第三話 お礼
まだ日が登りきっていない早朝、鳥も目覚めていないこの時間にパカン、パカンと軽快な音が響いていく
斧と薪がぶつかり、割れていくことによって生まれるこの音は、拳太が今行っていることによって起こっているものだ。
黙々と割った薪を一箇所に集めては、新しい木片を取り出してまた割っていく、それらを終えて汗を拭う頃にはもう太陽が完全に顔を出していた。
「っ……ふぅ、少しは慣れてきたな」
兎の少女と別れてから四日後、一文無しで、とにもかくにも早急に金銭を稼ぐ必要のあった拳太は人に尋ね、頭を下げ、数ある宿屋の内の一つに下働きをしていた。
最初こそ慣れない作業ばかりで苦戦したものの、三日もすれば教えられた作業なら一人でこなすことができている
日給は低いが、二食付きで寝床まで融通してくれるのだからこの世界にしてはかなりいい待遇だそうだ。
というのも、どうやらこの世界の言語は幸運なことに日本語であるため拳太の読み書きと計算を活かすことができるのも大きい
「後はこれを縛って……」
使い古されたロープで薪を纏めると、それを背負って自分の働き先の宿屋へと入っていく
窓が少ないこの宿屋は、使われている木材の黒色も相まって常に薄暗いが、その分すきま風などが入らず暖かいため、一部の人には人気があるそうだ。
その分、料金は少々お高いため、月単位で部屋を借りている常連以外の人は滅多に見かけない
「宿屋っつーか、サービス付きのマンションみてーだな」
そんな感想を零しつつ、暖炉の横に薪を置いた拳太は、朝食の準備をしているであろうキッチンへと顔を出す。
「……戻ったか」
そこには濃ゆい髭にずっしりとした体型の、熊とでも言うべき宿屋の店主でもある大柄の男が無愛想に鍋の様子を見ていた。
彼の側には調理済みの料理を並べたトレイがいくつか置かれており、一つ一つ客の注文に合わせて料理の内容を変えている、そんな彼の仕事ぶりに感心しながら拳太もまた食器を取り出してトレイに置いていく
「薪割り、終わりました、何番ですか?」
「ん、左から一階の一番と三番、二階の四番を頼む」
届けるべき部屋の番号を確認し、トレイを持ち出した拳太は部屋の扉をノック、部屋を借りている人達と少しの雑談を交えた後、次の料理を持ち出しにキッチンに戻る
指定された全ての部屋に料理を届けた後、一つだけ残っているトレイを見つけてそれを眺める
「今日は緑スープですか」
「ああ、おまえ、肉や味の濃いものが苦手だったろう」
きちんとこの四日で自分の食べ物の好みを把握してくる、強面の割に親切な店主に心の中で苦笑を漏らしながら料理を持ってドアノブに手をかける
「……今日も外か?」
「ええ、すみません」
いや、気にするな、とかけられる言葉を背に拳太は外へと出る
どこか憂鬱げな表情で出て行く拳太の様子を見て、店主は心配げに彼を見送った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「……はぁ」
また来てしまった。そんな思いをため息に乗せて拳太は自分が立っている場所の先を見つめる
そこは拳太がこの世界に来て初めて目覚めた場所であり、もう会わないと決めたはずの少女の住む場所でもある
揺れやすい自分の決心を嘲笑いながら、料理の乗ったトレイに目を落とす。
シチューのお礼に、と思って毎日ここに料理を持って来るが、いつまでも入る決心ができないがために、この薄汚れた場所で周囲の奇特な目に晒されながら店主の腕前に舌鼓を打つ事態に甘んじている
「……知っちゃいたけど、これはあんまりにもヘタレすぎるぜ」
久しぶりに誰かと話したせいか、久しぶりに優しくされたせいだろうか、拳太の中にはバニエットと再び話がしたい気持ちが膨らんでいた、だが同時に、過去の出来事が拳太のそんな出来事を強く縛り付ける
「……ああ、もうやめよう、良くないに決まってるさ」
しばらくそんな風に悩んでいた拳太だったが、ここに訪れた時の獣人たちの嫌悪感のある態度を思い出して拳太は今度こそ会わないことに決める
それに、働き先の店主にこれ以上迷惑をかけるのも忍びない、今日を最後にして、今度からちゃんと店の中で食べよう
せっかく拳太がそんな思いを抱いた時に
「あ! 会いに来てくれたんですか!?」
そんな彼をあざ笑うように、件の兎少女、バニエットが笑顔を浮かべながらこちらへと駆け寄ってきた。
拳太はまた心が揺らがないうちに早く帰ろうと、少女の言葉をハッキリと否定するべく口を動かす
「……あー、たまたまだぜ、まあ、な」
しかし、動揺した拳太は気持ちとは裏腹に、曖昧な言葉で場を濁そうとする
当然、子供の彼女にそんなものが通用するはずもなく、もう彼女は目に見えて大はしゃぎしている
(……無理に否定することもねーし、仕方ないか……)
「えーと、えーと、先ず何から話しましょうか?」
そんな言い訳を作って、はしゃぎ回った様子から一転、目の前でうんうんと頭を悩ませている少女に拳太は口角を上げると、手に持ったトレイを持ち上げる
「取り敢えず、場所を移して、一緒にこれを食べないか? まだ温かい内に、な?」
◇◆◇◆◇◆◇◆
「むぐむぐむぐ……」
「まったく、落ち着いて食べないとむせるぜ?」
「むぐぐっ!?」
「ああ、言わんこっちゃねー……ほら、水だ」
拳太から差し出された水を一気に飲み干すと、バニエットはまた一心不乱に料理を口に詰め込んでは花咲く笑顔を見せる
そんな少女の顔を見れたことに、拳太は優柔不断の自身に少しだけ感謝の念を抱いた。
「んっ……ぷはー! 美味しかったです!」
「そりゃ何より」
口元の食べカスを布で拭いながら拳太はこのままバニエットと一緒に居るべきかどうかを考える、食事中にいくらか話もしたし、シチューの礼もこれで済んだだろう
ともすれば、もう拳太にはこの子の側にいる大義名分がない、そろそろ別れなければいけないだろう
「じゃあな、オレはこいつを持ち帰らなきゃいかねー」
「えっ……も、もう帰ってしまうんですか?」
立ち上がった拳太の学ランの裾を掴み、名残惜しそうな様子でバニエットが拳太を見上げている
しかし、拳太はそれを優しく解くと、バニエットの視線に合わせるように腰を落とし、静かに語りかけた。
「世の中にはな、絶対にかかわらない方がいいやつってのがいる、オレはそんな奴だ」
「な、何を……」
「言ってる事が分からないってか? まあ今に分かる、多分そろそろ――」
戸惑うバニエットに言葉をかけようとした拳太だったが、にわかに辺りが騒がしくなり始める
一体何事かとバニエットがその元へ視線を寄越すのに対し、拳太はため息だけ吐いて、膝についた砂を払いながら立ち上がる
「おい! 見つけたぞ!」
騒ぎの場所はどうやらバニエットと共に暮らしているあの老婆のようで、チンピラのような二人の男が何事か怒鳴り散らしている
その光景を見たバニエットは血相を変えて老婆の元へと駆け寄っていく、拳太も彼女の姿を見失わないように足を動かした。
「ふざけんじゃねえよ、てめえ、たったこれだけかよ!」
「ほ、本当にこれだけです……!」
胸ぐらを掴み上げられている老婆は苦しげに呻きながら必死に懇願する、チンピラの持っている袋から覗く金貨から察するに悪質なカツアゲに遭っているのだろう
バニエットは老婆の元にまでたどり着くと、両手を振り上げながら必死に叫ぶ
「や、やめてください! 酷いことしないで!」
「あぁ!? んだガキ!」
「それだけしかないんです! もう本当に無いんです!」
「るせぇ! その言葉は聞き飽きたんだよ!」
バニエットをうっとおしがったチンピラの一人が思い切りバニエットを蹴っ飛ばす。
彼女の体から鈍い音が響くと、苦痛を感じる間もなく地面から足が浮いた。
「ぐっ!」
「バニエット!」
老婆の絹を裂いた様な悲鳴が響き渡り、バニエットの体が宙を漂う
彼女は鋭い痛みによって自分の視界がスローモーションに流れていくのを感じ、自分が今にも石畳の地面に落ちることを悟らせ、迫り来るさらなる痛みの予感に固く目を閉じる
「……子供を蹴飛ばすとは、随分いい趣味してんじゃねーか」
しかし、そんなバニエットの予想とは裏腹に、地面に背を叩きつけられる前に、彼女を受け止めた者がいた。
ようやくバニエットに追いついた拳太が、彼女を間一髪で抱えることができたのだ。
腹を抑えて苦痛に顔を歪ませるバニエットを見て、拳太の表情がハッキリと不快感に変わる
「あん? テメェ人間か? なんだってこんなところにいやがる」
「さあな、自分で考えてくれ」
それよりも、と前置きし、バニエットをゆっくりと下ろすと彼女を守るようにチンピラの前まで歩を進め、拳を握り締める
「それ以上そいつらに手を出さない方がいいぜ、鼻っ柱折りたくなけりゃーな」
「いきなり出てきて何言って――」
「オラ」
拳太を威圧しようと顔を寄せてがなり立てるチンピラの顔面に、拳太の頭が一瞬だけ後退し、次の瞬間には一気に額と額が鈍い音を立てて激突する
「うぎっ!?」
チンピラの一人は拳太の容赦ない頭突きにより蹲り、もう片方はそれに激高して腰にある刃がボロボロのナイフを引き抜く
「てめぇ! このガキが、やりやがったな!」
「あ、危ない……!」
「心配すんな」
痛みから立ち直ったバニエットが咄嗟に拳太を止めようとするが、拳太は顔も向けずに一つだけ言葉を送ると脇を締めていつでも拳が繰り出せるように構える
「ケッ! 変な構え方しやがって!」
チンピラは見せつけるようにナイフを振り回し、刃が日に当てられてギラギラと危険な光を放っているが、拳太の顔に変わりはない、目の前の男に拳を叩き込む絶好の機会を伺っているだけだ。
「キェェエアア!」
チンピラが奇声を上げながら拳太に向かって飛びかかり、ナイフを思い切り振り下ろす。
グシャリと肉の抉れる音が鳴り、その音にバニエットは思わず顔を背けて目を瞑る
しかしいつまでも静まり返っているのに違和感を抱いて、恐る恐ると目を開いて再び拳太達の方を見る
「う、ご……」
彼らの足元には数滴の血が滴り落ちていた、垂れている場所の位置からして、頭部の辺りから血が出ている事はわかった。
しかし倒れ込んでいる姿勢のバニエットでは一体どちらの攻撃が当たったのかはわからない、チンピラの振り下ろされたナイフが視界に入っているため、わかったのは攻撃が行われたことだけ
「ぐ、ぐぅ……」
やがてゆっくりと体を傾け、力なく地面に倒れたのはチンピラの方だった。拳太のパンチをモロに食らったらしく、歪んだ鼻からは多量の血を流している、ピクリとも動かない様子ではもう立ち上がれないだろう
「言ったろ、鼻っ柱折るって」
拳についたチンピラの体液を彼の服に擦りつけながら拳太は始めからこうなるのが分かっていたかのように淡々と述べる
一方まだ意識のある頭突きを食らったチンピラは敵意のある瞳で彼を睨みつけるものの、先程のやり取りを見て不利だと悟ったのか拳太と距離を取ろうとする
「のびてるこいつ連れてとっとと帰れ、こいつらに手を出すってんなら先ずオレをどうにかするんだな」
「てめえっ……! 覚えてろ!」
そう言って気絶した体に思い切り蹴りを入れてチンピラに寄越す、彼は肩を首に回すと捨て台詞を吐いてそそくさとその場から離れる
二人の姿が消えてしばらく、拳太が握ったままの拳を開くことでようやく緊張していた場の空気が和らいだ。
「……怪我はしてねーか?」
「わ、私は大丈夫です、それよりバニエットは!?」
「大丈夫だよお婆ちゃん、私は――痛っ!」
そう言って元気に見せようとするバニエットだったが、直後に苦痛に顔を歪めて蹲る、拳太は反射的に駆けつけて彼女の手で押さえつけられている場所を見ると、どうやら蹴られた際に靴底で擦り傷ができてしまったため、膝から赤い血がにじみ出ている
「見た目ほど深い傷じゃねーな、ちょっと待ってろ」
拳太は水筒に残っていた水でバニエットの傷口を洗う、口を付けた物なので雑菌が混じってしまっているだろうが、何の処置をしないよりかはマシだろう
傷口に染みる冷水にバニエットが顔を顰めるが、拳太は無視して洗い、ポケットから桜色のハンカチを取り出す。
「ほれ、ちょっとキツいかもだが、外すなよ?」
拳太はハンカチを眺めて少しだけ手が止まったが、直ぐに端を束ねるとバニエットの傷に当てて結んでいく、固く結ばれたハンカチを見て、拳太を除いた二人が目を丸くしていた。
「その、人間様、汚れてしまいますよ?」
素人目にもわかるくらいに質のいい布で出来ているハンカチをいとも簡単に傷の手当てに使った拳太の行動に、思わず老婆が疑問の声を上げる
バニエットも大きく頷いていたが、拳太は特に気にした様子もなく告げる
「オレが持ってても使わねーし、似合わねーからな……バニエット、あんたにやるよ」
「えっ!? わたしが、これを……?」
譲ると言われて最初は勿体無いやら申し訳ないやらで断り続けていたバニエットだったが、彼女の提案を受け入れるつもりのない拳太の態度にとうとう観念したのか、しばらく無言でハンカチと拳太の顔を交互に見たあと、おずおずと尋ねた。
「あの、本当に、いいんですか?」
「ああ…………大事に使えよ?」
拳太からそう告げられ、バニエットは感無量といった様子で膝にあるハンカチを丸い瞳を輝かせながら眺めている
そんなやり取りを呆けた様子で見ていた老婆だったが、やがて静かに微笑むと拳太に深々とお辞儀をする
「本当に、ありがとうございます」
「……!」
心からの礼を述べる老婆に、拳太は目を見開くと、全身を硬直させてわなわなと震えだす。
しかし頭を下げている老婆やハンカチに目を向けていたバニエットにその変異は伝わらなかった。
「よろしければ、お名前を――おや?」
そこで頭を上げた老婆はようやく気づく、もう彼女の目の前に、遠藤拳太の姿は無く、いつも見る路地裏の壁が映っているだけだ。
「バニエット、あの人は?」
「え? あれ? どこにいっちゃったんだろ……」
老婆に声を掛けられて、ようやくバニエットも拳太がいないことに気がついたようだ。
まるで最初からそこにいなかったかのように表の雑踏のみが聞こえる路地裏の奥で、二人は揃って首を傾げた。