ぼくと日常
◇
―――ああ、まただ……。
目の前の光景は、ここ数年で見慣れたものだった。
「アイルシュタット辺境伯ジブリール・サー・サリヴァン。汝のすべての功績をはく奪し、蟄居を命ずる」
その判決はお嬢様のこれまでの人生のすべてを奪い去るに十分なものだった。
ひどく冷たい声で下される判決を黙ってお嬢様は受け取り、優雅に一礼する。その優雅さは平素となにも変わりはない。けれど、短くざんばらに切られた紅い御髪と、長い獄中生活で薄汚れた格好では、その優雅さもある種の滑稽さを醸しだしていた。
―――ああ、お嬢様……。
何度見ても、ぼくはそのお嬢様の姿を涙なしに見ることができない。あの高貴なお嬢様が、このような姿で、それも衆目の蔑みの視線にさらされるなど―――ぼくには我慢できなかった。
『この売国奴がっ!』
『裏切り者っ!!』
心ない民衆がお嬢様を罵倒する。
そんな罵倒など聞こえていないかのように、背筋を伸ばして前を向いて歩く姿はとても高貴だ。じつにお嬢さまらしかった。お嬢さまにしか出来ないことだった。
けれど、それが強がりでしかないことを、すくなくともぼくは知っている。
いくら姫騎士と呼ばれようと、お嬢さまは猛々しいだけの人間ではないのだ。幾重にも着込んだ鎧の下に、誰よりも繊細で臆病な心を持っている。心優しい人なのだ。
英雄でもなく、賢者でもなく、強者でもない。人並に泣き笑うひとりの女性なのだ。
ただ、その責任感ゆえに騎士としての鎧をまとったか弱い乙女。それがぼくの知るお嬢さまだ。
だが、世界はそれを理解しない。理解しようともしてくれない。
お嬢さまを平然と傷つける。傷つけてもよいと思っている。
―――ぼくは、それが許せない。
お嬢さまは幸せになるべき人だ。決して、このようなみじめな処遇を受けるべき人ではない。
もう何十回と見せられた夢。その夢を見るたびにぼくの怒りは増していく。無力さとともに、ぼくのなかの決意が強くなっていく。
―――ああ、お嬢さまが泣いている。
貴族としての誇りを抱えて進むお嬢様の瞳に涙はない。どこまでも凛とした顔があるだけだ。
だけど、ぼくには分かる。
お嬢さまは泣いている。
それが許せない。お嬢さまを泣かせるこの結末が許せない。お嬢さまが泣いているというのに、なぜかその隣にいない自分自身が許せない。
でも、ぼくは知っている。
この最悪な未来を回避するたったひとつの可能性が未来にはあることを。
だから、ぼくは願うのだ。
たった一度だけ見た、あの幸せな夢の結末へ、お嬢さまを導かなければいけないと。ぼくは誓うのだ。
◇
「また、あの夢……」
昨日締め忘れたカーテンの隙間から陽光が降り注ぐ。
ぼくは涙が垂れた跡をぬぐって体を起こす。あの夢、というか未来を見ると決まってぼくは涙を流してしまう。
それを恥ずかしいとは思わない。だって仕方のないことなのだ。お嬢さまのあのような姿、幾度見ても許容できることなどあるわけがない。
起き上がって、そのままぺたぺたと姿見の前へと移動する。ぼくのために特別に設えられた執務服に着替え―――ぼくはがっくりと肩を落とした。
いつも通りの光景とはいえ、姿見にうつるぼくの姿は情けないものだったからだ。
青みがかった黒髪の下には男らしさのかけらもない顔、しかもその位置が姿見の半分ほどにあるのだから、情けなくて溜息をつきたくもなるというものだ。
ぼくは今年で十四になる。だというのに、その身長は人間族の子どもほどしかない。いや、正直に言おう。人間族の子どもより小さいのだ。
成長しても、ぼくの身長は人間族の子どもほどだ。よく育って、小柄な成人女性ほど。
小狼族の種族的特性だということは知っているけど、それでも悲しいことに変わりはない。
剣のお師匠であるグラントさんくらい立派な体格になりたかった。そうでなくとも、せめてお嬢さまよりは大きくありたいというのに、それもかなわない。
「これじゃあ、お嬢さまの騎士なんてとてもじゃないけど言えないよ……」
思わず、不満が口をついて出た。
お嬢さまの下に従者として仕えるようになって七年近くが経つ。それ以来お嬢さまを護るためにいろいろ努力してきたけど、種族特性である身体だけはどうしようもなかった。
「まだ、クローゼ姉さんみたいに凛々しい顔つきならよかったけど……」
姿見をのぞき込むとそんな不満もわいてくる。二つ年上のクローゼ姉さんは、狼という名にふさわしく女性でありながら雄々しい顔つきをしている。鋭い目つきに笑うとのぞく犬歯、少し太い眉もその凛々しさを確かにするのに、一役買っている。
反対に姿見に移る、ぼくの顔はまるで女性のような顔立ちだ。すこしたれた感じの眉に、大きな丸い瞳、長くカールしたまつ毛に、ちょっとしもぶくれぎみの頬などは―――。
「狼というより、子犬だものな……」
「坊。いるか?」
ぼくの何度目かのため息に合わせて、コンと部屋がかるくノックされた。
すこしくぐもった声はグラントさんだ。
「あ、います、いますよ」
慌てて、ぼくは扉を開けた。
「おはようさん。その様子だとさっき起きたみたいだな」
開けた先には大柄な男性―――グラントさんが立っていた。
グランドさんはぼくとお嬢さまの剣のお師匠さまをしている。元王国軍の剣術指南役をやっていたほどの猛者だったけど、戦時で左腕を失ってしまい引退した。
引退後、生れ故郷であるクラゼヴィッツ男爵領で隠居していたところを、お嬢さまが半ば無理やり家中に引き込んだ人物だ。多少だらけたところがあるけど、流石に中央にいただけあって有事の際にはすごく頼りになる。早くに両親を失くしたお嬢さまにとっては兄とかそういう存在に近い。
ここだけの話、ぼくに出会う前からのお嬢さまを知っていること、頼りにされていることに、軽い嫉妬を抱いていたりする。情けないから、誰にも言わないけれど。
「え、ええ。……もしかして寝坊ですか?」
「いんや、いつもより少し早いくらいかな」
「それじゃあ、どうして?」
「昨日お嬢から言われたことを伝え忘れちまってな」
後頭部をかきながら、グランドさんは言葉を継いだ。自分に落ち度があると思っているとき、グラントさんは決まってそのしぐさをして、困ったような顔をする。
「急ぎですか? お嬢さまはなんと?」
「急ぎではないな」
「そうですか。じゃあ、鍛錬のあとにお伺いすることにします」
言って、ぼくは部屋を出た。
向かうは中庭の一角に設けられた道場だ。
朝のグラントさんとの鍛錬は毎朝の決まり事だ。はじめて夢を見た時から願い出て、いままでずっと続けている。
このことが未来のために、どのような役に立つかは分からない。でも、ぼくはお嬢さまの役にすこしでも立ちたいのだ。貴族であるお嬢さまは戦場に向かわなければならないこともあるだろう。その横に、ぼくはいなければならないのだ。
「おおう。今日も坊はやる気にあふれてるな。いいことだ」
からかうようにグラントさんが口にする。最初こそむきになっていたけれど、それがグラントさん流の鼓舞の仕方なのだと、いまは理解している。
その言葉に対して、
「当然です。なんたって、ぼくはお嬢さまの従者なのですから」
ぼくはもう口癖になっている言葉を口にした。
◇
「お嬢さま、ぼくです。入りますよ」
数度のノックの後、ぼくはそう言って扉を開けた。
「お嬢さま。朝ですよ、起きてください」
言いながら、いそいそと踏み台を持って窓の下へ行き、カーテンを開け放つ。身長の足りないぼくではすこし高い所にある窓のカーテンはうまく開けることができないのだ。
以前踏み台を使わずに開けようとしてカーテンを見事に裂いてしまって以来、こうしている。
「ん、んん……。ジタン、か……」
降り注いだ陽光にまぶしそうに眼を細め、お嬢さまが誰何する。
普段は凛としたお嬢さまも朝はすこし苦手だ。寝起きからしばらくの間は、ぽうっとしていることが多い。おそらく、お嬢さまを除けばぼくくらいしか知らない事だ。
「おはようございます、お嬢さま」
「……おはよう、ジタン」
「昨夜はよく眠れましたか?」
「まあ……ジタンよりは早く寝たから……よく眠れたと思うよ」
差し出した洗面器で顔を洗い、お嬢さまがそう言った。
「そうですか。それはよかったです」
「……ところで、あれはなんだ?」
顔をふかれたタオルを手渡されながら、お嬢さまがぼくに尋ねる。
その視線の先には、湯気のたつ黒色の液体が入ったコップとサンドウィッチがあった。
「なにって、朝食ですよ。昨日、グラントさんにおっしゃったのでしょう? 今日は視察に行く必要があるから、手早く自室ですまされたいと」
「それは覚えている。私が言っているのは、あの黒い液体はなんだということなのだが? 新しいお茶か? ずいぶん濁っているが……」
「ああ、あれは珈琲というものですよ」
「珈琲? あれが、先日話に出た王都で人気の?」
「ええ。お嬢さまがそんなに話題になっているのなら、一度飲んでみたいとおっしゃったのではないですか。すこし前に手に入りましたので、今日ご用意しました。飲むと目覚めがよいと聞いたので、朝にしたのですが」
「……そうだったか? まあいい。興味が出た。飲んでみよう」
お嬢さまは物珍しいものが好きだ。どんなものでも、とりあえず自分の目で見て確かめないと満足しない。よほど入手困難か、高価なものでなければ大抵試されることにしている。
「……苦いな。こういうものが、今の流行なのか?」
慣れない味だからだろう。そう言ってお嬢さまはしかめ面で珈琲を眺めていた。
昔から食べたくないものがあると、親の仇のように食べ物をにらむ癖がお嬢さまにはある。貴族の令嬢としてはどうかと思うが、給仕する側としては楽なので、ぼくはお嬢さまのこの癖がけっこう気に入っている。
「そういうと思われましたので、ミルクと砂糖をお入れください」
差し出したミルクと砂糖を入れ、恐る恐るといった感じでお嬢さまが再びカップを口へと運ぶ。
「ふむ。これならいい。パンともよく合う」
今度は問題なかったようだ。
「それで、今日の視察というのは?」
食事をするお嬢さまの髪を梳きながらぼくは尋ねた。お嬢さまの紅い髪は褐色の肌によく合っていて、今日もつややかで美しい。絹のようとは、お嬢さまのような髪を言うのだろう。
「ああ、ジタンが教えてくれた新しい作物についての報告が上がってきてな。見に行こうと思うのだ」
「できたのですかっ!」
思わず、僕は声を上げた。うれしかったのだ。
なにしろ新しい作物は、情報の入手から苗の入手まで、すべてぼくの手で行ったのだ。それが実ったと聞いてうれしくないわけがない。
それに、その作物はこの領の繁栄への大きな一歩だ。待ち望んでいたものでもある。
「うん、そうらしい」
そのさまをお嬢さまが笑って見ながら答えた。いつも難しい顔をされているお嬢さまだけど、笑わられると年相応で可愛らしい。
「もちろん、ぼくも着いていっていいですよね?」
「ああ、もちろん。ジタンが着いてこないと始まらないだろう?」
「ありがとうございますっ! お嬢さま」
お礼を言いながら、お嬢さまの髪をいつも通り編みこんで、ハーフアップにしてしまう。
「それでは、あとはミルドさんに任せますから」
髪を整え終わり、ぼくは部屋を出ようとする。
お嬢さまはこれから着替えだ。流石に着替えまで男であるぼくがしては風聞が悪いというので、ぼくではなく女性であるミルドさんに頼むことになっているのだ。着替えの前に髪型を整えるはおかしいけれど、お嬢さまはぼくが起こさないといけないから、結局こういうことになったのだ。
「ん? ああ、ジタン」
出て行こうとするぼくをお嬢さまが呼び止める。
「なんです?」
「うん、ちょっと来てくれ」
お嬢さまがぼくが手招く。
―――なんだろう?
ぼくはお嬢さまの招きに応じて近づいた。
「はい。って、ひゃっ! なにをするんですかっ!! お嬢さまっ」
「うん。今日もいい手触りだ。最高だな」
もふもふと、お嬢さまがぼくのお尻から生えている尻尾を撫でる。ぞくりとした感覚が全体を走って、思わず変な声が出てしまった。
「お嬢さま、尻尾を触るのはだめだと何度言えばっ! あっ、ひゃっ!!」
必死に抗議の声をぼくは絞り出す。ぼくら小狼族には人間族にはない特徴がある。そのひとつが尻尾と耳があることだ。ぼくの尻尾は昔一部がちぎれてしまい小さいからか、人一倍敏感なのだ。触られると全身から力が抜けてしまう。
『狼らしくない、醜い尻尾』
丸みを帯びたぼくの短い尻尾は、まるで兔のそれだと言われたことすらある。女顔、身長と並んで、ぼくの三大コンプレックスだったりするのだ。
「まあ、いいじゃないか。こんなに気持ちいいのだし」
だというのに、お嬢さまはぼくの尻尾を触るのが好きだ。容赦なくもふもふと触る。お嬢さまに触られるのは不快ではない。不快ではないけど、敏感だからか、さっきみたいに変な声を出すことがあって恥ずかしいから、できればやめてほしい。
「駄目ですっ。ちょっ、ほんとうにやめてください。ジズさまっ」
「ははっ。まったくジタンはかわいいな」
言って、お嬢さまは快活な笑い声を上げる。一方のぼくはと言えば、心地よいのと恥ずかしいので大変だ。思わず幼いころに呼んでいた名前でお嬢さまを呼んでしまった。
「コホン、お嬢様。朝っぱらからなにをされているのです。―――うらやましい」
見れば、扉の前でミルドさんがこちらを見ていた。
かけた眼鏡の位置を直しながら、ぼくとお嬢さまを見ている。きっとあきれているのだろう。
ミルドさんはお嬢さまが生まれてからずっと付き従っているこの家一番の古株だ。グラントさんを兄とするなら、姉のような存在なんだと思う。
ぼくにとっては家事や勉強、果ては魔法まで教えてくれる頼れる人だ。それ故に毎度こんな風にお嬢さまに遊ばれているところは、恥ずかしいのであまり見られたくはない。
「おお、ミルド。おはよう」
「ミ、ミルドさん……。これは、あの違くて……」
お嬢さまは何でもないように挨拶を、ぼくはうろたえながらしなくてもいい言い訳なんかをしていた。
「さあ、お早く用意なされてください。貧乏暇なし。本日も当家は多忙です」
でも、そんなぼくら二人には構うことなくミルドさんはそう言った。こんなことはお嬢さまとぼくの日常なのだ、とでもいうようなそのミルドさんの態度が、不覚にもぼくはうれしかった。