結びの神と聖なる夜
あるところに、ひとりの女がいました。
その女は、たいそう男運のない、とても残念な毎日を過ごしていました。
どれほど残念かというと・・・。
「う゛え゛ぇ゛ぇぇ・・・!」
「ちょっと・・・まさか、またなの?」
女の泣き枯れた声に、呆れたように顔をしかめた友人がティッシュを渡しました。
箱ごと渡されたそれを掴むように受け取った女は、じゅびびびび、と鼻をかみます。
その音にまたも顔をしかめた友人は、大きなため息をついて言いました。
「ったくもー・・・千鶴、あんたほんっとに男運なさすぎ。
お互い写メ見て、気に入った同士だったんじゃなかったの?」
「そうだよ、だから昨日まではラブラブだったもん・・・。
それに朋佳だって、先月別れたじゃん・・・」
これまで残念な展開になるたびに、けちょんけちょんに貶されてきた千鶴です。
今回は違うのだと、長年の友人に主張しました。
ところが友人である朋佳は、くわっ、と口を大きく開いて反論します。
「あれは、あたしが振ったの!振られたんじゃなくて!
あんたは付き合って5か月、クリスマス直前に振られたんでしょーが!」
「・・・ふ、ふぇぇぇ・・・っ。
ふ、ふら、振られてないもん・・・!」
ずびずび鼻を啜り、えぐえぐと喉をひくつかせる千鶴は、両手を顔で覆いました。
「デート中にぶつかった女の人を支えたら目が合って、その瞬間ビビっときて。
30分経ったら“彼女のことしか考えられない”って置いていかれただけ!」
記憶を抉り出すような言葉を、朋佳が一刀両断します。
「だからそれを“振られた”って言うんだよ!」
こんなふうに、千鶴はいつだって好きになった男に関して残念なのです。
決して顔やスタイルが、まして性格が原因で振られるわけではないのです。ただ、妙なタイミングで妙なことが起き、相手の男が他の誰かに心底惚れ込んでしまうだけ。
それを総じて、友人の朋佳曰く“男運がない”のだそうで・・・。
ある彼は、デート中にカフェで飲み物を零したところ、慌てておしぼりを持って来たウェイトレスと恋に堕ち。
またある彼はデート中に車で追突され、第一声で怒鳴りつけようとした瞬間に、相手のペーパードライバーの女性と恋に堕ち。
そんなふうに、恋人が自分とのデート中に他の誰かと運命の恋級のひと目惚れをする、という、とにもかくにも残念な女なのです。千鶴は。
この残念さは、ある種神がかっているといえるでしょう。
さらに今回はクリスマスイヴまであと少し、という時になって、いつものような展開に見舞われたのですから、本当に残念無念。
あまりに落ち込むものですから、友人の朋佳も今日ばかりは、いつもほどの毒を吐くことが出来ませんでした。
まだ昼間だというのに、今日は街の至る所でイルミネーションが輝き、弾むようなBGMが流れています。
声を張り上げて、箱に入れられたデコレーションケーキを売る、よれよれのサンタに変装したコンビニバイトのお兄さんも見かけます。
そう、ついにクリスマスイヴがやって来たのです。
「はぁぁ・・・」
体の中から憂鬱を追い出すように、千鶴はため息をつきました。
白く濁った息が、ふわりと空に昇っていきます。
前日の夜、神様に「明日雨が降りますように」などと腹黒いお願いをしたせいなのか、今日は空気が澄んだ小春日和になりました。恋人達が手を繋いで夜遅くまで出歩くのに、とても良い天気です。
(また今年もアパートで、ぼっちクリスマスかぁ。
・・・こんなんなら、夜もバイト入れとけば良かったのにな・・・)
そんなことを今さらぼやいても、るんるん気分でバイトをお休みにしてもらったのは自分なのです。
長年の友人、朋佳は彼と別れてから急いでバイトを詰め込んだようなので、今日は千鶴に構っている場合ではありませんし。
小さなサンタとトナカイが鎮座しているケーキを横目に、千鶴はまたため息を放り出し、人の流れに沿って歩き出しました。
千鶴のアパートは、住宅街の中にあります。遊びに出掛けることを考えると駅から近い方が良かったのですが、離れた場所の方が家賃が安くあがるからです。
大学へは自転車通学、雨の日は大通りを走るバスに乗ります。
駅前のドーナツ屋でバイトに没頭した千鶴は、小春日和の街を歩いて、アパートに帰るところでした。
・・・ちなみに、先日の失恋のショックから鬼気迫る勢いで接客に没頭したところ、バイト仲間や店長から、「ちょっと怖い」と思われていたことは、千鶴本人の知るところではありません。
タイムカードを打ちこんだら、やけに優しい笑顔の店長にドーナツを持たされた理由も、まったくもって見当がつかないままです。
そんな残念な千鶴は、家々の窓や屋根、ベランダまでクリスマス仕様になっていることに気が付きました。
いろんな場所に、サンタやトナカイ、ツリーが飾ってあります。それこそ、ご近所さん同士が競っているかのように。
自分でも呆れるほど振られたことに参っている千鶴は、思わず顔をしかめました。
みんながクリスマスを楽しく過ごしているのかと思うと、なんだか自分が惨めな気持ちになってきます。
小春日和の陽気すら、昨日あれだけ自分が願ったのに・・・と、恨みがましく思えてきてしまうのでした。
今回ばかりは、普段温厚で感情の起伏も激しくはない千鶴も、世の中に自分と同じような境遇の人間がいることに思いを馳せて、元気を出す余裕もないのでしょう。
(もうやだ。早く帰ろ・・・)
いくらか速足になった千鶴は、ふと、赤い鳥居が目について立ち止まりました。
こんなところに鳥居など、あったでしょうか。
(神社・・・)
古びて、朱色がくすんでいます。
なんとはなしに気になった千鶴は、鳥居の先をそっと窺いました。
大人がくぐって通れる程の鳥居が、いくつか連なって、まるで千鶴を奥へ奥へと誘っているように感じられます。
(別に、用事もないもんね。
ちょっと寄り道して帰ったって、待ってる人がいるわけじゃないし)
その朱色の道の先が気になった千鶴は、自分にちょっと捻くれた理由づけをして、一歩踏み出しました。
木枯らしが、ぴゅーっと吹いてきて、千鶴の背中を押します。
まるで、心変わりが起きないうちに、誘い込んでしまおうとしているかのように。
かさり、くしゃり。
吹き付けてくる寒さに首を竦め落ち葉を踏みながら、いくつか鳥居をくぐって先へと進んだ千鶴の目の前に、神社の境内が現れました。
鳥居と一緒で、こちらも少し古びているようです。
賽銭箱の上にぶら下がる、大きな鈴にも鈴緒にも年季が入っています。
(・・・さびれてるなぁ。神主さんも巫女さんもいないみたいだし)
何があるんだろう、という純粋な興味でやって来た千鶴は、肩を落として息を吐きました。
なんとなくですが、“何かある”ような気がしていたのです。
(なんとなく来ちゃったけど、こんなとこにも神様っているのかなぁ・・・?)
その時、木枯らしが吹きつけました。
「さむ・・・っ」
足踏みして刹那の寒さをやり過ごした千鶴は、賽銭箱の前に急ぎます。
(・・・まあでも、このまま帰るのもなんかアレだし。
10円くらいは、お賽銭入れてってあげよ)
銅で出来た硬貨ですが、今の千鶴にとってはなけなしの現金です。
本当は今すぐ回れ右をして、この誰もいない境内から出て行きたい気持ちでいっぱいなのですが、そこでパッと踵を返して走りだすことが出来ないのが千鶴なのでした。
せめて10円を入れて、神様にご挨拶をして帰ろう。でなければ、この鬱々としたクリスマスに拍車がかかるかも知れない・・・そんな気持ちになるのです。
鞄の中から財布を取り出した千鶴は、手袋を外して小銭入れを開けました。
「・・・う・・・」
思わず呻きました。
なぜなら、そこには5円玉と500円玉しか、入っていなかったのです。
さすがに500円玉をお賽銭に遣うのは、気が引けます。
「なんてこった・・・」
千鶴は、5円玉を摘まみ上げ、穴を覗き込みました。
すると、ふとある考えが頭の中に浮かびます。
(そう・・・そうだよね。
“ご縁”がありますように。今一番、神様にお願いしたいことじゃん)
もっともらしい理由を心の中で唱えて、千鶴は手にした5円玉を賽銭箱に投げ込みました。
鈴緒を揺らして、からんからん、と音を鳴らしてから、拍手を2回。
目を閉じて願ったのは・・・。
「来年こそは、良いご縁がありますように」
あと10日もしないでやってくる新しい年に思いを馳せた千鶴は、小さな声で呟きました。
初めて恋をしてから繰り返している、呪文のような言葉です。
(神様、目移りしないひと紹介して下さい)
神頼みも、何度も繰り返すとだんだんと図々しくなるのでしょうか。
千鶴は心の中で念じて、そっと目を開けました。
その時です。
「貴女が、お参りして下さってたんですね」
眼鏡をかけた神主姿の男が、千鶴の背後に佇んでいました。
「え、あの・・・っ」
突然現れた神主に、千鶴は驚いて言葉を失いました。
びっくりして、心臓がドキドキしています。
思わず胸を押さえた千鶴を見て、神主が笑みを浮かべました。
「何を、お願いしていたんですか?」
千鶴を驚かせたことを悪びれる様子もなく、神主は小首を傾げます。
若いようでもあるし、かと思えば目じりには皺が見てとれます。
不思議な雰囲気の神主に、千鶴は慌てて両手を振って言いました。
「いえあの、全然たいしたことじゃないです。
・・・お賽銭も、5円玉にしちゃいましたし。ごめんなさい」
早口で捲し立て、千鶴は鳥居のある方向へ駆けだします。
けれど、神主がそれを止めました。
「金額は気になさらず。
・・・おや、そうですか。縁結びのお願いでしたか」
「き、聞いてたんですか」
「あ、すみません。
・・・聴こえてしまいました」
千鶴が恥ずかしさに俯くと、神主の瞳が眼鏡の奥で微笑みました。
木枯らしが、2人の足元に落ち葉を運んできます。
「・・・ふむ・・・」
そう声を零すと、神主は何やら興味深そうに千鶴の顔を覗き込みました。
「あ、あの?」
(不思議だけど、ちょっと格好良いかも・・・)
どぎまぎしつつも、千鶴は体を少し引いて尋ねます。
思わず一歩退いた足が、落ち葉を踏んで音を立てました。
「・・・私、帰りま」
「なるほどそうですか。
貴女、縁結びの神様に憑かれてるんですね」
突然すぎる宣言に、千鶴は言葉を失いました。
(あああああぶないひとだった!)
混乱する頭の中で叫ぶ千鶴をよそに、眼鏡の神主はため息混じりに言います。
「よっぽど居心地が良いのでしょうけど・・・。
貴女の方は、異性のご縁がことごとく打ち砕かれた、そんなところですか。
貴女が好意を寄せると、その相手は結びつくべき縁に出逢うみたいですね」
「えっ?!」
逃げ出すタイミングを探っていた千鶴は、前触れもなく自分が舐めてきた辛酸を言い当てられたことに、驚きの声を上げました。
目を見開いて口を手で覆った千鶴の驚きように、神主が苦笑を浮かべます。
「そんなに驚かなくても・・・」
「ど、どどどどどどうして?!
どうして分かるんですか?!」
千鶴が叫ぶように言うと、神主は困ったように微笑んで小首を傾げました。
「うーん・・・実は私、ここに祀られてる神様なんですよねぇ」
「嘘ですよね?!
さすがにそんなこと、あるわけ、」
咄嗟に神主の言葉を否定した瞬間。
ぼぅっ・・・
千鶴の目の前に、青い焔が現れました。
チラチラと燃える焔は、千鶴の鼻先でゆらゆら揺れたかと思えば、すーっと神主の手のひらの上に移動します。
ガチガチガチ、と千鶴の奥歯が音を立てました。
恐怖が、喉の奥からせり上がってくるようです。
かろうじて悲鳴を上げるのだけは堪えた千鶴でしたが、腰が抜けて、落ち葉の広がる地面に尻もちをついてしまいました。
鈍い痛みが、頭のてっぺんから抜けていきます。
「おやおや、ずいぶんと危なっかしいですね」
青い焔を吹き消した神主が、動けない千鶴に近寄りました。
思わず、ひっ、と息を吸い込んだ千鶴は身を捩ろうとして・・・見てしまったのです。
「・・・あ、」
神主の足が、落ち葉を踏んでいないことに。
そう、自分を神様だとのたまった神主は、地面からほんの数ミリ、浮いていたのです。
そのことに気づいた瞬間、驚きと恐怖の限界に達した千鶴は、とうとう気を失ってしまいました。
背中や腰が、ぎりぎりと軋んで、千鶴はふと目を覚ましました。
そして、ぼんやりとした頭を働かせて、やっと、自分が畳みの上に寝かされていることに気づきました。
「う、いたた・・・」
体を起こして、お尻に痛みが走りました。
ずきん、と鈍く広がった痛みに、思わず顔をしかめます。
(そっか、尻もちついて・・・)
そして、何があったのかを思い出しました。
(やばい!)
脳裏を、青い焔と地面から浮いている神主がよぎります。
(逃げなきゃ!)
頭の中を恐怖で支配された千鶴は、そばに転がっていた荷物をかき集めて立ち上がりました。
その時です。
「あれ、もう帰っちゃうんですか?」
きょとん、と小首を傾げた神主が、突然千鶴の目の前に現れました。
「うっわぁ?!」
瞬間移動ともいえるような現れ方に驚いて、千鶴が腰から崩れ落ちます。
神主は咄嗟にそんな千鶴の腰を受け止めて、支えました。
「・・・おっと。
まだ休んでいた方がいいと思いますよ。
・・・怪我をさせておいて、私が言うのもおかしいですけど」
自分を気遣う言葉に、千鶴はおとなしく頷きました。
神主のことを化け物のように思って取り乱して、なんだか少し申し訳ない気持ちになったのです。
千鶴を支えて座らせた神主は、ぽん、と手を叩きました。
「・・・そうでした。
お客様には、お茶を出すのが人間の礼儀でしたよね」
ずいぶんコミカルな動きに、張り詰めていた千鶴の気も緩みます。
神主は、強張っていた千鶴の頬が少し緩んだことには気づかずに、踵を返しました。
そうして案内されたのは、小さな炬燵のある部屋でした。
テレビはなく、しん、としています。
「すみませんね、突拍子もないことを言ってしまって」
緑茶を差し出しながら、神主は言いました。
千鶴は、小さく首を振りながら、温かい湯呑を受け取ります。
そして、両手で湯呑を包むように暖を取りながら、口を開きました。
「いいえ、私も取り乱してすみませんでした・・・。
その、まだ、ちょっと信じられませんけど」
そう言った千鶴の心の中に、恐怖はありません。
危ない人だと思った最初の印象も消えて、なんとなく一緒にいて、しっくりくるような気すらしています。
(なんか、不思議なひと)
本当に自分に乱暴しようとか、そんな危険なことを考えているのなら、気を失っている間にいろいろ出来たはずだと思うのです。
神主がお茶の支度をしている間、千鶴は自分の体に異常がないかどうかも、よくよく観察してみましたし、お財布の中身だって確認しました。
大学の学生証も、運転免許も、ドラッグストアのポイントカードも、しっかりあるべき場所に収まっていました。
気まぐれに足を踏み入れた神社で、不思議な神主とこうしてお茶を啜る・・・。
そんな自分が、千鶴はおかしくて笑みを浮かべました。
おかしいついでに、ちょっとだけ神主を信じてみようかとも思いました。
「・・・あの、神主さんは何の神様なんですか?」
お茶請けのおせんべいを、ぱりん、と齧った神主が答えます。
「学業です。
今はちょっと閑散としちゃってますけどね、もうじき繁忙期なんですよ。
こうやって遊んでられるのも、あとちょっとです」
最近不景気で、くらいの調子に、千鶴は目を瞬かせました。
「遊んでる?」
聞き返せば、神主は笑って言いました。
「こうやって、1日中ひとの形をとっているのは閑散期だけなんです。
繁忙期はちからを節約しないと、ご利益が尽きちゃいますから」
夢物語のような台詞が、電気代の話をしているように聞こえます。
千鶴は、目の前がクラクラしました。
「あ、ちょっと頭がついていけなさそうです。
・・・その、突拍子もなくて・・・」
神主を傷つけないように言葉を選んだつもりで、千鶴は言いました。
すると、神主は笑って頷きます。
「大丈夫ですよ、お気遣いなく。
・・・こうしてお話して下さってるだけで、じゅうぶんです」
それから、2人はいろんな話をしました。
クリスマスのBGMがいっさい聴こえてこない、静かな部屋で。
ずいぶん話し込んでお腹が空いてきた頃、思い出したように千鶴が差し出したドーナツを、神主は「5円玉みたいですね」と笑いました。もちろん、一緒に食べました。
いつの間にか外は暗くなって、神主が部屋の明かりをつけました。
その後も、ずいぶんと話し込みました。
最初に話していたのが何の話題だったのか思い出せないほど、いろんな話になりました。
そして、話し過ぎたことに気づいた千鶴は、時計に視線を走らせました。
「あ・・・」
時計の針は、すでに夜の8時を過ぎています。
(帰らなくちゃ)
予定はないとはいえ、さすがに初対面の男と2人きりでいるのは気が引けてくる時間です。
「すみません、遅くまで。
そろそろ私、失礼しようかな・・・」
楽しさに輝いていた瞳が、わずかに曇りました。
神社を出たら、また、クリスマス一色の現実に戻るのです。
それを思い出して、千鶴の顔はますます曇りました。
せっかく吹き飛んだ憂鬱が、また至る所に転がっているのかと思うと・・・。
「こちらこそ、引き留めてすみません。
・・・あんまり楽しくて、時間が経つのを忘れてました」
微笑んだ神主は、俯いた千鶴に言いました。
「閑散期だということもあるんですけど。
どうしてもこの時期って、神社は肩身が狭いんですよねぇ。
だから、こんなに楽しいクリスマスイヴを過ごせて嬉しくって・・・」
「・・・神主さん・・・」
「菅原です」
思わず呟いた千鶴に、神主は言いました。
「まあその、具体的にいうと本人そのものではないんですが・・・」
「菅原さん・・・」
言われるまま名前を繰り返した千鶴に、神主が頷きます。
「ええ、そう呼んで下さい。
・・・貴女は・・・」
「白山、千鶴です」
すると、神主の目が嬉しそうに細められました。
「・・・いい御名前ですね」
(ほ、褒められた!)
異性から褒められることが、今までにあまりなかった千鶴にとって、それは嬉しいひと言でした。
でも、ひとつ思い出したことがあります。
中学生の頃、テニス部だった千鶴はショートカットで、真っ黒に日焼けしていました。
それを「白山が黒山になってやんの」と男子にからかわれて、思いっきりどついたのです。
しかもその男子がちょっとばかり格好良くて、千鶴が淡い恋心を抱いていたのだから、そのショックといったらありませんでした。
ところが思い切りどついた次の日、その男子は中学で一番可愛いと人気の女子から、手ひどい言葉で扱き下ろされたのです。
それがトラウマで女性が怖い、と聞いたのは、同窓会の席でした。
思えばそれ以来、恋をしても妙なことが起きて失恋してしまうパターンが確立されたようにも思えます。
(・・・やなこと思い出しちゃった)
脳裏に浮かんだ記憶をかき消して、千鶴は言いました。
「ありがとうございます。
私も、楽しかったです・・・その、ちょっと前に彼に振られたばっかりで」
しょぼん、と肩を落とした千鶴を見て、神主がふわりと微笑みます。
「もしよかったら、これからの繁忙期に巫女さんをしていただけませんか?
昨年までは、私のちからで何とかしていたんですけどねぇ。
歳のせいか消耗が激しくて・・・困ったものです。
あの、その、もし気が向い・・・」
言葉の最後を待たずに、千鶴は勢いよく返事をしていました。
かさり、くしゃり
「もー、また落ち葉掃除サボってる・・・」
吐く息の白い午後、スーパーの袋を提げた千鶴は呆れて呟きました。
朱色が少し鮮やかになった鳥居をくぐって、境内へと急ぎます。
辿りついた賽銭箱の前で、千鶴は小さな声で呼びかけました。
「こんにちはー、菅原さーん」
「・・・いらっしゃい」
境内の柱の陰から、ひょっこり顔を出した神主が、千鶴に言います。
「早かったですね」
「うん、急いで来たんだ~」
そう言って、千鶴はスーパーの袋を持ち上げました。
「夕飯、鍋にしましょ。
あとね、これ・・・」
そして、取り出した紙袋を神主に押しつけます。
「はい、今日のお供え物」
すると紙袋を受け取った神主は、嬉しそうに言いました。
「いつもすみませんねぇ。
・・・お茶でも淹れましょうか」
2人は並んで、社務所を兼ねた神主の自宅へと向かいます。
「あ、今日はコーヒーがいい」
「残念ながら、牛乳がきれてます」
「だと思って買ってきました」
「・・・さすがですね、千鶴さん。
でもこれは知らないでしょう?
貴女の置いていったプリン、いただいてしまいました」
「だと思って、買ってきました。
・・・謝って下さい、菅原さん」
「ご、ごめんなさい」
「あとね、落ち葉掃除サボっちゃダメですよ。
お茶したら一緒に頑張りましょう」
「・・・ハイ」
「それからね、菅原さん。
お賽銭の金額でご利益に差をつけちゃダメですよ」
2人の通った場所を木枯らしが吹いて、落ち葉が円を描くように舞いました。