三
一部に拒食症の描写があります。
あくまで昔語りのような感じですが、苦手な方はご注意ください。
「12時間、経ちました」
「……はい」
満足げに微笑む薄を前に、私は軽く呆然としていた。
「これで……いいです、よね?」
「そうですね……勿論、構いません、が」
思わず歯切れも悪くなる。
――どうして。
「では、撫子」
「はい」
「結婚してください」
あれだけ苦労していたのに、あっさりと達成したのだろうか。
後ろ手に開かれた寝室への襖、その中にご丁寧にも用意された布団――2つ並んだ枕を見ながら、私は気の遠くなる思いで頷いた。
午前5時から、午後5時までの12時間。
お誂え向きに、時刻は夕方。いつもの卓袱台で、今日は私が給仕をした。
お嫁さんなのだから覚えてください、とのことである。
自慢ではないが、私は家庭科の成績はそう高くない。裁縫は得意(ブックカバーを手縫いしていたら上達した)だし、お菓子も作れる(小説の中に出ていたレシピを試していたら上達した)のだが、和風料理となるととんと駄目である。人並みよりやや下を低空飛行していた。
「いただきます」
手を合わせ、相変わらず何故か私の方に寄せられた揚げ物を押し返す所から始める。
この骨男、自分を棚に上げて私を痩せすぎだと言うのである。
確かに太っているとも言いにくいとは思うが、薄ほどガリガリではないだろうと思う。
「撫子、肉も食べなさい」
「薄こそ食べてください」
毎日、この繰り返しである。2人とも野菜と魚類(しかも脂の少ないもの)を好み、肉はさほどでなく、米もおかわりなどした例が無い。
兎にも角にも、2人とも少食だ。エンゲル係数は相当低いに違いない。
「……結婚するというのであれば、抱き合ったりもするのでしょう。そんな骨同然の体だと、いつ折れるのかと心配になります。だから食べてください」
「抱き合うだけに留める気はありませんが」
餌で吊ろうとしたら、思い切りカウンターが飛んできた。顔が熱くなるのを感じながら、平静を装って野沢菜漬けを箸で取り、口に運ぶ。平静、平静、平静……ああもう。
「私としても同感です。ですから、食べてください」
熱を逃がすように溜息を吐き、箸を伸ばす。1番小さな切れを取り、嫌々口に入れた。
完膚なきまでの負け戦である。……しかし、こうして問答していると、思い出す。
「……以前、薄着で抱き締められると肋骨が当たって痛い程、痩せた人が居ました」
骨と皮だけのようになり、今の薄以上に痩せ細っていたように思う。
見ていて痛々しい程で、触れる手の感触も骨のようだった。
「え……? ……え、う、浮気ですか?」
「以前、と言っているでしょう。それに、女性です」
慌てた様子の薄を窘める。全く、そこは気にする所ではない。
かつては、私のへたくそな料理を食べてくれていた人。
代わりに、彼女の拙い絵を見ては尤もらしく論評を述べたりもした。
「拒食症、という病を知っていますか」
「いえ……最近の病気ですか?」
「そうですね。まあ、存在自体はずっと昔からあったようです。それこそ、源氏物語で描かれる程だそうですし。ですが、社会的に問題となったのは現代です」
正しくは神経性無食欲症と言うが、そこは省いてもいいだろう。
掻い摘んで説明すると、なるほど、と興味深げに薄は頷いた。
「背は私より高いのに、体重は私より随分低かったですね。体もなんだか冷たくて、いつも腹痛に悩まされていましたし。骨まで細くなるし、何を食べても吐くんです」
「……それは……とても見ていられませんね」
「そうでしょう。そうなる前は寧ろ、太り気味の子だったんです」
人懐っこく、人に抱きつくのが好きな少女だった。
けれどそうなってからは、抱きついたその腕が折れてしまわないかと心配になるほどで。
「彼女が亡くなったのは、もう5年も前です」
もう、5年にもなるのか、と懐かしく思う。
薄は暫く黙り込んで、わかりました、と意気消沈したような顔で箸を伸ばす。
少し小さい一切れを、これまた嫌そうな顔で口に入れた。
どうやらこの戦は、引き分けとなったようだ。
丸窓の障子から入る光で輝く、真新しい寝間着の白さに心がざわついた。
明らかに上質な、絹の白生地で作られた浴衣のようなそれ。時代劇で昔の人が寝る時に着るような、あれである。どうしろと。三つ指付けばいいのか。
非常に、気恥ずかしい。そして緊張してきた。
「撫子、大丈夫ですか? 1人で百面相して」
「……正常です」
煩いほどに鳴っている胸を掌で押さえながら、私はゆっくりと顔を上げる。
平静を装えているかどうかは、少し……いや、大分自信が無かった。
拒食症の症状についてはにわか知識ですすいません!
肉の押し付け合い。でもいくら食べても両方太らない体質。
シリーズの他の話を読んだ方はお分かりかと思いますが、妖怪社会は結婚=初夜です。特に式とかは必要ではないです。
ちなみに今更ですが拉致はならわしでも何でもないです。何故か恒例行事になっているだけです。