第二十話
旧見張り台。
青々とした空が広がるそこで、武は、ウィンとエンとともに、地平線を眺めていた。
朝露に石積みは濡れてはいるが、剣だこのできた大きな手を置くには十分のスペースがある。頼もしい展望台を吹き抜ける風は優しく、心地よい。地平線が続く大地。しかし実のところ、この国は山に囲まれており、天然の要塞であることも武はよく知っていた。立てかけていた足元のマスクがカラリと倒れた。
その環境に慢心せずに厚い外壁でぐるりと町全体を囲まれたヨゴバマは、かつて、魔族の城だった。プランコとともに攻め落とした城だ。人のための尊き土地。けれども魔族領の実態も知っている武からすれば、魔物や魔族が闊歩していた昔と今との違いは人間と家畜が得意な顔で町を歩いているほどしかない。
目を凝らせば、露天商の男が値切ろうと交渉する旅人を口先三寸でぼったくりを働いていることが武には見えてしまう。視線を移すと、町の外壁に背をもたれた汚い乞食が徒労を組んで露天商の食べ物を盗む計画を立てている。親族なのか、さらに横では咳き込む女もいる。一方で、大きな屋敷も存在する。それは城に近づけば近づくほど顕著になる。屋敷には裕福そうな若い男が商人と話し込んでいる。奥様方が井戸に集まり、会議に花を咲かせている。パンを麦わらカバンに突っ込んで歩く貴婦人はボディーガードを連れている。ミルク売りは笑顔で樽からミルクを少女に渡し、靴屋は仕事を熱心に見つめてくる少年の姿に戸惑っている。
人と魔族の違いは、力の大きさでしかない。ときには身体の大きさも違ったりするが、そんなことは些細なことだと武は考えている。また、家畜と魔物にしたって同じだ。人間の魔物が家畜。魔族の家畜が魔物。しかしそれを知る人も魔族も少ない。
雲が流れている。日陰を作り、日向を作る。そして、日陰を作る。
魔族や魔物のことを差し引いても、こうした風景は日本ではまずお目にかかれない。
ヨゴバマにいるんだな、とハッキリと思わせられる。
「お主はよくやった。無茶な注文した我が悪い。すまなかった」
ウィンが慰めてくれる。
だけれども、それは違う。子どもの前で力んでしまったことは事実だ。
少し前のことだ。みんなの前でちょっとだけ武はやりすぎてしまい、訓練場の隅で待機を言われた。けれども一人だけ何もしないのも居心地悪い。だが手伝いでもしようにも力加減が難しすぎる。有り余る力はストレスだ。少し風に当たろうと、このいつもの場所に来たのであった。
「親父って、なんなんだろうな」
意識が変わると風景も変わる。
瞳はヨゴバマを向いているはずだが、見えるものは日本の台所となった。
誰もいない台所。誰が買ったのかもわからない花を咲かせたサボテン。たまに出会えば、誰のものかわからない着信履歴をお互いに罵る両親。主食はコンビニ弁当。実家という言葉に覚える違和感。閉塞感。孤独感。
「僕は精霊だからわからない。けど、タケシが父親であろうと努力したことは伝わったよ」
けれどもここには息子がいた。自分自身の子どもだ。親父になったのだ。
子どもとはこんなにも小さいものなのか。触れたら壊れそうで恐ろしかった。無邪気に生を訴えてくる小さな手が恐ろしかった。歩く度に転びそうでハラハラした。そして嬉しかった。なぜかはわからないけれど、武は嬉しかった。落としてしまったらどうしようと思ってしまい、抱きかかえることはできない。すぐに泣いてしまってどうしていいかわからなくてこっちまで泣きたくなってくる。でも、武は嬉しかった。触れたくなる自分がいた。頭をなでたくなる自分がいた。手を繋ぎたくなる自分がいた。
「考えてないようで、お主はよく考えているからなぁ」
小さな、小さな男の子だった。
シータ。武の名前から名付けられたという。黒い髪に黒い瞳。好奇心旺盛で、活発的。よく笑い、よく泣く。魔王退治のお話が好きだということに気恥ずかしさを覚える。出会って24時間も経っていない、なのに心が揺さぶられる小さくて大きな存在。
武は驚いてばかりだった。
小さな子どもにも。こんなにも大きな子どもがおなかの中にいて、そして産んだビューテにも。
かつて自分自身もそうだったのだ。それが、親父だ。
「今、初めて親父とお袋のことがすごいと感じたよ」
ヨゴバマの朝は気持ちがいい。
日本でも同じように、こんな朝を迎えたことがあるだろうか。
覚えていないだけで、あるのかもしれない。
「タケシ様ッ! こちらにいらっしゃるのですか!?」
突然、背後から気配を感じた。
振り返ると、玉汗の浮いた綺麗な顔が二つあった。ビューテとシータだ。
「いなくなられておりましたので……」
あぁ、そうか。
俺は不安にさせてしまったのか……。気をつけないとな。
ココは、武にとって暖かい世界だ。優しく、包まれる居場所。自ら掴み取った、大切な故郷だ。
白い仮面の朝露が、重力に従って、ゆっくりと線を描いた。




