ラストシーン
ずっと、こうしていられたらって思うよ。
目の前の柔らかい髪を見ながら、腕の中に感じる体温をそっと抱きしめた。
暖かい春の陽、緩やかに過ぎる時間が嘘のように穏やかで。
今、時が止まっても後悔なんてない。
むしろ、止まってしまえ。
■ラストシーン
「ねぇ。」
「ん?」
「ときどきね、ここがどこか忘れるんだ」
「そう・・・」
「自分の名前も」
「・・・うん」
「でも、カズだけは覚えてる・・・なんでだろうね?」
もう何度目か分からない会話。
不意に振り向いた表情は、揺らいでなくて。
ただ、ありのままを口にしただけだというふうに、ひとつの感傷もみえない。
「俺が、優に忘れてほしくないってずっと思ってるからだよ」
「そっか。でも、忘れても大丈夫だよ。また思い出すから」
「思い出すの?新しく記憶し直すんじゃなくて?」
「うん、カズだけは忘れたとしても、思い出す。絶対に」
決して忘れはしないと、貫く意志の固そうな横顔に僅かに願いを懸けた。
これから先の未来、本当にその記憶に残ることが出来れば・・
・
繋いだ手が絡む指先も少し、ぎゅっと握りしめて離さないように。
ただ、これだけ。
このぬくもりを離さずにいられたなら他にはもう何も要らない。
どこかで幾度も聞いたことのあるような陳腐なことばだけれど、今、心からそう思う。
それ以上、俺は何も望まないよ。
消える記憶。
家族のこと、友達のこと、今まで生きてきた過去、未だ見ぬ未来、大切な夢。
どんどん忘れゆく。
兆候は些細で、あのときはその重大さに気付きもしなかった。
ただ少しずつ、少しずつ、見えない何かが優を蝕んでいたことも。
俺がそのことに気付いたときにはもう遅かった。
それは、本人が一番信じられなくて、隠していたことに気付いてやれなかったせいだ。
あのとき彼女の部屋で電話越しに聞いた声は、どうしようもないくらい絶望的で。
忘れたくないと何度も何度も訴え続けた。
俺は何の為にそばにいたんだろう・・・
そう思った。
悔やんでも悔やみきれない言葉。
俺の、言葉。
憂欝そうな横顔は、どこかマンネリでも感じてるのかぐらいにしか思っていなくて。
やっぱりどこか晴れない表情も、終わりが近いのかと勘違いしてた。
別れたいと思い悩むなら、もういっそ言ってしまえばいいのになんて、馬鹿なこと思ってたんだ。
だから、あんな酷いことを言ってしまった。
そんな簡単なことじゃなかったのに。
あのときの彼女の覚悟にも気付くことなく、後になって吐き出した自分の言葉を恨んだ。
『別れよっか』
息を飲んだ気配に、やっぱりこのことをずっと考えてたんだなって悟って。
これで悩みごとからも解放されて、良かったじゃないって心の中で自嘲した。
『うん・・・』
弱く頷いて、それから何も言わなくなった姿に背を向け歩きだした。
顔を見てると今までの想いが溢れだすようで、そこにとどまっていられなくて。
振り返りもせずに離れた。
君がどんな気持ちでいたかなんてこと、知りもしないで。
その日を境に俺の前から姿を消して、音信不通にまでなってしまった彼女を。
どうしてか、理由なんて浮かびもしなかったけど。
俺のせいだってことだけは分かっていたから、必死になって探した。
友達や知り合い、実家にまで電話して行方を探したけど見つからなくて。
もしかしたら帰ってるかもなんて、甘い考えで来た部屋は相変わらず真っ暗だった。
合鍵で中に入っても、何もかも置き去りなままの部屋は静かで。
ほんとに、ここで優が暮らしてたのかも分からなくなる。
携帯すら置いて行ったのは連絡するつもりもなかったのか、それともそんな物も要らない場所に行ったのか。
それさえ確かめる術もなく、時計の針が刻む音を遠く聞いた。
無駄に流れてゆくだけの、意味のない時間が過ぎる。
後悔なら、もうこの何日かで十分したよ。
自業自得なのも承知してる。
それでもただ今は、その笑顔が見たいんだ
だから、戻って来てくれないか。
気分が落ちて、俯いた目線の先に一枚のメモを見つけた。
そこには俺の名前と携帯の番号が書かれていて、よく見ればノートみたいなものも側に落ちていた。
適当にページを開いてみて、その中身に戸惑った。
日記のようでいて、実際はそうじゃないような。
日付と箇条書き、何度もページを捲ったのか端が折れたり少し敗れていたりする。
最初のページに戻ると、去年の終わり頃から始まっていた。
それが優の悪夢の始まりだなんて気付かずに、不意に見た枠の外、走り書きされた言葉に心臓が跳ねた。
“少しずつ大事なこと忘れてる・・・?”
部屋を出て、近くの公衆電話に入った。
分厚い電話帳にずらりと並んだ番号。
片っ端から電話をかける。
すべてが夕日に赤く染まる景色に焦りばかりが増していった。
噛み合う歯車、たくさんのことに説明がつく。
それでも、俺の勘違いであってほしい。
そんなわけないって、そんなとこにいるはずないって。
けれど、現実は冷たく胸に突き刺さって、握りしめてた受話器が手から滑り落ちた。
そこから、どうやって部屋まで帰って来たのか覚えていない。
車を出すことは出来なかった。
そこへ行けば、会えることは分かってたけど。
会ってどうすればいいのかも分からないうちに、行動を起こす気にはなれなかった。
なんで黙ってたのかとか、なんで気付いてやれなかったのかとか、そんなこと思い返しても仕方ないのに。
それだけが、ずっと頭を巡っている。
そこに、不意に鳴り響いた電話の音が俺を現実に引き戻した。
しばらくの間その場を動けずに、ただ鳴っているそれを眺めていたけど。
なぜか取らなきゃいけないと思って、重い足を引きずるように携帯電話の通話ボタンを押した。
『・・・はい』
『っ・・・カズ・・・』
頭がくらんだ。
どれだけ切望していた声だろう。
耳の奥響いて、痛いくらい。
どこにいるの、なんて聞けなかった。
その口から真実を告げられることは何より怖くて。
『ごめん・・・言わないまま・・・っ・・・カズのこと・・・忘れてくの・・・堪えられなくて・・・』
ごめん、と何度も。
不安に揺らぐ感情を抑えこむように、途切れる言葉に胸が軋んだ。
こんなことになるなんて・・・なんで、なんでこうなった?
ひとつ、深く、深く、息を吸い込んでゆっくりと吐き出した。
泣いてもないのに嗚咽がこぼれそうで。
それを必死に堪えた。
『・・・待ってて、すぐ迎えに行くから』
『・・・っく・・カズ・・』
堰を切ったように忘れたくないを繰り返す彼女の悲痛さに、強く奥歯を噛み締めた。
同時に初めて弱さを見せた君を、この手で守ってやりたいと思った。
儚く消えたりなんかしないように。
それからはもう何の迷いも感じなかった。
躊躇う必要はどこにもなくなったから。
君が助けを求めるなら、どこへだって行くよ。
もう、そばを離れたりはしないから。
気持ちだって揺るがない。
その病院の壁は真っ白で、色がなかった。
海岸通りの街から少し離れた場所にある静かな療養所のような建物。
すでに面会時間も終わった病室には入れなかった。
それでも半ば強引に退院手続きをして、連れて帰る途中に海沿いの道だったこともあって一度車を止めた。
車通りが少なくて、街灯の数もまだらな道は暗く。
辺りには何もなくて、波音以外はしなかった。
砂浜に降りる階段も段差がよく見えない。
それでも雲間から表れた月が、足下を照らし出してくれたおかげで足を滑らせることはなかった。
『・・・っ!』
すぐ後ろで階段を降りてきていた彼女に向き直ると、強く抱きしめた。
何か口にする前に体が動いていた。
ほんとはすぐにでも抱きしめたかったけど。
誰にも脆く崩れる姿は見せたくなかった。
我慢してた分だけ、止めどなく溢れだした涙が砂を濡らす。
背中の手は力一杯、服を握りしめていたから俺もまた少し腕に力がこもった。
良かった、戻ってきたんだ。
優は今、俺の腕の中にいる。
それを思うと、酷く安心した。
言葉は要らない。
こうして繋ぐ想いで、十分だから。
髪を揺らす潮風が頬も撫でて、俺自身も泣いていたことに気付かされた。
こうして、再び触れられた喜びも簡単に掻き乱す不安を。
どうにか俺たちの前から消し去って、当たり前だった日常を取り戻せたら。
そしたら、この波みたいに寄せては返す記憶を刻み続けることが出来たはずの未来も。
僅かに明るく差し込んだろうか・・・?
朝日を見てた。部屋の窓。
ほんの一瞬、目を離しただけで。
なんて、絶望。
そんな残酷なことを、最後の笑顔で記憶させて。
昨日だよ、お前言ったよね?
俺はその言葉にささやかな願いを懸けたのに。
俺のことは忘れても思い出すって。
忘れたくないって・・・!
見下ろした先には、さっきまで飽きることなく抱きしめてた姿があった。
冗談じゃないよ。
そんな方法しかなかったのかよ。
悲しみより、悔しさで涙が滲んだ。
こんな終わり方、認めて堪るか。
裸足のまま部屋を飛び出し階段を駆け降りて、愛しい人を抱えその冷たさを必死に否定し続けた。
遠くでサイレンが響いて、耳鳴りのように煩く鳴り続ける音に眩暈がした。
心を覆い尽くすとめどない真っ黒な喪失感に吐き気がした。
手紙を見つけた。
拙い文字、子供が書いたみたいに大体がひらがなで書かれてる。
それは、息が詰まる内容で。
何かを忘れても、忘れたことすら自覚していなかったこと。
ノートにその日あったことを書くということも最近では忘れ始めていたこと。
もうすぐ字も書けなくなることや、まともに話も出来なくなることを恐れていたこと。
どんなに忘れたくないと願ったって覚えていられないこと。
思い出すということも、どうすればいいのか分からなくなってしまったこと。
こんな終わり方は不本意だけど、せめて俺の記憶に残りたかったと・・・
傷つけてごめんなさい、そんな言葉で終わった手紙。
それと、最後までずっと握りしめて離さなかった紙切れ。
くしゃくしゃになったそれには、俺の名前だけ。
何枚も何枚も、書いてたメモの一枚で。
書いてる途中に言ってた言葉を思い出した。
『これが私の記憶の代わり』
紙が頭の中の代わりなんだって、そう言ってた。
そう、だから何枚増えたって、その分優の記憶が増えるんだって思ったよ。
リセットされても、また同じ状態に戻って。
だから、ずっと忘れないでいてくれる。
俺はそのそばにいて、離れないでいよう。
それだけを望んで、一緒に生きてたんだよ。
なんで気付いてくれなかったんだよ・・・一緒にいなきゃ何の意味もないんだって。
だけど、こんな最期でも、意志を貫いたことは良かったと思ってる。
お前の願いを満たしてあげられることは、良かったと思ってるよ。
そう、優が望んだ通りだよ、ずっと俺の中で存在し続けて色褪せない。
こんなにも鮮やかに深く胸を刺す傷を、塞ぐことは不可能だから。
きっと、この先それは治りもしないし、そんな気も起こらないんだろう。
だから。
そこで待っててくれないかな?
ゆっくりだけど、追い付くから。
一歩を踏む度に君の分と重ねて。
そしてまた会えたら、今度は俺の願いを聞いてよ。
少しくらい、わがまま言ったっていいよね。
だって、快くいいよって言ってくれるんでしょ?
でも、今度会うときはごめんなんて言わないで、ありがとうって笑ってよ。
その笑顔が、好きなんだ。
昔も、今も、これからもきっとずっと。
それも変わることはないんだ。絶対に。




