エピローグ。~夏草 日向視点~
「ただいま~」
玄関のドアが開いた音と共に、他の人間には出せない、独特の響きを持つ声が聞こえてきた。年月を経てもまるで変わらないその声は、“仕事”の後だからか、微かに疲れが読み取れる。
「お帰り綾ちゃん、お疲れ様。怪我とかはない? 大丈夫?」
「……君ねぇ、何で帰る前から包帯とか消毒液とか机に置かれてるのさ。大丈夫だよ、今回は。ただ返り血が酷くてね」
空の家で軽くシャワーを浴びてきた、と話しながら綾ちゃんは上着を脱ぐと僕の隣に座る。近くで見ると確かに彼女の髪はまだ乾ききっていなくて、彼女の黒髪の艶を強調していた。常にある艶からは手入れが行き届いていることがわかるのに、髪の結び方が乱雑なのがアンバランスだ。きっと『より人に好かれるため』という理由で髪を綺麗に保っているだけで、本人はたいして興味はないんだと思う。髪以外にもたくさんのことにそれは当てはまって、気付く度に少し、もどかしくなる。
多分、独占欲か何かなんだろう。僕以外の人間、それも綾ちゃんにとって大切でもない人達に向けられる努力が、勿体なく感じられるというか。そんなことしなくたっていいのに、と思ってしまうのだ。
伝えてどうなるものではないから、伝えはしないけれど。
「はー、綾ちゃん大好き」
せめて今だけでも僕だけのものであってほしくて、綾ちゃんを抱きしめる。綾ちゃんの物とは別のシャンプーの匂いと、余程付着量が酷かったのかまだ微かに残る血の匂いに、ちょっとだけ嫌な気分になる。“友人”さんの家に泊まったりで別のシャンプーの匂いがするのはいいけど、それで綾ちゃん本来の匂いが掻き消されてるのが残念だし、血の匂い自体は最近慣れたけど、“友人達”でも僕でもない匂いを彼女が纏っているのは、純粋に嫌だ。
“仕事”の後に彼女をこうやって抱きしめると、たまに顔も名前も知らない相手に憎悪を覚える。
後でお風呂を沸かそう。そう思いながらせめてもの抵抗として腕の中の綾ちゃんにすり寄ると、綾ちゃんは眉を顰めながら僕を見上げた。
「君、それ、今日が四月一日というのをふまえて言っているのかい」
不愉快そうな顔。そういえば、今日はエイプリルフールだとかで周囲が騒いでたっけ。綾ちゃんのいつも通り冷えた手に指を絡めながら、曖昧に思い出す。
「ううん、忘れてた」
「……まぁ今日が嘘を楽しむ日だからと『嫌い』だなんて言ってきたら、許さないけどね」
「ふふ、当たり前だよ」
言葉だけじゃなく、そんなことをしたら本当に殺すと告げる彼女の目に、心臓の奥底から何かが湧き上がって来る。僕は、こんなにも彼女に愛されている。その事実がどうしようもなく嬉しくて、彼女の目尻にキスを落とした。
「ようやく綾ちゃんにこういうことができるようになったのに、嫌いだなんて嘘でも言えない」
「……あのねぇ」
そう言う風に例を出すなら、もっとこの関係でしかできないようなことをしなさいよ。
僕を見上げてそう囁くと、綾ちゃんは僕の首へと腕を回して距離を詰め、ふ、と髪に付いた埃を取るぐらいの軽やかさで、キスをした。頬とかじゃなく、口に。
ほんの二、三秒触れていただけのそれは、わたあめや犬猫とは違う、それこそよく言うマシュマロという表現がぴったりなふわふわとした感触で、その温度は腕の中にあるそれよりも幾らか高い。重ねる以外は何もしていないのに、他のどの部位とも違う“特別”な感覚にくらっとくる。
こうなることがわかっていたから、しなかったのに。彼女はそういう僕の努力を、いとも簡単に消し去ってしまう。
綾ちゃんが顔を遠ざけようとするのを、彼女の首と腰を支えて捕らえる。自分の欲求に従い、まだ殆ど離れていなかった唇に自分から唇を押し付けた。唇をすり合わせて、その感触を味わう。楽しむ、なんて余裕はなかった。酔い心地で唇を挟んだり吸ったりしているうちに彼女の息があがってきて、体は段々彼女の方へと傾いでいく。
「ん、ちょっと……はぁ、待って、くれ……」
「あっ、ごめん!」
完全に彼女をソファに押し倒した頃には、彼女の呼吸に限界が来ていた。一ヵ月ほど前にようやく恋人になってからも、二年間我慢してきたからと逆に酷く緊張して、唇にはあまりしていなかったのも相まって、がっついてしまったらしい。
キスをした後少し顔を離しただけの、まだ互いの息も感じられるような距離で、綾ちゃんは目を弓なりにしならせ、僅かに微笑む。
彼女がこうやって小さく笑う時は、顔いっぱいで喜びを表す時と同じぐらいいわゆる“本当の”感情が溢れているのだと知ったのは最近だ。去年はまだ、こうやって小さく表情を作ることは数えるほどしかなかった。幸せだと告げる瞳を間近で見る度、僕はその鮮やかな碧に溺れてしまいそうな気分になる。
言葉を口にすることなくじっと瞳を見つめていると、頬を両手で包み込まれた。季節に関わらずひんやりとした温度に不快感を覚えたことはなくて、ただ緩やかに熱を奪われる心地良さに、うっとりした。
「好きだよ日向。『嫌い』とか『別れる』とか、冗談でも言ってごらん」
まだ少し息の荒いまま、くつくつと喉の奥を鳴らすように笑った彼女は愉し気な目で、睦言に相応しい、甘く掠れた声で囁いた。
「言い訳する暇なんてあげないからね」
瞳に紛れる殺意さえも甘いものに見せて、老若男女問わず一目で惚れるだろう艶やかな笑みを浮かべる。網膜をじりじりと焼かれるような強烈なそれにぞくりと欲を刺激されて、彼女を強く抱きしめた。驚いた声が聞こえたけれど、気にせず抱きしめ続ける。
多分、彼女は自覚がないのだろう。
「ねぇ綾ちゃん」
「うん?」
「僕を名前で呼んでくれたの分かってる?」
「んん? ……あー、あぁ、そうだねぇ」
数秒して気付いたのか、気怠げに賛同する声があがる。これは……もしかして、自分の行為の希少性も自覚してないのか。
彼女が日向と呼んでくれたのは、あの時とつい最近卒業式の日に改めてした告白を受け入れてくれた時、そのたった二回だけだ。卒業まではずっと生徒会をやめてからも役職名で呼ばれ続けたし、卒業してからは何だかんだ名前で呼ばれることが今までなかった。綾ちゃん他人のことを君、とかで呼ぶことが多いし。
だから三回目なのに!
「綾ちゃーん」
「どうしたの」
「綾ちゃんが僕を日向って呼ぶの、これまででまだ三回目なんだよ? すっごい貴重なんだよ?」
「えぇ? そんな呼んでなかった? 卒業式の日は呼んだ記憶あるんだけれど」
「それ入れて三回です」
「えぇうわマジかぁ」
素直に不満を伝えれば、ごめんね、と謝罪をして彼女は僕の背中に腕を回す。恐らく僕の後ろで手を組んでいる程度なのだろう彼女らしい拘束の緩さに、それだけで少し良い気分になる。
……まぁ、自分でも、相当単純だとは思う。
「これからは、何度も呼ぶよ。今の君は何の肩書きもない」
「えーっ、肩書きがあったらまた前みたいなのに戻るの?」
「ん? そうだね。……嫌?」
「嫌!」
「そう、わかった」
くすくすと笑いながら紡がれる声は、初めて彼女を知った時と変わらない幼さがある、気がする。あの時もっとちゃんと声を聞いておけばよかったな。
……でも入った中学校でローブで顔隠した人がいて、しかもその存在が結構受け入れられていたら関わり合いになりたくないと考えるのも仕方がないと思う。最初の定期考査で彼女の成績の異様さが浮き彫りになる前から変人という噂、というか呼び名はあったわけだし。
今思えば、綾ちゃんは初等部からいたらしいからその頃からの同級生はあの姿に慣れていたのだろうし、変人ってだけで危険だとか近付いたら死ぬとか言われてたわけじゃないんだから、もうちょっと関わろうとしても良かったかもしれない。
無駄だと分かっていても、たまにそう考えてしまうことはある。僕は、昔の綾ちゃんと関わる機会を逃していたんだから。
もっとも、綾ちゃんにはそういうのはあまりないらしい。一度、中学生の頃から関わってたら、みたいな話をしたときに、しばらく唸った後に『あの頃じゃあ駄目だったと思う』と返された。理由を聞いても、説明する言葉が見つからない、と結局理由は聞けていない。多分誤魔化しとかじゃなくて本当にそうなんだろうから、少なくとも綾ちゃんにとって重要性の高い事柄ではないのだと思う。
「ねぇ、君、今日はもう外に出る用事はないのかい」
「うん、綾ちゃんがいない間にー。綾ちゃんが帰って来たら、後はもう一緒にゆっくりしたかったから」
「……君は相変わらず、口説くのが上手だね」
やっぱり君呼びなんだなぁなんて少し残念な気持ちで答えれば、綾ちゃんは眉尻を下げてはにかんだ笑みを浮かべる。その表情自体は勿論、こういう些細な言葉で照れているというのが本当に可愛い。前はどこか不機嫌そうだったのに、最近は褒め言葉とかを素直に喜びはしないものの、嫌がる素振りを見せなくなった。そのことを本人に言ったら不機嫌になるどころじゃないのは分かりきっているから、絶対に言わないけれど。
年単位の時間をかけてではあるけれど、彼女が僕にちょっとずつ気を許して柔らかい表情を見せる度、自分の居場所に心地良さを覚える。それと同時に、醜い独占欲が体の奥底からじわりと滲み出るのも自覚する。
僕と彼女以外誰もいない、その存在すらもなかったことが当たり前の空間で、ひたすらに彼女のことだけを考えて、彼女にも僕の存在を焼き付けて。食事も忘れてずっと抱きしめて、そのまま眠って。……一度考え始めたら、欲は止まることなく膨らみ続ける。
多分言っても嫌われはしないだろう。もしかしたら嬉しいと言ってくれるかもしれない。
でも、伝える気は毛頭なかった。……少なくとも、今は。
「綾ちゃんもよく女の子口説いてるよねー? 男にもたまにそれらしいこと言うし」
「それらしいこと?」
「卒業式に園芸部に迎えに行ったら、後輩の男に言ってたじゃん」
「ん? あー、滝くん?」
「そう! あいつ綾ちゃん狙ってるから気を許さないでって言ってたのに! あんな! 笑顔で! “来年も時々来るから、また会おうね”なんて!」
「わっ、ごめんって、落ち着いて。……いやでもアレは違うと思うけどなぁ」
「あの言い方は充分アウトだよ……それに笑顔でってのもポイントです。あの顔は惚れてなくても惚れます」
「……笑顔、ねぇ」
告白するために迎えに行った場所でのアレは酷かった。改めて告白するし、と緊張してはいたんだけど、アレを見た瞬間に一瞬でなくなったぐらいには焦った。母校を懐かしんで、なんて名目で委員長がしょっちゅう園芸部に監視に来てたのにも納得がいった。アレは放置してたら襲われてるレベルだ。
学園長の頼みでこれからも時折あっちに行くのは聞いてるけど、もう不安で仕方がない。委員長が卒業してからは園芸部は女子の比率が下がって、綾ちゃん目当ての男ばっかりになってたし。実際、卒業式の日綾ちゃんの靴箱やら引き出しやらが、告白のために呼び出す手紙で溢れ返ってたし。
綾ちゃんは、そのどれもを『時間を割くだけの価値はなさそうだねぇ』なんて言ってまとめて無視していたけど……。
「日向」
不意に名前を呼ばれ、彼女に意識を戻す。僕で光を遮られて翳っているはずの瞳が艶やかに煌めいて、霧散していた妖しい雰囲気が一気に呼び戻される。彼女は僕の後ろで組んでいた手を外すと、緩慢な動きで僕の頬へと運び、手を添えて、嫣然と微笑んだ。
あの時、部の後輩に見せたような無邪気なものとは違う、相手を誘うための、挑発的ともとれる毒々しさを持った婀娜なもの。
白く細長い指が視界の端で僕の肌をなぞる度に、心臓がどくどくと大きな音をたてる。すぐそこで艶やかに口角を上げる唇に、味わったばかりの感覚が鮮明に思い起こされた。碧の瞳には、ぼうっとした僕が映り込んでいる。
彼女は本当に、この世のものと思えない程美しい笑みを浮かべていた。
「私が好きなのは、日向だけだよ」
弧を描いた唇の隙間から、真っ赤な舌がちろりと覗く。彼女に手で引き寄せられるままに顔を近付ければ、唇が触れる寸前というところで止められた。
素直に待ちながらも無言で不満を訴えれば、彼女の目は一層愉し気に歪む。嗜虐趣味、というよりも彼女なりの愛し方の問題か。焦らしていじめてるつもりはないんだろうけど、正直この距離はきつい。
それでも我慢し続ける僕を見て、綾ちゃんはふ、と小さく笑う。ただそれだけで唇がかすめて、全身をぞくぞくと何かが走る。
「ねぇ、せっかく二人きりなんだ。今しかできないことをしよう?」
ほとんど吐息と変わらない声で囁かれ、ようやく手が頬から首元へと降りる。それを許可ととって、遠慮なく彼女の唇を奪った。
短いキスを繰り返すうちにまた彼女が洩らす声が色を帯びていく。たまに出るリップ音が、その声と共に耳を侵していく。次第に触れるだけじゃ物足りなくなってきて、彼女の下唇を軽く吸った。
もっと。もっと、深く味わいたい。
熱で浮かされた頭でぼんやりそう思って、割り開こうと唇の隙間を舌でなぞった。
「……ん、日向……」
唇が薄く開かれ、掠れた声で名前を呼んだとき。
優しく、けれどはっきりと体を押されて、距離を作られる。拒まれたことにショックを受けて彼女を見れば、彼女にそこまで嫌そうな様子はない。というかさっきのキスで息は荒いものの、それ以外大した感情は見えない。
「えっと、綾ちゃん……?」
「何か、さっきのくすぐったかった」
少しだけ首を傾げて、何したの、と不思議そうな目で問われる。他に他意のない、これだけ見れば無表情な子だと思われてもおかしくないような純粋な疑問だけを浮かべるその表情に、うっと言葉に詰まった。
これは知らない感じだ。気付いてないんじゃなくて普通に知らない感じだ。舐めましたと答えれば何のためかと聞かれるだろう。そして答えたところで彼女はさらに首を傾げるだけだろう。
乙女ゲームもよくしてるし、本とかも沢山読んでるから、まさか疎いとか考えたことがなかった。言い方が悪いけどそんな無垢には見えないし。というかこんなことも知らないのにあんな色香が出せるものなのか。あんな妖艶に、微笑めるものなのか。
「日向?」
「……まぁこれから時間はいっぱいあるしね」
今日は勿論、これからも、ずっと。そう考えて、小さく溜め息を吐いてから立ち上がる。そして彼女をいわゆるお姫様抱っこすれば、彼女は慣れたように僕の首の後ろへと腕を回す。“友人達”によくされているのだろうな、というのは容易に想像がついた。
「よし。綾ちゃん、お風呂入ろう」
「え? どうして?」
「さっき血の匂いが残ってた」
「……いやぁ、鼻良いよねぇ、うん」
彼女を揺らさないようにとしっかり抱えると、綾ちゃんが心地良さそうに僕に身を寄せる。隣にいることに慣れたが故のそれに、思わず頬が緩んだ。
可愛い。やっぱり僕は、可愛い子がタイプみたいだ。綾ちゃんは誰よりも綺麗で、誰よりも可愛い。
「そうだ、ねぇ、いつお風呂沸かしたの?」
「……あっ」
忘れてた。
「……今から用意するのでしばらく待ってください」
「あはは、良いよ~」
くすくすと笑う彼女を抱え直して、そのまま僕はお風呂の用意へと向かったのだった。




