。
そこでようやくランはこの事態が指すことを知った。
みな鎧をつけ、刀を佩いているのだ。
いくら世事に疎いランであろうと、それが意味するくらいは分かる。
「戦うのですか」
震える声で、それだけを尋ねた。
「そうだ。イヅツの軍が火をつけた」
ランの声とは裏腹に、父は強く言い切った。
「……勝てるとは思いませぬ」
思わず、ランはそう口にした。
「分かっておる。町はすでに燃え、イヅツは五百の兵。対して、我らはここにおる奴らばかりじゃ。戦にもならぬであろう」
淡々と父は口にする。
「ではっ!」
「じゃが、ことここに至っては勝つ必要などないのだ」
「なにを……」
震える声を上げ、ランは言う。知らずに涙が頬を伝っていた。
ぽんとそんなランの頭に手をのせて、父は笑った。
「此度の戦、すでに勝敗は決しておる。我らは勝てぬ。
じゃが、負けることは許されぬ。ゆえに、そなたは逃げるのじゃ」
「おっしゃられる意味がわかりません。父上はなにを……」
「すまぬ。事態は一刻を争うのじゃ。
ナルセ。カイゾエには話を通してある。あとは頼んだぞ」
「はい。この命を賭けてお嬢さまをお守りいたします」
ナルセにそう言葉を掛け、馬へ乗った。
「父上っ!」
「すまぬな。我が暗愚であったばかりに、そなたにつらい運命を背負わせることになる」
言って、馬上からランに一本の槍を託した。
それは代々家長だけが持つことを許されるものだった。
「では、行って来る。幸せになるのだぞ」
それだけ言って、父とその家臣たちが夜の闇へと消えていく。
「ああ、父上っ! 父上」
「お嬢さま。お早くお召し物を……」
「離しなさいっ! ナルセ。わたくしは父上をっ」
「お嬢さまのために行かれたのですっ!!」
「お嬢さまのために、お嬢さまに生き延びていただくために、みな戦場に向かったのです。お嬢さまが生き残られれば、それは負けではありません」
「わたくしが生き残れば、負けではない?」
「そうです。ですから、ここは耐えてくださいましっ! でなければ、御屋形様も、あの方も報われませぬ」
涙ながらにナルセは言う。
あの父とともに駆けて行った家臣のなかには、ナルセの夫もいたのだ。死ぬと分かっていながら、ナルセは夫を止めることをしなかった。
だというのに、
―――わたくしは。
己の情を先にして、父をはじめとした家の者たちの思いを踏みにじる所だった。
わたくしは領主の娘。ユクハシを継ぐ者です。
で、あるならば―――。
「すみません。わがままを言いました」
言って、ランは身に着けていた衣服を脱いだ。ほどけた帯がはらりと落ちて、そのまま寝巻の前が空く。冷たい外気がランの白い肌を撫でるが寒さなどは感じない。
「わたくしが生き残ることで、負けないのならば、わたくしは決して死にはしません」
燃え滾るような感情の熱を冷ますには、これくらいの寒さではもの足りない。
「見ていなさい。イヅツの。この恨みは必ず晴らします」