ぼくと姉さん
◇
夕暮れの空の下、お嬢さまとぼくは屋敷への家路にあった。
「……知り合いか」
視察を終え、どっぷりとショーギに興じたお嬢さまはどこか所在なさげにそう言った。すこしお疲れのようだが、それも仕方のないことだ。最終的には三つも盤を並べてお嬢さまはショーギを打たれていたのだ。かなり疲労されたのだろう。
「どうかされましたか? お嬢さま」
「いや……。そういえば、クローゼは元気か?」
「え、……クローゼ姉さんですか?」
唐突な質問に、ぼくは固まってしまう。
クローゼ姉さんはぼくと同じくお嬢さまに保護された。とくにお嬢さまのご両親には恩義を感じていた。あの時は一族を滅ぼされた姉さんの恨みも消えてしまったように思えたものだ。
でも、お嬢さまのご両親が亡くなられると、結局人間族を恨むことが止められなくて、お屋敷を出て行った。もう五年近くも前のことだ。
あの時はぼくもそうだけど、お嬢さまもひどく気落ちしていたものだ。
「ああ、今日ショーギを指していて、あいつのことをふと思い出した」
懐かしそうにお嬢さまが、姉さんのことを口にする。
「もしかして、ダンズルさんと飛車角落ちで指したからですか?」
「ふふ、どうかな」
お嬢さまはなにか含むものがあるような笑みを浮かべて、ぼくを見る。
「クローゼ姉さんは、下手の横好きを地でいく人ですからね」
そう言って、ぼくは笑ってお嬢さまに応じた。
クローゼ姉さんは、ショーギにそれはもう魅了されている。でも弱い。すごく弱い。弟のぼくが言うのもなんだけど、それはもう超絶弱い。あまり強くないぼくにも、飛車角、なんなら金落ちでも負けていた。そもそも性格がそういう策謀とかに向いていないのだ。
懐かしくなって、ぼくは思い出していた。
自信満々にショーギを抱えてやってきて、負けるたびに盤をひっくり返して、『おかしいのう? 季節外れの突風かのう?』とか言って、絶対に負けを認めない。挙句には『卑怯』だとか、『インチキ』だとか言って、続けて三回負けると拗ねてしまう。負けてあげると、子どものように、『妾の本気を見せてしまったようじゃなっ!!』などと、はしゃぎ回っていた大人げない姉さんの姿を、ぼくは思い出していた。
「……って、あれ?」
―――クローゼ姉さんがショーギを東方の方から持って来たのは、お嬢さまのお屋敷を出たあとのことだ。
そもそも、ぼくが東方のことを知ることができるのは、クローゼ姉さんが東方にいるからで……。お嬢さまがクローゼ姉さんとショーギなんて打つ機会はなかったはずだ。
「やはり、クローゼはショーギが弱いか。予想通りだな」
はっとして顔を上げると、満足気にお嬢さまが笑っていた。その顔は、悪戯が成功した時のいたずらっ子の笑顔に近いものだった。
それだけでぼくにも分かった。
―――ああ、分かっておられたのだな。
ぼくの知っている東方の話は、すべてクローゼ姉さんから教えてもらったものだ。
お屋敷を出てもクローゼ姉さんは、ぼくにはきちんと定期的に連絡をくれた。数は少ないけれど、時々は帰って来ることもあるのだ。そうした時に聞かされる土産話に、ジルコールの神童のことがよく出てくる。姉さんは隠しているつもりなんだろうけど、かなり近しい位置にいるようだ。
人間族嫌いの姉さんにしては珍しく、まるで感心したような口ぶりで語られる神童の話は、ぼくにはとても新鮮で貴重なものだった。
彼の行動も価値観も、この世界の常識から遠く離れているのだ。まるで違う世界から来たような、そんな不思議な感覚を与えてくれる。
一見すると貴族失格の価値観が、クローゼ姉さんには好ましく見えているのだろう。
行なっている改革などについては、一応、神童から口止めはされているようだけど、そこは姉さんだ。
おそらく『ジタンに話すことの何が悪いのじゃ』とかなんとか言って、連絡をつけてくれているのだろう。いや、もしかしたら話してはいけないという約束すら忘れているのかもしれない。
しかし、困った。
べつに他意があって、お嬢さまに姉さんから聞いたということを伏せていたわけではない。ただ言う必要を感じなかっただけだ。
「べつに糾弾するつもりはない。二人だけの姉弟だ。クローゼがジタンを心配するのはよく分かる。なにより、そのおかげで我が領もよくなっているのだからな。感謝こそすれ、悪いなどと言うことはないさ」
ぼくのことを察してくれたのだろう。そうお嬢さまは言ってくださった。
「……ありがとうございます」
「しかし、やはり弱いのか。良いことを聞いた。今度見かけたらからかってやろう」
「ほどほどにしてあげてくださいね。クローゼ姉さん、あれで結構打たれ弱いんですから。 ―――って、見かけたら?」
「うん。時々戻って来ていただろう? 戻って来ると決まって台所や食糧庫が荒らされ、なぜかジタンの服が一着なくなると聞いている。しかも、私の部屋には、あの独特の口調で『ジタンは預けているだけだからなっ!』みたいな端書とともに、食った分の代金が毎度律儀に残されているのだ。気づかない方がおかしいだろう?」
―――クローゼ姉さん。あなたって人は……。
そこまでやっても、本人はばれてないと思っているのだ。
というか、ぼくの服なんて持って行って何に使うのだろう……。服もただじゃないのだから、やめてほしい。
思わぬところからもたらされた姉の情報に、思わずぼくは頭を抱えざるを得なかった。
だけど、ぼくは知らなかったのだ。
この後、さらにその姉によって頭を抱えるような事態がもたらされるとは、この時のぼくは知らなかった。
◇
「まったく、あなたという人は昔からなにも変わっていませんね」
「うう……。すまぬのじゃ、悪いと思っているのじゃ……」
ぼくとお嬢さまがお屋敷に戻ると、なぜかクローゼ姉さんがミルドさんに叱られていた。
腰に手をあてて、本気の説教モードに入っているミルドさん。その前にはなぜか正座しているクローゼ姉さんの姿がある。いつもの自由気ままな雰囲気はかけらもなく、耳も尻尾もしょんぼりと下げて、クローゼ姉さんは叱られていた。
「なぜ、クローゼがミルドに叱られているのだ?」
「これは一体、どういう状況ですか……」
いきなりの光景に、お嬢さまは疑問を、ぼくは呆れを発してしまう。
「ああ、おかえり、お嬢に坊。 ―――ま、見てのとおりさ」
ぼくらに気づいたグラントさんの言葉に部屋の奥を見れば、そこはひどい状態だった。
いつもきちんと片づけられた机の上に、いくつもの瓶が転がり、パン屑や肉片などの食べかす、こぼしたソースなどが点々とテーブルクロスにシミを残していた。
それは明らかに酒盛りをした跡だった。
しかも、被害はそれだけではない。
おそらくクローゼ姉さんは酔っぱらってしまったのだろう。
壁のそこかしこに爪をたてたような跡があり、カーテンなどは一部が大きく裂けていた。床には割れた食器と食べくさしが転がっている。
勝手にお屋敷に入っただけでなく、この惨状ではミルドさんでなくとも怒るだろう。
「ひどいな」
「ええ、ひどいですね」
二人そろってため息をついてから、お嬢さまは執務室に今日の資料などを置きに行き、ぼくはグラントさんと一緒に掃除をはじめた。
途中、ぼくの存在に気づいたクローゼ姉さんが助けを求めてぼくを見たけれど、ぼくにはどうすることも出来なかった。
「……どこを見ているのですか? クローゼ。あなたはまだまだお説教が足りないようですね」
「ひっ! 違うのじゃ、妾は伝えることがあって……」
「問答無用です。それとこれとは話が別ですからっ!」
―――ごめんなさい。クローゼ姉さん。
だって、本当に怒っているときのミルドさんは、ぼくでもグラントさんでも、もちろんお嬢さまでも止めることができないほど怖いのだ。
「諦めろ、自業自得というやつだ」
部屋から戻って来られたお嬢さまが開口一番楽しそうにそう言った。
楽しいかどうかは別にして、ぼくもそう思ったのは、ここだけの秘密だ。
◇
「それで、一体どういう気まぐれで来たんだ? 五年間も音信不通だったというのに」
遅くなった夕食を取りながら、お嬢さまはクローゼ姉さんに尋ねた。
「……ふん、なのじゃ」
一方のクローゼ姉さんは、なぜかそっぽを向いていた。
「クローゼ?」
その態度にミルドさんが声をかける。説教は終わっても、怒りはまだ収まっていないのだろう。
「わ、妾はジズに話すことなどないのじゃっ! あ、あくまでもジタンに話があってきたのじゃっ!!」
クローゼ姉さんは基本的に人間族を嫌っている。
それでも、幼いころに世話になったミルドさんやグラントさんなど当家の人間族には、恩を感じているのだ。
唯一の例外がお嬢さまだ。なぜかクローゼ姉さんはお嬢さまのことになると頑なに嫌っているそぶりを見せる。
幼い頃はそれこそ姉妹かと思うほどに仲が良かったし、いまもまだ以前の愛称で呼んでいるのだ。言うほど嫌っていないとは思う。むしろ好きなんだとぼくは思っている。けれど、これはぼくの希望的観測に過ぎないなのかもしれない。
「そうか。ジタン、下げていいぞ」
「分かりました。お嬢さま」
「えっ!」
お嬢さまに言われ、ぼくはクローゼ姉さんの前に出されていた焼き菓子やお茶を片づける。
「な、なにをするのじゃっ! 久しぶりの甘味を!」
絶望的な声音でクローゼ姉さんが叫ぶ。クローゼ姉さんもお嬢さまに負けず劣らず甘いものに目がないのだ。
「クローゼ、お前は私の客ではないのだろう? ならば、それは食べさせられないな。それは、私の客に賞味いただくために用意させたものだ」
「それは卑怯じゃっ! 卑怯じゃろっ。卑怯じゃよなぁ……」
糾弾するような口調から、最後には哀願するような声音になりながら、クローゼ姉さんがぼくを見る。いつもぴんと立っている耳も力なくしょげかえっており、見るからにショックなようだ。
―――ごめんなさい、クローゼ姉さん。でも、ぼくはお嬢さまの従者だから。
心のなかで言い訳しながら、ぼくはてきぱきとクローゼ姉さんの前を片づける。
そのさまをお嬢さまが眺めているけど、すこし罪悪感を覚えているような顔をされていた。
「ジタンばかりか、茶菓子まで妾から奪い去るとは……」
まるでこの世の終わりが来たかのように、何もなくなった机を見つめ、クローゼ姉さんはつぶやいた。
あまりに可哀想な姉の姿に、思わずぼくはお嬢さまを見てしまう。
「……話せば食べさせてやる」
「人の楽しみを奪い去るような鬼畜に話すことなどなにもないのじゃ」
そっぽを向いて、クローゼ姉さんはそう言った。でも、その目はお嬢さまとぼくと、それから片づけられた茶菓子をちらちらと見ていた。
尻尾も耳もそわそわとそれに合わせて動いている。
―――話したいんだろうなぁ。
それはぼくでなくとも分かるほど、あからさまな態度だった。
―――仕方ないなぁ。
クローゼ姉さんは、単純なようで複雑だ。いや、複雑になるときがあると言った方がいい。ぼくにはわからないけど、人間族に滅ぼされた一族としての線引きがクローゼ姉さんにはあって、それがこういうときの態度に現れるのだ。
困った人だとは思うけど、そんなクローゼ姉さんがぼくは好きだった。
「クローゼ姉さん。ぼくからもお願いします。お嬢さまにも、姉さんの話を聞かせてもらえませんか?」
「ジ、ジタンに頼まれたのではなぁ、でも、あれじゃ。妾、さっきひどく傷ついたのじゃ。あー、傷ついたのじゃ」
内心はすごくうれしいはずなのに、クローゼ姉さんはそう言いながら、お嬢さまを見ている。
というか、内心を全然隠せていない。
姉さんの尻尾はぶんぶんと動いているし、口元だって犬歯が見えるほどにやけているのだ。それで姉さんの心情を察するなという方が無理がある。
一方のお嬢さまは『面倒だ』というのが、ありありと顔に出ている。あまり感情を顔に出されないお嬢さまも、クローゼ姉さんにはストレートに出してしまう。
それはお嬢さまが、クローゼ姉さんを身内だと思ってくれている証拠だ。それがぼくにはとてもうれしかった。
お嬢さまが一度ぼくを見て、それから面倒くさそうに口にした。
「はあ。焼き菓子にクリームと蜂蜜をつけてやろう」
「本当かっ! あ、いや……木苺のジャムも所望するのじゃ」
満面の笑みで応えてから、図々しくもクローゼ姉さんは更に注文をつけた。
「なに?」
「え、……だ、だめかのう……」
お嬢さまに反駁され、途端にクローゼ姉さんの声が小さくなる。尻尾もシュンとなってしまった。
「……特別だぞ」
「おおう、ジズっ! ありがとうなのじゃっ!!」
お嬢さまの言葉にクローゼ姉さんが感謝の言葉を口にする。
「相変わらず、ちょろいですね」
ぼそっと、ミルドさんが口にした。
喜びの頂点にあるクローゼ姉さんにはそんなつぶやきは届かない。ただ、子どものように配膳され直される焼き菓子に心奪われてるだけだ。
―――うん。ほんとうに。
弟のぼくが言うのもなんだけど、ちょろすぎるよ、姉さん。