四
多少の性描写有。
丸窓から入る淡い光に、白い肌と寝間着が暗闇で仄かに光って見える。
お誂え向きに満月で、赤く染まった頬も、僅かに潤んだ目も良く分かった。
いい日だ、と満足しながら細い肩を引き寄せて問う。
「緊張していますか」
「……少し……いえ、かなり」
素直にそう言って、顔を逸らす。いつも周りの温度など知らぬような涼しげな様子なのに、今は白い手に汗が滲んでいる。
汗ばんだ左手で彼女の右手を握ったまま、右手を背中に回して抱き締める。私の体温の低さのせいか、それとも別の理由か、華奢な体はとても熱い。
「百年かからなくて良かったです」
「だから、それ、何の事ですか……」
「本の話です」
「読むんですか? ……ああ、もしかして、この前の。あれは別に恋人でもなんでもない、夢の中に出てきた他人ですけどね」
「そうなんですか?」
あれだけしか読んでいないので、知らなかった。
というか彼女が持って来た本は多すぎて、探そうと思っても私には無理だろう。
「全部で十夜ありますが、それは第一夜の話です。私は第五夜が好きですね」
「どういった話ですか?」
「戦に負けた男の話です。最期に愛した女に会いたいと言うのですが、女は会いに行く途中で天探女の鳴き真似に騙されて亡くなってしまう。あくまで夢の話という前提ですが、悲恋ですね」
「……そうですね」
「なんとなく、間の抜けた感じと、恨みがましさがなんとも……」
生き生きと語っていた撫子は、あ、と口を閉じる。
「何ですか?」
「……っそ、その、……なんというか……薄みたいだと」
今度こそ真っ赤になった撫子を見て、息が止まった。
一応動いている心臓まで止まった気がする。
色々と馬鹿にされている気もしたが、そんなことはもう、気にならなかった。
「んっ……!」
艶やかな髪を顔の脇に寄せて、色づいた唇に自らのものを重ねる。
逃げようとする頭の後ろを手で押さえてますます深めると、ゆっくりとその体から力が抜けていき、抵抗が緩む。ああ、とても甘い。
唇を離し、首を支えたままそっと枕の上に頭を載せる。
無意識に唇を擦ろうとした手を掴み、指を絡めて布団に押し付けた。
何故人間でなければいけないのかと思っていたが、確かにこちらの方が触れ合える面積が広くていい。そもそも骨のままではこういう事は不可能だ。
吸い付くような肌と肌に、そう納得した。
「……っ!?」
目が覚めると、撫子も起きたばかりという様子で目を見開いていた。
何故驚いているのか、と思ったら体が骨に戻っている。
「おはようございます」
「お、おはようございます……あの、寝起きに骨はやめてください。心臓に悪いんです、寝て起きたら白骨死体とか、ちょっと本気で驚きます」
胸を撫で下ろして、はあ、と溜息。少し気だるげな様子がとても色っぽい。
かろうじて纏っているだけといった様子の寝間着の胸元を直し、軽く髪を梳いてやる。少し鬱陶しそうな目で見てくる事すら嬉しくて仕方ない。
「……何ですか」
「自制のためです」
「……もう聞きません」
額に手を当てて溜息を吐き、撫子は再び枕に頭を預けた。
彼女はあまり寝起きが良くない。最初は起きてくるまで待った方か良いのかと思っていたら、本当にいつまでも起きてこない。なので毎朝起こしに行くようになった。
どうも、学校があると目が覚める性質らしい。
「いい目覚ましになりますね」
「やめてください……骨だと、呼吸もしていないから全然動かないし……死んだかと」
「心配してくれたんですか?」
「……そうですよ」
そう言って枕に顔を埋め、長い溜息を吐く。
随分と溜息の多い朝だ、と思いながら抱き起こして頭を撫でた。
「やめてください……眠いんです」
「分かっていますが、寝るなら向こうで寝てくださいね。あと、脱いでください」
「はいっ!?」
口をぱくぱくとさせ、顔が赤く染まる。辛うじて、搾り出すような声で「朝から何を言ってるんですかっ」と早口に言葉を紡いだ。
わざと勘違いさせたが、驚く顔はやはり可愛らしい。
「布団も寝間着も、洗わなければいけませんので」
「……っ、わ、かりました」
動揺しすぎたのか――その場で着替えも用意せずに寝間着を脱ぎ。
彼女は朝から真っ赤になって押入れに篭ったが、私はとても幸せなのであった。
やがて秋になる。溜息の風が巻き上げるのは、緑の葉から赤や黄の葉となり、彼女は読書の秋だといってますます一日中本を読んでいる。少しは構って欲しいが、読書している姿もやはり美しいので、見ていたい。随分私も我侭になったものである。
たまに里に赴いて着物を買うので、そのついでに古本を貰ってくる。そのせいで、家の一室は殆ど書斎のような状態になっていた。
相変わらず、周りの音や温度を置き去りにしたような彼女の世界は、美しい。
時折、楓や銀杏の葉が落ちる音。微かな息遣いの音、本を捲る音――静寂に溶け込むような、僅かな音だけが染み渡り、瞬きの音すら聞こえる気がした。
戯れに、葉の一枚を拾って真上から落としてみる。
「……何をするんですか」
ページの上に落ちた葉を抓み上げ、溜息を吐きながら見上げてくる。
隣に座って寄りかかると、仕方の無い人ですね、とばかりにもう1度溜息。
彼女の溜息には、多様な意味があると最近理解した。
「声に出して、読んでください」
「……はい? ……はあ……」
赤い唇をちろりと舐める舌の艶めかしさ。一時、目が釘付けになる。
「草の花は撫子、唐のはさらなり、大和のもいとめでたし――」
耳に心地よい、高すぎず低くもない声。滑らかに紡がれていくのは、多分古い話だろう。生憎、あまり学は無い。
さらりと髪が肩に擦れる音、時折挟まれる息継ぎの音、そして透明な彼女の声。全てが耳に心地よく、心に未だ凝っていた怨念が晴れていくのを感じる。
ああ、私はもう、あの暗いものを忘れてもいいのだ。
「……あわれと思うべけれ。あの、聞いてるんですか」
「んん……? 撫子の声を聞いていました」
「話は聞いていない訳ですね。自分で言っておいて……」
撫子は、僅かに黄ばんだ古書を指で撫でると、そのあたりに落ちていた葉を拾って挟む。
そして本を横に丁寧に置いて、言う。
「清少納言は、どうもお気に召さないようですが」
そしてちらりとこちらを見て、僅かに頬を染めた。
「私は、薄もいいと思います」
秋の風に消え入りそうな言葉に、思わず彼女を抱き寄せるのであった。
枕草子より引用。
清少納言は「ススキって最初はいいよ。いいけどね? でも秋の終わりになると花は散るけど、ススキはいつまでも過去の栄光にしがみ付いて白髪頭でフラフラして格好悪いのよね。昔の事ばっかり言ってる老人みたいで」(意訳)
とか言ってます。ススキに何か怨みでもあるのか……