閑話 きっかけ。~学園長視点~
結局名前が決まらなかった学園長視点。
隣に座る少女が、退屈そうに机の上の仮面を撫でる。少女の頬に貼られた絆創膏には、大きな赤い染みができていた。
「ほっぺ、痛くないかい?」
私の質問に、彼女は無邪気な笑みを浮かべる。
「痛くなくなりましたー」
小学校低学年の子には珍しく、落ち着いた調子の声。それに反して、ローブの下から覗く緑の瞳は、感情が読み取りやすい。
特徴的な服装で、最初はだれも近寄らなかったらしいが、人懐っこい性格や、ノリの良さなどから、今では多くの人と親しくしているらしい。
喧嘩は少なく、意見が合わなくても丸く収める、『手のかからない』最高の生徒だ、と称した彼女の担任に、微かな不快感を覚えつつ、私は疑問を持った。
何故そのような少女が、二つ年上の少年を叩き、彼女を宥めに行った教員を蹴り飛ばしたのだろうか。
「どうして松原くんを叩いたんだい?」
「松原? ······あ、あの人、松原っていうんですか。言っときますけど、先に殴ってきたのは、あっちですからね」
「そうなのかい?」
「はい。急に『これ寄越せ!』ってこのローブ引っ張ってきて、断ったら『生意気だ』って殴ってきたんです」
「おや、貸さなかったんだね」
大人びたこの子なら、さっさと貸してしまいそうなものだが。
そう思って尋ねると、彼女は冷めた目で私を見た。
「学園長も、私がこれを貸したら良かったのに、とか仰るんですか?」
淡々とした物言いに、目を見開く。幼い子供、それも彼女のように元気な子供が、こんな言い方をするものだろうか。
「······そんなことは言わないよ。そのローブは、君のものだからね」
「ですよねっ」
一気に彼女の顔が華やいだ。年相応な反応に安堵して、彼女から話を聞き出していく。
先に手を出したのは相手の方で、殴られた際に、頬を爪でひっかかれたらしい。それで反撃すると、近くにいた教員が割って入り、相手の言い分を聞いた後、一方的に彼女を叱りつけ、それに怒った彼女が、教員を蹴り飛ばしたのだそうだ。
「意見が合わなくても喧嘩にならない、大人しい子だと聞いていたんだがね」
「まっさかー。私、喧嘩っ早い方ですよ? ただ、大抵の場合、相手の意見に『良いな』って思う部分がいっぱいあるから、それを取り入れて新しい意見を出したら、相手も賛成してくれるってだけです」
「はは、君は大人びているね」
「えー? むしろ、子供っぽいですよー。本当に大人びてる子は、蹴り飛ばす前に言い返してますもん」
「たしかに、少しやりすぎたかもね。でも、お母さん達に怒られたら、私からも説明しよう」
「親呼び出されたの、私だけですか?」
「松原くんの方は、また今度、お話するよ」
「やったー」
彼女は嬉しそうに目を細めた後、首を傾げた。
「学園長、やっぱり私、怒られますかね~?」
「うーん、まぁ、怒られると思うよ。暴力は暴力だからね」
「ま~松原先輩はともかく、牧原先生蹴っちゃいましたし······そこは圧倒的に私が悪いから、仕方ないか~」
「ちゃんと認めるんだね。······こら、仮面はつけちゃダメって、保健室の先生に言われただろう? 怪我が治るまで、仮面はやめておきなさい」
「は~い。あ、学園長。お願いなんですけど、この仮面のこと、他の人には黙っててもらえませんか?」
「······保健室の先生にも、口止めしていたけれど、どうしてだい?」
「まだバラす時期じゃありませんから~」
「じゃあ、私が黙る代わりに、怪我が治るまで、仮面をつけちゃぁいけないよ。それを約束できたら、私は君の仮面のことを忘れよう」
「分かりました~」
彼女はそう言うと、顔に被せていた仮面を、黒いビニール袋に入れ、手提げかばんにしまった。
「ふふ、学園長は『学校にこんなものつけてくるな!』なんて言わないから、大好きです。私のお父さんってば、この仮面を、『気持ち悪いから、外ではつけるな』って言ってきたんですよ⁉ コレ、自信作なのにな~」
ほぼ初対面の相手に『大好き』と言える、彼女の精神。それにある意味感心しながら、気になっていたことを尋ねる。
「君の担任から聞いていたけれど、君は苗字をつけて、先生を呼ぶんだね。そのルールは、私には適用されないのかな?」
「あ、すみません。嫌でしたか?」
「別に気にしないよ。むしろ、そっちの方が慣れている」
「良かった。いやぁ、うっかり苗字つけずに呼んじゃいました。昔、『苗字もつけて呼んで。馴れ馴れしくて気分が悪い』って怒られてから、気を付けてたんですけどねぇ」
「逆に、他人行儀で嫌だという人も、いると思うよ」
わざと、彼女ぐらいの年齢では分からないであろう言葉を、使っていく。
だが、彼女はすぐに返した。
「『馴れ馴れしいからやめて』って言われるより、『よそよそしいからやめて』って言われる方が、ダメージは少ないでしょう?」
彼女は再び、首を傾げた。
······考えるのは、やめよう。これ以上探りを入れても、『彼女はなぜか、実年齢より長く生き、その分の教育を受けている』としか分からないだろう。
詮索を諦め、小さく息を吐く。
それをかき消すように、入り口の扉が、乱暴に開けられた。
「あっ、お母さん!」
声を高くして顔を綻ばせながら、彼女が立ち上がった。彼女より明るい緑の瞳を持つ女性は、彼女に駆け寄ったあと、私が止める間もなく、彼女の頬を叩いた。
それも、一目で怪我をしていると分かる方を。
「この恥知らずっ」
逃げられないようにか、彼女の胸倉を掴み、もう一度手を振り上げる。
慌てて私が止める前に、彼女が動いた。
「怪我しとる方叩くなや」
そう呟くと、彼女は襟を掴む手を強引に剥がし、ちょうど部屋に入ってきた男性に向かって、母親を投げ飛ばした。
彼女の父親らしい男性は、唐突に投げられた母親を受け止めきれず、尻餅をついた。
「お父さん! 大丈夫?」
「綾、お前、母さんに何をしたんだッ」
「だってお母さん、急に叩いてきたんだもん」
やや怒った様子で、彼女は私の隣に腰をおろす。彼女の顔は、よく見えなかった。
とりあえず、両親に向かいの席に座るよう促す。
父親が彼女を殴ろうとしたのは、彼女が動く前に、私が止めた。
「落ち着いてください、乙さん」
「しかし、娘は二人も人を傷つけたんですよ⁉ 大きな怪我だったら、どう謝罪すればいいのか······」
「綾さんの方にも、理由がありますから、そう一方的に怒らずに······」
「理由なんて関係ありません! 相手が何をしたとしても、この子が悪いに決まってますもの!」
「ですから······」
退屈そうな彼女を横目に見ながら、なんとか宥めようとするが、聞く耳を持たない。
幼い子供の前で、よくそうも責め立てられるものだ。子供が親に理不尽に怒られ、殴られ、傷付かないはずがないのに。
彼女には、席を外してもらった方がいいだろう、と思い、彼女の方を向く。
その時、ようやく彼女が、どんな表情をしているかに気付いた。
彼女は、無表情だった。
「話、終わりましたか」
私が驚いた一瞬の隙をつき、彼女が声を発する。その声は、目の前の両親を強制的に黙らせるほど、平坦だった。
「あのさ、牧原先生の件は、やりすぎだと思うけど······。松原先輩の方は、絶対あっちのが悪いもん。あっちが急にやってきて、私のローブを寄越せって言って、嫌だって言ったら、殴ってきて! だから叩いただけだもん。······ああ、あのね、お父さん、お母さん」
先程とは打って変わって、一気に捲し立てると、今思い出したというように、彼女は付け加えた。
「『ローブを貸せば良かったのに』なんて、ふざけたことは言わないでよ!」
幼い話し方。彼女がこの部屋に来たばかりの時なら、微笑ましいと思えただろう。
だが、彼女の冷ややかな目や、声を知った今では、演技なのではないだろうか、と思ってしまう。裏を返せば、あれだけ見せつけられてもなお、演技だと確信できないぐらい、彼女の振る舞いは自然だ。
彼女の説明を聞いて、彼女の両親は気まずそうな表情を浮かべる。
これ以上は、彼女に聞かせる話ではない。
私は彼女に、外で待つか、先に帰るように促した。
とりあえず話をつけると、彼女の母親は、入ってきた時と同様乱暴に扉を開けて、走り去ってしまった。
彼女が下足で待つと言っていたから、そちらへ向かったのだろう。
慌てて追いかける父親の後を、ゆっくり歩いていく。
私が下足に着いた時、両親は彼女の前にしゃがみ、ひたすら言い訳をしていた。
「綾ちゃん、いきなり叩いちゃって、ごめんなさいね。でも、貴女も同じことを松原くんにしたの」
「喧嘩は両成敗だ。明日、松原くんと先生に、謝っておきなさい」
······言い訳よりも、酷かったか。
私達の位置の関係で、三人の表情が読み取りやすい。乙くんも、俯いているからか、顔がよく見える。
彼女は、必死に取り繕う二人に、仕方ないなぁ、といったように微笑んでいた。
可哀想に。これからも彼女は、こうして誤魔化されていくのだろう。
そう、同情したときだった。
「私達が貴女を叱るのは、貴女を愛してるからなの。貴女を思って、叱っているのよ」
あまりにも芝居がかった言葉。彼女は信じるのだろうか、と彼女に目を向ける。
その表情を見て、私はゾッとした。
「──────ありがとう。私も大好き」
すべてを包み込む、聖母のような微笑み。けれど、瞳は愛情など知らないかのごとく、暗い。
彼女が口にした優しい言葉も、その瞳のせいで、空虚なものとなる。察しの悪い二人も、さすがに理解したらしい。
彼女は慈愛の精神から、両親を許そうとしているのではない。
期待しなくなったから、どうでもよくなったから、咎めないだけなのだ。
もう元の関係を築けないことは、彼女の瞳が、如実に伝えていた。
「綾ちゃん、ごめんなさい······」
「あはは、いいってば」
母親に向けられた目には、つい一時間程前まではあった、好意が消え失せている。
今更になって、思った。さっき、両親の言葉に、誤魔化されていれば、彼女はあんな目をしないで済んだのでは、と。
「······あ、学園長。いらしたんですか」
彼女がこちらを見た。心底嬉しそうに、目を細める。
「さよーならー」
大きく手を振った彼女に、手を振り返す。
見た目より成熟していて、基本誰にでも友好的な少女。一見安定しているようで、不安定な感情の持ち主。
きちんと彼女を見ておく必要があるだろう。
いつか、彼女が問題を起こした時。
その時私は、正しい選択をしなければならない。
「······おや、断ってしまったのかい」
私の声に、彼女が顔を上げる。大学一年生となった彼女は、いつもと同じ軽い笑みを浮かべた。
「だって、ねぇ。彼は『大学生』、『部活のOG』ってのに憧れただけでしょう」
想像していたとおりの返答に、苦笑する。先程彼女に告白した少年は······滝くん、といったかな。彼は三年前、彼女が高校二年生だった時に園芸部に入った少年で、今日、音羽学園を卒業した。
彼は、乙くんが気付かなかっただけで、彼女がここを卒業するずっと前から、乙くんに好意を寄せていた。
······だから、卒業式の日に、想いを告げた。
「違うかもしれないよ。君の人柄に、惹かれただけかもしれない」
「······ま、違っても、関係ありませんよ」
「どうして」
「彼が、私だけを一生愛してくれる保証なんて、ありませんから」
彼女が立ち上がり、伸びをする。
「君ね、それに拘ってたら、いつまでも恋人なんてできないだろう」
「別に、いりませんよ。私は今、充分に満たされています。恋人をつくったら、もっと幸せになるかもしれませんけど、不幸になるかもしれませんから」
「人間関係なんて、そういうものだろう? 君の友人達も、いつか離れてしまうかもしれないじゃないか」
そう言うと、彼女が無言でこちらを見た。こちらに向けられたそれは、もう二度と見ることはないと思っていた、あのどうしようもなく真っ暗な目になりかけていて。
「······すまない。あるはずのないことを、言ってしまった」
私は、すぐに謝った。
「いえ」
彼女が、溜め息を吐く。
「彼女達が、私から離れるはずがありません。それを、学園長は御存知だと思っていましたので」
一瞬もとに戻った気がしたのに、むしろ先程よりも暗い目を向けられた。
「いや、知っている、知っているよ。ちゃんと、分かっている。······ムキになってしまっただけだ。本当にすまない」
「······そうですかぁ」
ようやく、彼女の目が、戻った。彼女が、にっこりと笑う。
私は、彼女に信頼されている。その信頼は、よほどのことがない限り、揺らぎはしない。
だが、ごく僅かの点を突き、先程のように彼女を疑っているかのような言動をしてしまうと、直ちに危ういものとなる。そして、一度壊れてしまえば、何があろうとも再構築はできない。
信頼関係が崩れても、表面上は変わらず信頼しているかのような態度をとるのが、恐ろしいところだ。
「恋人とは、別れちゃうから嫌とか、そんな軽いものじゃなくって。······ん~、学園長のことは信頼してますから言っちゃいますけど、恋人に浮気されると、殺したくなっちゃうんですよね」
「殺す······?」
「はい。他の人には、言わないでくださいね? 私、ずっと前に、浮気されたことがあるんです。いやまぁ、浮気とは違うかもしれないんですけど。恋人が他の女に押し倒されてるシーンを見たあと、わりと早めに恋人が事故で死んだから良かったものの······。数日遅かったら、私が殺してましたよ」
首を傾げながら、彼女は平然と言った。
嘘だろう、と言いそうになるのを、慌てて我慢する。きっとここで言ってしまえば、今度こそ、言い訳の余地なく、信頼が消え失せる。上手に彼女を納得させられたように見えたしても、絶対に、信頼関係はなくなっているのだ。
「それが嫌で、恋人を作らないのかい?」
実際、彼女がこのような嘘を吐くとも思えない。おそらく、本当のことだろう。
「恋人を殺すなんて、面白そうじゃありませんから」
······相変わらずの、ズレた理由だ。
一つ溜め息を吐くと、彼女はくすくすと笑って言った。
「学園長。私ね、学園長のこと、好きですよ。信頼してます。少なくとも、これからも関係を続けようと思うぐらいには」
「乙くんにそう言ってもらえるとは、光栄だ。私からも、よろしく頼もう」
『好き』と言っても、それは恋愛感情ではない。
私も彼女も、何があろうと、互いに恋愛感情を抱くことはない。
「ふふ、勿論です」
彼女は、私を信頼しているから、関係を続けたいというのだろう。私も、彼女といるのは楽しい。だが、理由はそれだけではない。
もう一つの、理由は。
『──────ありがとう。私も大好き』
あの時を思い出し、身震いした。
彼女と関係を続ける、もう一つの理由。それは、彼女に、あの目をさせないため。今まで、彼女があの目をしそうになったことが、何度かあったが、どうにか回避できている。少なくとも、私に対して向けられたことはない。
この世に、何があっても強制的に彼女を止められる、そんな力を持つ人間はいない。
彼女の友人達も、ある程度の発言力は持つものの、結局は彼女に盲目的に尽くすため、彼女を止めない。
だから、友人達以外に、彼女を抑えようとする人間が必要だ。私は、それになろうとしている。
······お世辞にもまともな人間と言えない彼女は、余所見をしている間に、奈落の底にでも落ちてしまいそうで。
私はそれが、ひどく怖い。
最後の分岐点からの各エンド後には、こうして何らかのきっかけ話を載せる予定なのですが、後半の、乙ちゃんが大学生になってからのシーンを載せたかったので、少し特殊な形になってしまいました。
まぁ、これからも乙ちゃんと交流を続ける決心をしたきっかけ、ということで。
次回予告≫まさかの文字数過去最少記録を大幅更新⁉
「内容の膨らましようがなかった」などと、意味不明の供述をしており······




