第二話 追いかけっこの兎
「うう……ぐしゅ、ぐしゅ……」
「どうしたんだい、バニエット? お前、人間様に御飯をあげに行ったんじゃなかったのかい?」
道の入り組んだ、路地裏の奥、そこにいる者たちは皆、頭に角や獣の耳を生やしていたり、尻から尻尾が生えていたり、普通の人間ではない者たち、『獣人』が表の人々から息を潜めるようにたむろしていた。
彼らの群れの中の一つに、すすり泣く少女とそれを宥める老婆の姿があり、二人には兎の耳が生えていた。
「それがね、それがね……人間様、起きちゃって、私……怖くなって逃げちゃったの」
「そうかい、それは……仕方ないねえ」
そう言ってバニエットと呼ばれた少女を撫でる老婆だったが、少女にバレないように前髪の下で困ったように眉尻を下げる、その顔はバニエットのとった行動がまずいことを表しており、実際それはバニエット本人も分かっているようだった。
「どうしよう……私、また鞭で叩かれるの? そんなのイヤぁ……」
「よしよし、安心しなさい、私が許してもらえるように取り合ってあげるよ」
そうやって老婆がバニエットをあやしていると、にわかに道先から騒ぎが広がっていく
獣人達が話している内容に聞き耳を立てると、どうやら人間の男がバニエット立ちの方へと向かっていくようだ。
「……まずいねぇ、質の悪いのに捕まっちまったかい?」
「お、おばあちゃん……どうしよう…………」
「おい、ちょっと待て、ただオレはこいつを――」
そこに聞きなれない声――バニエットと接触したであろう人間の声が聞こえ始める、老婆は目つきを変えるとバニエットを座っていた椅子の下に潜らせ、ひざ掛けで覆い隠した。
「まったく、人が話そうって時にみんなして逃げやがって……気分悪いぜ」
老婆の視界に現れた人間は、まだ少年と言えるような年齢であった。
黒い立派な服装に身を包んでおり、肌の色と振る舞いから裕福な商人の息子か何かだろうと当たりをつけた老婆は幾分か気を緩める
もしも相手が貴族ならば必死に許しを請う以外に道はないが、商人が相手となるなら金を渡せば気分をよくして帰ってくれるかも知れないと思ったからだ。
「……ん?」
と、ついに少年がこちらに気づき、バニエットが置いてきたのだろうお椀を持って近づいてくる
「顔を出すんじゃないよ、バニエット」
「う、うん……」
怯える気配を椅子の下から感じながら、老婆はこの小さな存在を守ろうと拳を固めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「すまねー、そこのバアさん、一つ聞きたいことがあるんだが」
状況の混乱に落ち着いた拳太が取った行動は、とりあえず逃げた少女が置いてきてしまったお椀、ひいてはその中身のシチューを返すことだった。
貧相な見た目からして食料が彼らにとって貴重なものだと感じた拳太は、流石にシチューをそのままにするのは、少女からシチューを盗むような気がして後味が良くなかったためである
無論、客観的に見れば拳太は何もしていない、少女の方が勝手に驚いて去ってしまっただけで、拳太自身それを理解していたのだが、だからと言って何もしないのも人間的にアウトだと思いこうして路地裏の奥にまで足を運んだのだ。
「なんでしょうか? ここは人間様方の来るような所ではございませぬが……」
拳太の追っている少女と同じ特徴の老婆は古びた木製の椅子を軋ませながら拳太との会話をさりげなく拒否する
拳太は溜息をつくと、一先ず自分が無害な存在であるとどう説得したものかと頭を捻る
「……まったく、バアさん、何をそんなに緊張してるんだ? 落ち着きなよ……オレはただ話がしたいだけだぜ」
「なんのことでしょうか? ワシはこの通り、いつも通りに人間様に服従を誓っております」
取り敢えず声をかけてみても、目の前の老婆はただ頭を下げるばかりの姿勢から変わる様子はない、それに拳太に対し何かしらの悪感情を抱いているらしく、さっさと会話を切り上げたい事が拳太にはひしひしと伝わってくる
こうなったら下手に長引かせるよりも、相手の望み通りに手早くこちらの要件を済ませて帰った方がいいと判断した拳太は探している少女の行方を尋ねることにした。
「…………まぁいいや、取り敢えずよ、オレはあんたと同じ特徴の耳を持った女の子を探してるんだが……知らねーか?」
「……」
「……」
「……申し訳ありませぬ、ワシは何も知りませんですじゃ」
「そうかい」
少しの間、沈黙が流れたが拳太は頭を掻くと溜息を一つついて元の道に引き返そうと老婆に背を向ける
それに彼女が安堵の息を吐くと同時に拳太は立ち止まって再び口を開いた。
「そうだバアさん、質問がひとつ増えちまうようで悪いんだが」
拳太は足先を再度、老婆の方へと方向転換して体ごと顔を戻して彼女へ振り向く
その顔の表情を見た老婆は一瞬、自分の背筋から薄ら寒い何かが這い上がるのをハッキリと感じ取った。
「――――その椅子の下にいるのは誰だ?」
「!?」
何故なら、影に遮られて見えにくくなっている拳太の表情は先ほどのような気だるげな若者のものではなく、感情をどこかに落としてきたかのような冷たい、何を見ているのかも分からない程の無表情であったからだ。
「な、何を言っているのでしょうか? 椅子の下には何も……」
何はともあれ、今はバニエットを庇わなくてはならない、そう思い直して自分の内からふつふつと湧き始めた気味の悪い不安感を無理矢理に押し込んだ老婆は下手でもなんでも口を動かして誤魔化そうとするが、途中で拳太が遮るように老婆に向かってゆっくりと指をさす。
さされた指を見て老婆は口を噤む、それを見計らって今度は拳太が口を開いた。
「オレ、自分で言うのもなんだが人に比べて観察するのが得意なんだ、アンタ、絶え間なくイスを揺らしたり、たまに下に目線をやっていただろう? 癖にしても意識的すぎる、加えてオレが女の子について尋ねた時、足にしては不自然な布の揺れ方をした……居るんだな? そこに、誰か」
「……………………」
まずいことになった。豹変した拳太に気圧された老婆はその言葉だけが頭の中を飛び回り、何をどうしたらいいかわからなくなる
ただ汗を拭うこともできなくなり、拳太を見つめていた老婆だったが、不意に溜息をついた拳太によってそれまで張り詰めていた空気が霧散する
「…………ま、無理に出せなんて言わねー、さっきも言ったが、オレはただ話したかっただけだが……こうも警戒されちゃ、諦めたほうがいいな」
元のどこか不機嫌そうな無気力顔に戻った拳太は大仰に肩を竦めると、ゆっくりと老婆の元に歩み寄り、手に持ったシチューをそっと差し出す
「ただ、バアさん、あの子と知り合いだったら、コレ、返してやっといてくれ」
「これは……?」
「あの子の飯だ、忘れちまってたもんだからな、貴重なんだろ?」
差し出されたシチューの入ったお椀を見つめて、老婆はたったそれだけのためにわざわざ足を運んだのかと困惑する
老婆は今までここに訪れた人間は数多く見たが、その中でもこんな些細な事を気にしてやって来た者など初めてだった。
「あ、ええ……そうさせてもらいます、はい」
思わず生返事をしながら椀を受け取った老婆だが、拳太からお椀を受け取った次の瞬間、彼女のひざ掛けの布がゴソゴソと蠢きだした。
「あ、こ、コラ……!」
慌てて止めようとした老婆だが、もう遅い、布の下からピョコりと二本の耳が飛び出したかと思うと、拳太の探していた兎の少女――バニエットが飛び出し、手早く老婆の手からお椀を奪い取った。
「あの、これ!」
そしてそのままの勢いで両手に持ったお椀を拳太に向けて差し出し、老婆と拳太の両者はバニエットの行動に驚いて動きを止める
拳太はその突拍子のなさに、老婆は普段の臆病な態度からは考えられない、といった違いがあるが
「おいしいですから、どうぞ!」
「ああ、ありがとよ……?」
返しに来たはずの食事を逆に手渡されて戸惑いっぱなしの拳太であったが、とりあえずは目の前の少女の言うがままにシチューをあおる
時間が経ったせいで少し冷めており、味も薄いのでお世辞には美味しいとは言えないものの、やや空きっ腹だったことも相まってそれなりに拳太はシチューを堪能した。
「……あー、なんか色々と余計な手間を取らせちまったな、すまねー」
「い、いえ……」
軽く頭を下げる拳太に、老婆は慄きながら拳太よりも深々と頭を下げる、バニエットも老婆に頭を下げさせられ、やはり自分がここにいることは良くないことなのだろうと拳太は居心地の悪さを感じながら二人に背を向け、元の大通りを目指して歩く
「すみません!」
そこに、バニエットの声がかけられ拳太の足が止まる、振り返ると、拳太の真後ろにまでいつの間にか近寄っていたらしく、足が不自由なのか老婆が椅子に座ったままオロオロと二人の様子を伺っていた。
「私っ、バニエットって言います!」
名前を告げたあと、何やら決心した様子でバニエットは一息吸うと、拳太の目をまっすぐと見据える
「また、会えますか……!?」
バニエットの言葉に老婆はなんてことを言うんだとでも言わんばかりに目を見開き、拳太はまだどこかに怯えが混じっているバニエットの顔をじっと見つめ返した。
「うぅ……」
「…………」
時間にしてほんの数秒に過ぎなかったであろう沈黙、しかし長い時間にすら感じられたその間を経由して、拳太はようやく口を開いた。
「……まぁ、気が向いたらな」
返したのは了承にも、否定にもならない曖昧な返事、先ほどもうここには来ないようにしようと思っていたにも関わらず、眼前の少女一人に揺らいでしまう自分の意志の弱さに拳太は軽く嫌気が差す
しかしそんな彼の内心など露知らず、バニエットは嬉しそうに笑顔を輝かせると、何度も頭を下げながら老婆の元へと帰っていった。
(……あんな行くとも取れない返事で、何をそんなに喜んでんだ? あいつは)
そんなバニエットの様子を見て、思わず疑問が湧き上がった拳太であったが、直ぐに頭を振ると、その疑念を思考の外へと追いやる
(何考えてんだ、今更もう、どうだっていいだろ……)
ポケットの中の写真を取り出し、そこに写っている人物を眺めた後、拳太は再び歩み始めた。
もう会うつもりのない、兎の少女のはしゃぐ声を背に聞きながら