天井の目
『天井の目』
何故かとよく訊ねられるのだが、其の理由を話すとなると、先ず、暫く前の夜の事から話さないといけなくなるのだ。
さて、そろそろ眠ろうかという時分の事だ。
仰向けで布団を胸元まで引き寄せ、確りと寝る体勢を整えて、其れから手を伸ばして枕元の灯りを消すのが、何時もの就寝直前の行動である。
だが、此の日は如何にも勝手が違った。
横になったは良いが、手を伸ばそうとした所で、私は其れに気付いた。
天井に目が有ったのである。
其れが何であるかを理解するまで、悠々と三分ほどを費やしたのは、私の理解力が足りないからでは無いと、先に弁解しておこう。
目といっても、木目などでは無い。檸檬の様な楕円であり、真中にまあるく黒い瞳孔があり、其の周りは白であった。詰まるところ、人間の様な目だ。薄暗い灯りの中であるのに、人の顔程にも大きい目が、嫌にはっきりと見える。
其れが、此方をじっと見詰めていたのであった。
ところで、書き忘れていた事が一つ有ったので補足しよう。
私は女である。
男の様な言葉を話し書くので、時折勘違いされるのだが、私は女である。
だから、私は其の目に対してこう言った。
「おい、君。
何処の誰かは知らないが、失礼ぢゃあないのか。こんな夜更けに」
其れが目だと理解して、最初に感じたのは苛立ちだった。
こんな夜分に女性の寝床を見て許されるのは、恋仲の男性か育ての親だけと決まっている。
何の断りも無く寝姿を凝視する等、非常識であり、失礼極まり無いではないか。
其れに何より、眠い。眠いのに、如何にも視線が気になって眠れない。見知らぬ相手に凝視されていれば、誰だって然うなる筈だ。
私の声が少し苛立っていたのも、仕方の無い事だろう。
すると目は、戸惑ったように視線を彷徨わせた。幼子が叱られた時の様だ。
「…然ういえば、君、口は何処だ」
目はまたも視線を泳がせた。
返答が無いのを見るに、如何やらこの目に口は無い様子だ。
もう片方の目も、鼻も見当たらない。然し、耳も見当たらないが、何故か声は聞こえている様子だ。何とも謎である。
「口は無いのか」
然う聞いてから、少し考え、言葉を付け加えた。
「肯定なら視線を縦に、否定なら視線を横に動かしてくれ」
数秒ほど置いてから、視線が縦に動いた。成る程、矢張り口は無い様だ。
私は考える。
こうなると、肯定か否定か、何方かで答えられる質問をしなくてはならない。何故其処に居るのか聞きたいところだが、説明するのは不可能だろう。
まあ、仕方が無い。一つずつ地道に聞いていくしか無いだろう。この際、寝るのは後回しだ。
「君は、男性か?」
取り敢えず二番目に聞きたかった事だ。今度は余り間を置かず、目線が縦に移動する。
「ぢゃあ君。先刻も言ったが、こんな夜中に女性の寝所を覗くのは、余り褒められた事では無いよ。
せめて夜中と着替え中は止めなさい」
縦に動く。中々素直な性格の様だ。
「其れと、黙って見ているのも良く無いな。何か相手に知らせる様な手段は持っていないのか?」
何かを考える様に、瞳孔が上方に移動した。口が有ったならば、屹度ううんと唸っているのだろう。
一分程の後、視線が戻り、私を見詰めた。すると、僅かな振動と共に、天井からぱちんぱちんと何かが爆ぜる様な音や、足音の様な音が聞こえ出した。尚、此処は最上階の二階であり、屋根裏部屋は無い。
ううむと私は首を捻る。
「私は君と話しているから解るが、初めての相手には、唯の雑音としか聞こえないかもしれないな。或いは、気のせいだとしか思わないだろう」
視線が下がる。
若しや、落ち込ませて仕舞ったのだろうか。一度然う思うと、其の様子は余りにも気の毒に見えた。
「いや、まあ、其れでも伝えようとする努力が大切だと、私は思うよ、うん」
慌てて私は付け加えた。
視線が戻り、ほっと胸を撫で下ろす。
何処となく子供を相手にしている様な心持ちに成る。所謂、母性本能という物だろうか。其の様な気持ちが湧いて来るのを私は感じていた。
「ところで、今日此処に来たのは、私に何か用事が有っての事か?」
視線は横に。
「ぢゃあ君、私はもう眠いんだ。特に用事が無いなら、もう灯りを消して寝たいんだが、良いかな?」
縦に動いたので、今度こそ、私は灯りに手を伸ばした。
視線も少しは気になるが、何となく慣れてきた。此れなら眠れるだろう。
出来れば目でも瞑って貰えると、一番有り難いんだが。
そこまで考えて、伸ばしていた手がぴたりと止まった。ある事に気付いた為だ。
「…なあ、君。
先刻から一度も瞬きをしていない様だが、目が痛くならないのか?」
そう。天井の目は、最初の最初から、一度も瞬きをしていなかったのだ。
目線が横に動いたので、痛くは無いらしい。
人間の目と一見似ているが、恐らく構造は全く異なるのだろう。
そもそも、彼の瞼に当たる部分は、薄く柔らかな皮膚では無く、硬い木である。瞬きする様に動かせという方が無理であろう。いや、寧ろ動かされても困る。其れで天井に亀裂でも入ったら、修理代は誰に請求すれば良いのだ。
「しかし、ずっと開きっぱなしというのも、余り目の健康に良く無さそうだぞ」
其れに例え埃や虫が入ったとしても、涙を流すことも、手で擦ることも出来無い。
私は何だか、其の目が可哀想に思えてきた。
「せめて天井でなく床の目なら、私が目薬でも注して遣るのだが。気の毒に」
然う言った直後だった。
何の前触れも無く、天井の目は掻き消えた。
目が有った場所は、何の痕跡も無く、何処から如何見ても普通の板張りの天井でしかない。私はきょとんと其処ばかりを凝視していた。
はて、今迄のは眠気の余り見た夢であったかと首を傾げた時だ。直ぐ横から、誰かの足音が聞こえた。
はっとして横を見たが、其処には誰も居ない。次いで、ぱちぱちという音。
若しやと思い上体を起こすと、何と直ぐ側の畳に、先程の目が居るではないか。
「目薬の為に移動したのか?」
黒目が縦に動く。其の目が期待に満ちている様に見えるのは、恐らく私の気の所為ではあるまい。
何と現金な奴だろう。少し呆れて、一つ溜め息を吐いた。
然し、矢張り幼子か、或いは子犬の様で愛らしくもある。
私は薬の入っている棚を開けた。
「ところで、目薬を注した事はあるのか?」
案の定、視線は縦に動いた。
其れは然うだろう。口も手も無いのでは、薬局で目薬を買う事も、自分で目薬を注す事も出来まい。
「ぢゃあ、少し染みるけれど、余り驚いてはいけないよ」
目薬は殆ど使われておらず、たっぷりと点眼液が入っている。
私は蓋を開け、点眼口も捻り取ると、くるりと手首を返し、中身を全て目に向かってぶち撒けた。
其の位しなければ、彼の目には量が少な過ぎるだろうと、然う考えたからだった。
瞬間、部屋が大きく揺れた。
ばちんという、何かが破裂したような騒音。
「………おや?」
震度三程度の揺れが収まった頃、気付くと、目はすっかり消えていた。
床にも、天井にも、壁にも、部屋の何処にも、少なくとも見える限りの場所に、彼の目は居なかった。
部屋は、最初から何も無かったかの様に、しんと静まり返っている。
唯、私の手に在るの空の目薬だけが、此処で何かが起こった、其の名残であった。
「だから、余り驚いてはいけないと、然う言ったのに」
然し、生まれて初めての目薬に、一等強い清涼型は刺激が強すぎたかもしれない。
次は染みない目薬を用意しておいてやろう。
柔らかな布団の中で、今度こそ灯りを消しながら、私はそんな事を考えていた。
詰まり、私が毎月、二度か三度も目薬を買っているのは、然ういう理由なのだ。
おしまい
評価などよろしくお願いします。