一
拍手に掲載していたものを手直ししています。
内容は殆ど変わっていません。
小話も追加しております。六話目からになってます。
R15となっておりますが、性描写はかなり薄め……です。多分。
ではどうぞ。
骨のような――ではなく、骨そのものの手が私の頬に触れる。
眉を顰めると、思い出したようにその手が肉と滑らかな肌に覆われ、ひんやりしたそれが頬を通り過ぎて首筋までをゆるりと撫でていく。
「撫子……いつになったら、いいのですか?」
物憂げに目を細めたのは、長すぎる睫が頬に影を落とすような人外の美貌を持つ男。
というより本当に人外である。
死人じみた肌の白さや、伸びた白髪と対照的に、普通ならありえない程に黒い瞳。木の洞、あるいは井戸の底を思わせる目だ。
「……骨が出なくなったら」
この人――この妖怪は、狂骨の薄という男だ。
どうやら、私を妻にしたいらしい。
女子高生だった私は、読書が好きなくらいしか特徴のない女だった。読書が好きだから図書委員で。現国古典漢文全て得意、英語もそこそこ。更に言えば、将来の夢は司書。
友人は少ないが、それなりに浅く薄い付き合いはあり、人間関係に苦労した記憶もない。
とにかく本さえ読めればそれでいいと、思っていた。
さて、私の住む町の端に、朽ち掛けたような家――要するに廃墟がある。林の側にあるその家は、どこか異界じみた雰囲気があり、他の人が怖がって近づかないのをいいことに、小さい頃から本とお菓子なんかを持って1人で居座ったものだ。
その裏手には、枯れた井戸がある。――その井戸には近づいてはいけないと、大人たちは言う。その井戸には悪霊が居るのだと、町の老人たちが笑う。枯れ井戸など危険だからそう脅したのだと今なら分かるが、恐れ知らずの子供も近づかないような不気味な場所だった。
けれど私はその日、何故なのか無謀にも近づいてしまった。というより、吸い寄せられたような感じであったように記憶している。
井戸の前に立つ。その深淵を覗き込むと、眩暈がした。このまま落ちたら、きっと誰も助けにこない。もし何かあって自殺するような羽目になったらここに来ようか、と思ったところだった。
井戸から不意に白い影が出てきたのである。
それは、死体だった。完膚なきまでに死体のように見えた。
白い衣のように垂れ下がる髪、落ち窪んだ眼窩、そして体を構成する筈の肉が1つも存在しない、渇いた亡骸。
殺される。呪われる。祟られる――とにかくあらゆる種類の恐怖が駆け巡り、顔を引き攣らせ腰を抜かした私の前で彼はこう言ったのである。
「お嬢さん、お怪我はありませんか」
と。
骨は手を差し出し、私はわけも分からないままその手を取る。すると骨はようやく井戸から出て地面に足を付き、紳士というよりどこぞの騎士のような仕草で膝を付いた。
「お会いしたばかりでお恥ずかしいですが、一目惚れしました。妖怪の慣わしとしてあなたを連れ帰りますが、何か取りに帰りたいものはありますか?」
そして手の甲に、口付けられて。色んな意味で衝撃だったが、その物腰に似合わない強引極まりない理論にも仰天した。そして私は思わず、こう答えた。
「……ほ、本を」
妖怪の資料をありったけ掻き集めた私を誰が責められようか。
父よ、今さらだが謝ろう。秘蔵の北斎や石燕の画集を持ち出したのは私だ。娘の棺に入れて焼いたとでも思ってほしい。
拒もうともしたのだが、自慢ではないが私は小心者である。死霊に目を付けられて警察に駆け込む訳にも行かず、しばらく自宅で問答して言い負かされた。
口は上手い方だとと思っていたものの、骸骨の迫力に負けた。
しかしせめて人間の顔をしてくれないと困ると連呼したら、ようやく人間に化けてくれるようになって一安心……では、ない。
「肋骨出てます」
「……すいません」
「いいえ」
長年骨の姿で過ごしてきた所為で、あまり人間の姿が馴染まないらしい。
着流しの胸元から除く白い骨を見て、私は溜息を吐いた。
「どうして骨だといけませんか?」
「……何かの拍子に折れそうで怖いです」
見た目にはとうに慣れたが、怖い。
井戸で死んだというが、死後いったい何年経っているのだろうか。この家……薄の私邸だという日本家屋の布団は、結構ずしりとくる。潰れないかと心配なのだ。
「心配してくれてありがとうございます。でも、そこそこ頑丈ですよ」
資料を鵜呑みにするならば、彼は相当な怨みを抱きながら井戸で死んだ筈だ。
――狂骨は井中の白骨なり。
世の諺に 甚しき事をきやうこつといふも このうらみのはなはなだしきよりいふならん。
いったい何を恨んでいるのか、時折興味が沸くけれど、あまり聞く気にはならない。
「……そうですか」
人の姿になっても骨ばった印象のある指先。細長いだとかすらりとしているだとか、そういう言葉が当てはまらない。痩せ細った、と言うのが正しいだろう。
私よりもずっと脆そうに見えるのに、壊れ物を扱うような手付きで私に触れる。
「撫子……本当に細いですね。もう少し食べなければ」
「あなたにだけは言われたくありません」
たまに母親っぽい言動になるのはやめてほしいけれど、骨でも受け入れられる程度には、私は彼のことを好いているのかもしれないな、と思った。
――私が生まれたのはいつのことだっただろう。死んだのは、いつのことだっただろう。
それすらも思い出せぬほど永い時が経った。最早死の経緯も覚えてはいないし、ただ幽かにあの地獄のような怨みだけが残っている。――だがそれも、もう消えてなくなりそうなほど、今が幸せでたまらない。
撫子は腰まで伸ばした黒髪の、まさしく大和撫子と言うに相応しい少女だ。力を入れれば折れてしまいそうな細腕なのに、芯の通った性格が好ましい。
話には聞いていたが、人間の女性というものは確かにいいな、と思った。
あの日私は、井戸の底で湧き上がる怨念を押し止めながら蹲って1月ほど経っていた。
こうしなければ、暴れてしまうから。
私が死に、そして生まれた日からけして消えないと思っていたその感情。
ふとそれが晴れるのに気づいたのは、見上げた円形の空にどこか無防備な顔が覗いたその瞬間であった。
こちらに向かって垂れてくる黒髪。陰の掛かった顔は、僅かに光の当たる部分を見る限りとても白い肌をしていて、唇は瑞々しく、目は少し釣り目だがきつそうな印象はない。
憎悪や怨念と入れ替わりに湧きあがったのは、強い衝動。
もうその日のうちに、連れ帰っていた。
いつか使えと与えられ、1度も行かなかった家に。
白い指がはらりとページを捲る。私には読めない異国の本には、所々綺麗な絵が書かれている。彼女のために里で買ってきた藤色の着物姿で柱に凭れかかり、時折脚を動かしたり、指先で目の下を拭ったり、唇を小さく開けて溜息を吐いたりする。
そこには小さな世界があった。
溜息が風となったように庭の笹が揺れてさらさらと音を立てる。ふと彼女は顔を上げて、竹林から飛んできたらしい葉が飛んでいくのを目で追い、最後にこちらを見た。
「薄」
今の今まで気づいていなかったらしい。目を細め、本に栞を挟んでぱたんと閉じる。笑顔を安売りしないところも、とても好みだ。
あんなに四六時中本を読んでいるのに、声を掛けるとすぐ自分だけ見てくれるのが、たまらなく嬉しい。子供染みているとは思うが、彼女の中で上位にあれる事に歓喜を感じる。
「撫子」
なかなか正式に妻とすることは許してもらえない。骨が出ないようになるのはいつになるだろう。しかし、もう遠くはない未来。
でも、今は。
「ご飯にしましょう」
触っただけで折れそうなその腕に、もう少し肉をつけてほしいと思った。
痩せ型同士が両方折れそうで怖いって思ってたらかわいいなー
そんな感じの発想だった筈。どうしてこうなったのかは不明です。
とにかく雰囲気を重視してみました。