厄介な子
走りながら、振り返って後ろを見る。遠く離れたところから私を追いかけてきてるのは、おっかない顔をした花咲さんだ。
全力疾走ではないが、長く走っていれば、さすがに疲れが出てくる。
「実に、厄介だねっ······?」
昨日の放課後に追いかけられた時は、裏庭に降りて逃げた。
だが、今は朝。この時間帯は、ちらほらとだが人がいる。裏庭は、各号館へ移動する際の、近道になっているのだ。
しかも、ココ四階だから、昨日みたいに身一つで飛び降りられないし。
なんだかんだ言って、一番の問題は花咲さんのあの表情を、攻略対象が見ることによってドン引きされる······という悲劇が起こらないよう気を配らなければいけない事だ。
周りの音を意識しながら走るって、肉体的にも精神的にもキツい。
······なのに、空気を読まずに震えるポケット。控えめに流れてくる歌は、知り合いからの電話であることを知らせる。
受信画面を見るのが面倒で、私はすぐに電話に出た。
「もしもし?」
『綾ちゃん?おはよう、朝早くにごめん······』
······うわぁ······。
······千尋とはアドレスを交換していないし、第一千尋はこんな低い声じゃない。男の中で『綾ちゃん』呼びは、日向か葵。肉声なら聞き分けられるが、電話だと難しいな。一人称も分からない。
当たる自信はないけど、雰囲気的に······あっちかな?
「夏草庶務、で、合ってる?」
『うん、合ってる。······どうしたの?騒がしいけど······。走ってる?』
「ははっ、追いかけっこを、してるんだ」
『え!?誰から逃げてるの!?僕に出来ることはある!?』
「ん、そうだね、君、今どこにいるの?」
『第三音楽室だよ』
第三音楽室か。補習でもしていたのか?
たしかあそこは二階だったはず。三階まで降りたら······。
「申し訳ないんだけど、そこ、何号室?」
『ちょっと待って。······えっとね、237号室!』
「237?分かった。あと、部屋の窓を全部開けて、窓から離れた場所にいてほしい。そっちに行くから」
『······?』
日向の返答も待たず、電話を切る。237号室の上は、337号室。第三音楽室の上は、どこだっけ?······とりあえずそこに着けば、多分撒けるな。
花咲さんは······。かなり引き離している。彼女が私に変なものを仕掛けてくる前に、とっとと337まで行こう。
「待てええええええっ」
「君、静かに走りなよっ!」
そんな声を上げるんじゃない。近くに攻略対象がいたら、聞こえるだろうが!
私の姿が見えなくなったら、より一層叫ぶか······?だが、逃げ続けるのは嫌だし······。彼女が察してくれると信じよう。
そう考えて一人で頷き、337号室まで全力で走る。途中、ゲームやら携帯やらが落ちそうになるも、無事に目的地に辿り着いた。
振り返っても、花咲さんはいない。今のうちに、逃げ切らねば。
「あ~腕が軋む~」
窓際の棚にのって、自分よりも大きな窓を開ける。が、固い。開かないワケではないが、固い。
······腕に関する力が絶望的な私には、非常につらいのだ。
開けなきゃダメだから、開けるけどね。
「よいしょっとぉ」
雑に開けたせいで、ガコンという大きな音が聞こえてきたが、気にしない。
下を見れば、第三音楽室の窓が開いているのが分かる。
これなら、問題ない。
私は窓に背を向け、一応慎重に飛び降りた。
「······とりゃっ」
窓枠から手を離し、日向が開けてくれた窓に足から入る。
そのまま足を地面に叩きつけ、バランスをとって立ち上がると、入り口付近にいた日向が駆け寄ってきた。
「綾ちゃん!?」
「怖かった~」
「僕の方が怖かったよっ!」
「見ていてハラハラするからね。あと、夏草庶務。ナイスタイミングだったよ、ありがとう」
「本当?迷惑になってなくて良かった」
「いや~本音言うと、電話かかってきたときはイラッとしたけど、結果的に君のおかげで逃げ切れたんだからね。助かったよ。······ああ、君の用事を聞いていなかったね。どうしたんだい?」
「······綾ちゃんが窓から入ってきたインパクトが強すぎて、すっかり忘れてた。あのね、音楽の宿題を手伝ってほしくて······」
「······他の皆は?」
「先輩は電話で頼みづらいし、葵には言いたくないんだ」
「夏草会計は音痴なのかい?」
「違うよ。······葵のことがよく分からなくて。······その、女の子に対して、とか」
「それを意識しちゃうから、話しかけるのを躊躇う?」
最近、生徒会で二人はあまり喋っていない。とはいえ、彼ら以外も含めてお喋りしていれば、二人とも普通に話すから違和感は少ないが。
それぞれ、相手に思うところがあるのだろう。葵も、日向も。
知ったこっちゃないがな。
······柳瀬さんに口止め?されたし、直接は言わないでおこう。
「夏草庶務」
「何?」
「君達が思っている以上に、女の子は情報をたくさん集めている。······こんな時にだけ利用する、というのはアレだが、君なら良いんじゃない?」
「ファンクラブのこと?」
「明言はしないよ」
ほぼ100%肯定しているがね。
先日葵にも言ったが、彼女達は優秀だ。情報の質こそ悪いが、代わりに量がある。日向が手に入れたい程度の情報なら、充分彼女達が持っているだろう。
あとは二人で話し合ってもらうしかないな。
「それで、君の宿題ってのは?」
「あ、このプリントなんだけど······」
「ん?それ、いつ提出?」
「······先週です」
「······それで半強制的にここで宿題させられてんの?」
「うん、先生が呼びに来た」
「ちゃんとしろよ······。別に良いけどさ。プリント、見せて?」
「お願いします」
「······え、ちょ、待った。クラシックを聴きに行くって、これ······」
「生じゃないとダメっぽい」
「無理じゃん。ってか何で先生そんな宿題出したんだ」
「僕が音楽の授業サボり続けたら、僕だけに出された」
「自業自得かよ!」
「ここってネット繋がんないよねぇ」
「······学園側に、プロがいるからね」
「ネットいじるプロ?」
「電波を制限するプロ」
「そんなプロいるんだ」
「別名犯罪者」
「え!?」
「冗談さ」
冗談っつっても、日向が言ったように、ネットが繋がらないのは本当だ。携帯の使用が自由、というのは、解放していても電話やメールぐらいしか出来ない、というのが大きいかもしれない。
だが······。私のウォークマンに、クラシックは入っていない。プリントには、感想百字以上とあるから、想像で書くのは難しいだろう。
「君、アイポッド?とか、そういうの持ってる?」
「持ってたら、綾ちゃんを頼ってません······」
「正論だね。さて、どうしましょうか」
「綾ちゃん、持ってないの······?」
「持ってないね」
「ピアノ弾けない~?」
「弾けるよ」
「だよねぇ。······え、弾けるの!?クラシック!?」
「ピアノに触れたことがない人よりは、ぐらいだけど」
「綾ちゃん何弾ける!?」
「パッとは浮かばない。ん~、五分ぐらいの曲で良い?」
「せめて!せめてその倍の時間のやつを!」
「十分?······何があったかな」
自分が知っている曲を頭に浮かべながら、部屋の隅にあるピアノの所へ向かう。この教室にはピアノが三つあるが、このピアノは最も古そうだ。鍵盤の表面が剥がれ、木が剥き出しになっている部分が多い。
実際の年数は、他のピアノの方が上かもしれないけどね。
「······ああ、いいのがあるよ。正確な時間は分からないが、あれもたしか短めだった気がする」
「十分ぐらい?」
「多分」
「じゃあ、それ弾いてください!」
「あ~······。期待はしないでくれ。ピアノなんて、誰かに習ったこともない、完全にただの趣味なんだ。それから、弾いている間はプリントに集中して、こっちを見ないで」
「どうして?」
「元々、人に見られるのは苦手なんだ」
「嘘!?」
「嘘じゃないよ。さ、プリント見て。弾くから」
「はい!」
そんな威勢よく返事をせんでも······。
これはミスをしたらまずいな、と苦笑しつつ、鍵盤の上に指を置く。物語のように、鍵盤の上に指を置くだけで、自然と手が動くなんてこたぁない。
鍵盤の位置を確認して、音を思い出して。やっと、弾き始める。
序盤は、大丈夫。中盤以降が、危ない。
徐々に小刻みな音になるにつれ、最初は全く緊張していなかった指が、次第にこわばっていく。
普段一人で弾くときや、空達の前で弾くときは、喋りながらでも弾けるというのに。私は案外、プレッシャーに弱いようだ。
「······怖いね」
流れる音に紛れるように、微かに声に出してみる。それは震える指と違って、芯の通った声だった。
緊張はしても、隠すのは上手いのだろうか。日向に、気付かれていないと良いのだが。気付かれてたら、恥ずかしいなぁ。
必死にくだらない事を考えて、緊張を誤魔化す。
······あくまで誤魔化しただけで、解したわけではないのだ。
「!」
小指が伸びきらず、本来と違う鍵盤を押してしまう。が、そこで演奏をやめたりはしない。
まるで、何もなかったように。先程までと、まったく同じような態度を貫く。
そんな風にしていると、くつくつと笑いが込み上げてきた。
どうやら一度間違えたことで、開き直ってしまったらしい。くだらない事を考えるより、ずっと効果的な方法に、私は無意識に口角を上げた。
なんだ、こんなことなら最初に間違えとくべきだったか?
楽しい。自分が弾いてるってのが、えらく気分がいい。やっぱ、楽しくなくっちゃ。頼まれたことだろうが、強制されたことだろうが。つまんない事もあるだろうけど、楽しい事もなきゃ、やってられん。
リラックスすると、気を抜いているにも関わらずピアノの音が安定しだす。······ああ、この感覚。いつも、こうやって忙しなく動く指を追っているうちに、音が小さくなって終盤に差し掛かったと実感するのだ。
終盤になって一時的に小さくなった音も、再び大きくなる。
もはや日向のことなんて頭にない。ただ夢中になって弾き続け、ついに鍵盤を叩く指を止めた。
「はぁ······気持ち良かったぁ~」
「······あ、綾ちゃん!素敵でした!」
「ん?お~、すまない。夏草庶務のことを忘れて、熱中していたよ」
「ひどっ」
「さて、感想は書けたかい?」
「······今から書くね!」
「書きながら聞きゃ良かったのに······」
······彼の様子を見ると、私が途中で間違えたのには気が付かなかったらしい。もしくは違和感を感じた程度だったか。
どちらにせよ、バレてなくて安心した。
「そうだ、綾ちゃん、さっきのやつ、曲名分かる?」
「なんだったかな。『ハンガリー狂詩曲』······第二番、だった気がする」
「うろおぼえだね」
「仕方ないじゃないか。今までこういう目的で弾いたことなんて、なかったんだから」
「じゃ、綾ちゃんがピアノ弾いてる姿見るのは、僕が初めてだ!」
「いや趣味で何度も弾いてるから、君が初めてではないよ」
「え~······残念」
だがまぁ、宿題のために弾いたのは、君が初めてだよ、うん。
「あんな綾ちゃん見たの、僕が初めてだと思ったのに」
······ん?
「他の人も見たことあるのか~······」
「······おい。おい、ちょっと待て」
「何?綾ちゃん」
「夏草庶務。君は、どんな私を見たのかな?」
「······やっべ」
「夏草庶務、私は『弾いている間はプリントに集中して、こっちを見ないで』って言ったよね?」
「······言ってたね~」
「さあ、プリントを持ってきなさい。びりびりに引き裂いてあげよう」
「だめ!この子は何も悪くないのぉ!」
「いいや、その子には君の注意を引きつけていなかった、という罪がある」
「そこはジ〇リので返そうよ」
「私ジブ〇に詳しくない」
「僕もお母さんが見てるから、ちょびっと知ってるだけです!」
「そうですか!さあプリント寄越せ!」
「うやむやに出来たと思ったのに!」
「約束を破った君が悪い」
「くっ······!理に適っている!」
「なら寄越すがいい!」
「嫌だぁ!」
「ま、冗談はおいといて、早くプリント埋めなよ。私はゲームやってるから」
「ピアノ弾いてよ~何の曲でも良いから~」
「プリントはよやれ」
「あ、はい」
日向がプリントに手をつけたのを確認して、ゲームを取り出す。そういえば、『あんな綾ちゃん』とは、それこそどんな私だったのだろう。少々気になるな。
聞きはしないが。
「······出来た!」
「お疲れさん。それの提出先は?」
「音楽の先生。今から職員室まで行ってくる」
「行ってらっしゃ~い」
「綾ちゃんはここに残るの?」
「残らないよ。教室に戻る」
「ごめんね、呼び出しちゃって」
「いや、こちら側も君を利用させてもらったしね」
「誰かから逃げてたやつ?」
「うん、あの人とはちゃんと話つけないと······。これから毎日追いかけられそうだ」
「頑張れ~」
「頑張るよ······」
「······僕も、頑張って葵に聞いてみるね」
「おや、あの子らの情報は使わないのかい」
「都合のいい時だけねだるって、ダメだと思う。それに、葵に聞けば済むことだもん」
「そう。······これは、事情を知っているが故の進言だけど。せっかく、君達は同じ家で暮らしているんだからさ、いつだって話し合うことは出来る。互いのことで分からなくなったら、その度にじっくり話せば良いんじゃないかな」
「······ん、分かった」
「じゃ、出ましょうか」
「うん。······あのね、綾ちゃん」
「なんだい?」
ドアを開ける直前に、日向に声をかけられる。
プリントや筆記用具を片付け終わった彼は、妙にニコニコとしながら近寄ってきた。
「ピアノ弾いてる綾ちゃんね、すっごく綺麗だった」
心をこめて言われた言葉。それは明らかにお世辞ではなくて。
······もう少し棒読みで言ってくれたら、『お世辞の可能性が高い』として、取り乱すこともなかったのに。
「······そういうのは、反応に困るんだ······」
「あれ、照れてる?」
「恥ずかしくもなるさ。自分には不釣り合いな言葉を、もらったのだからね」
「不釣り合いじゃないよ。綾ちゃんは綺麗だし、今は可愛い」
「······すまない。限界だ。耐えられない。私は逃げる。Adios!」
そう言って、私は日向から離れて窓際へ行き、裏庭へと飛び降りた。
周りにいた人がギョッとしていたが、スカートではなく長ズボンだから問題ない。
私は、褒めるのには慣れているが、褒められるのには慣れていないのだ。あんな歯の浮くような褒め言葉フィーバーに、耐えられるはずがなかろう!
······ああいう事は、日向よりも葵が言いそうだと思っていたが······。なるほど、夏草兄弟は二人とも言うのか。
この情報、花咲さん知ってるかなぁ。これ渡して、私を追いかけるのを、やめてもらいたいなぁ。······多分、知ってるんだろうけどさ。
「乙ぉぉぉぉぉッ」
「!?」
突然の怒鳴り声に驚き、あたりを見渡す。すると、二階から顔を覗かせる花咲さんの姿を見つけた。
その怒声に、私以外の裏庭を歩いていた方々も、彼女の顔を見る。······あの、鬼のような形相を。
「アンタァァァッ!そこにいなさいよぉぉぉぉッ」
「まだ私を探してたのか······!?なんと執着深い!」
理不尽に私を追うし、周りを気にしないし!
ホンット君は!
「厄介だね!」
意外と二章長くなっちまいやした······。




