ソルシエール狂想曲
ずるい。騙したな。
「おはよう、マサトくん」
朝、呼んでも目を開ける様子がなかったので、そっと唇を押し付けてみたらこのザマだ。
「…おはよう。ごめん」
美和子さんは、僕のキスに驚きも感嘆もせず、ただ天井を仰いでいた。
「どうして謝るの?」
ゆっくりと身体を起こし、落ちている服をひとつひとつ身に纏っていく。
窓から射す光に照らされた彼女の、徐々に見えなくなる白い肌をじっと目で追っていた。
美和子さんが洗面所で顔を洗っている音を聴きながら、まだ夢現つな僕は、だんだんと冷めていく熱に怯えていた。彼女の、僕に対する温度。
バーでクラシックピアノを披露している僕は、ちょうど半年前に彼女と出逢った。綺麗な指をしているのね。美和子さんは、ピアノの音色よりも僕自身に興味を示してくれた。
それから、僕の出勤日に美和子さんは毎回現れた。ひとりで、時には友達と、時には男と。
いつしか僕は 彼女を目で探すようになって、その姿が見当たらなかったときに 初めて自分の気持ちを自覚した。
今思えば、巧妙で、かつ単純過ぎる手口に僕はまんまと引っ掛かったのだった。その次にあなたが僕の前に姿を現したとき、目の前の僕を見て さぞほくそ笑んだのだろう、「わたしもあなたが好きよ。」これ以上とない官能的な響きだった。
「ねえ、月の光が聴きたいわ。ドビュッシーの」
「…聴けば?」
薄く化粧をした美和子さんは、年齢よりもだいぶ若々しく見える。
私はもうおばさんだから。眩しそうに、けれど、絶望している、というような顔で口癖のように僕にそう言うけれど。
「違うわよ。マサトくんのが聴きたいの。あなたの月の光って、線が細い感じで好き」
部屋の中央に置かれたグランドピアノを指でそっと撫でる。
「弾かないよ」
「どうして?聴きたい」
「弾かない。僕もう、決めたから」
「なにを?私のためにピアノを弾かないって?なんのために?」
なんのために。
「…嫌がらせ、かな」
小さな声でそう言った僕に、美和子さんは声を上げて笑った。
「効きそうな嫌がらせね。気に入ったわ。あなたのそういうところ、
嫌いじゃないの。大人びたふりをして、実は子供っぽいところ。気を惹くのが下手くそなところ」
その言葉に腹が立って、僕は彼女を目で攻撃した。
すると思ったよりも近くに顔があって、少し後ろに下がる。そのしなやかで細い指に押し倒されるがまま僕はベッドに仰向けになり、彼女の愛撫を受けた。
「弾いてくれない?月の光じゃなくてもいいのよ」
「しつこいよ。弾かない。」
「嫌がらせはもう十分でしょう? もう時間がないの」
「なら帰れよ。旦那待ってるんでしょ。もういいから、帰って」
珍しく強い僕の口調に、彼女は眉を下げて、それでも楽しそうにしていた。
「そう。それならまたの機会に楽しみはとっておくわ。連絡する。」
あなたの身体でいちばん好きなところ、に短くキスを落として、ドアをバタンと閉めた。帰っていく。あの男の元に。帰っていく。しょせん僕は外出先。帰っていく。家に。居場所に。
「マサトくん、愛してる」
彼女の唇がそう放つ一瞬、何もかもがどうでもよくなる。嘘でもいい偽りでもいい。旦那にこの関係がバレて破綻すればいいのに。妊娠すればいいのに。いっそ、僕が終わらせてやる。
そんなことを頭の片隅でふと考えては、揉み消す。
彼女を愛しているという事実だけが、唯一僕を救ってくれる、なんて悲愴な。馬鹿らしい。
トン、と鍵盤を叩くと、哀に満ちた音が部屋に響いて、目を閉じる。
月の光。僕にとって、この曲はあの女の象徴だ。艶やかで、哀しく、美しい。僕を、憎悪にも似た愛情で苦しめる。与えることで、更に飢えさせる。
彼女に出逢ってから、好きだったピアノでさえ僕を苦しめるものとなってしまった。ピアノを弾くと、僕の白い指が嫌でも目について 彼女を思い出させるのだ。彼女の言葉を、キスを、身体を。この指で与える刺激に悦ぶ、あなたの声を。
幼い頃から愛していた僕自身とも言えるピアノは、彼女そのものになってしまった。いつか彼女との終わりが来るとき、ピアノは弾けなくなるのだろう。
それさえも計算だったことに気づいた頃、最初から逃れられなかったのだと悟った。恐ろしい女だ。彼女にとって僕が無意味になっても、僕にとって彼女は永遠に、女として愛として傷として、僕の中心に居座り続ける。
月の光のサウンドが部屋中に散乱すると同時に、僕の脳味噌と心臓は彼女の断片たちで埋め尽くされていた。
白い部屋の真ん中、裸体のまま月の光を弾く僕の末路は、たぶんもう近い。