天国への移民 :約2500文字 :死後 :天国
そこは天国。空からは黄金がかった光が降り注ぎ、やわらかな風に乗って甘やかな香りがほのかに漂う場所。
澄み切った空の下には美しい泉や色とりどりの花が咲き乱れる庭園が広がり、地上の苦しみとは無縁な静かで満ち足りた時間が流れていた。
――はんたーい!
地上で生を終えた善人たちは、この楽園で穏やかに暮らしながら、残してきた家族や友人との再会を待ち望んでいた。
――はんたーい!
やがて訪れる転生のときまで、静かに心清らかに。ここでは生前に抱えていた悩みも痛みも遠い過去の出来事。誰もが平等に安らぎを享受し、声を荒げることも他人を妬むことも忘れ、常に笑顔で語らい、遊び、ときには何をするでもなく雲を眺める。それが天国の住人にふさわしい暮らし方――。
――はんたーい! はんたーい!
だが、それは少し前までの話。ここ最近の天国は静かに殺気立っていた。
その理由は――。
「反対! 基準引き下げ反対!」
「民度が低くなる!」
「天国を変えないで!」
「現住民ファースト!」
ある日、天使たちから通達があった。天国への入国基準を大幅に引き下げると。
なんでも、善人の基準が高すぎたせいで天国は深刻な人口不足に陥っているという。
その背景には地上の科学技術の発展があった。人々は天国や地獄の存在を信じなくなり、SNSでは平然と他人を傷つけ、嘘を撒き散らし、自己顕示欲を満たすことに夢中になっている。楽に稼ぎたいからと安易に悪の誘いに乗り、罪を犯す者が後を絶たない。これでは新規住民が年々減っていくのも当然だった。
それが天国の運営にどのような支障をきたすのか現住民たちにはわからないが、今回、入国基準の緩和にとどまらず、なんと地獄に落ちた者の中からも一定の基準を満たす者を選び出し、大量に受け入れるというのだ。
この前代未聞の方針に、現住民たちは猛反発した。
今の暮らしで十分に快適なのだ。わざわざ変える必要などない。ましてや、これまで入国を認められなかった人間が大勢やって来るとなれば、風紀の乱れは避けられないだろう。夜ごとに大音量で歌って騒ぎ、庭園でジビエを焼き、泉に小便をし、道の真ん中で祈りを捧げる――そんな光景を想像しただけで、住人たちは身震いした。
神がいい顔をしたいのかどうかは知らないが、そんな都合に付き合わされるのは御免である。人間関係で嫌な思いをするのは生きていた頃だけで十分だった。
住民たちは誰からともなく集まり、抗議の声を上げ始めた。
もっとも、地上のデモ活動に比べれば、ずいぶんとかわいいものである。それも当然。ここで暴言など吐こうものなら、たちまち地獄へ落とされかねない。安住の地をそんな形で失うのは本末転倒、あまりにも馬鹿らしい。
よって、現住民たちはおとなしく、鬱屈とした思いを胸に抱えながら、そこそこの声量で抗議活動に励んでいた。プラカードを掲げ、整然と列を作り、天に向かって訴えかけた。
しかし、そもそもこれは神が決めたこと。そして神が人々の願いを聞き入れてくれた例がこれまで一度でもあっただろうか。結局は地上と同じく、権力者が一度決めたことは覆らず、庶民はただ従うしかないのだ。そんな諦めムードが抗議の輪にもじわじわと漂い始めていた。
それに、「まあまあ、いいじゃないの。みんな仲良くやりましょう」と、今回の方針を歓迎している者も多かった。むしろ、そちらが大半を占めていた。中には地獄に落とされるのを恐れて迎合している者もいたが、現住民はもともと善人である。温和で争いを好まず、目上の言うことに素直に従い、神を信じ、輪を乱さない性分であった。
ただでさえ無力感に打ちひしがれている反対派にとって、そうした歓迎派の楽観的な態度は神経を逆撫でするだけだった。
すれ違いざまに「楽しみですねえ」と声をかけられるたび、反対派は強く拳を握りしめた。相手に悪意がないことはわかっている。しかし、その無邪気な一言が自分たちの不安や危機感を理解する気などないという態度に思えてならなかった。
憎しみは力の源である。対立する存在が近くにあればあるほど怒りは募り、味方が少なければ少ないほど残された者同士の結束は固くなっていく。
こうして天国では少しずつ、しかし確実に住民同士の対立が深まっていった。
「反対! 地獄からの移民反対!」
「地獄の連中は一生地獄にいろ!」
「地獄死ね!」
「天国に来るな!」
抗議の文言は日を追うごとに過激さを増し、それまで遠慮がちに様子を窺っていた移民賛成派もさすがに黙っていられなくなった。
「お前らが天国から出ていけ!」
「ヘイトスピーチやめろ!」
「天国はみんなのもの!」
あんな連中と同類にされては困るし、何も言わずにいれば反対派の主張を黙認したと見なされかねない。そのせいで巻き添えを食らい、自分まで地獄に落とされてはたまったものではない。そんな不安が彼らを行動へと駆り立てていた。
むろん、初めは穏健派も反対派に対して穏やかかつ理知的に説得を試みていた。しかし、反対派から返ってくるのは罵声ばかり。まったく話が通じないことへの苛立ちと反対派の熱気にあおられるうちに、彼らの言葉遣いも徐々に荒くなっていった。
そしてあるとき、ついに争いが起こった。
反対派の一人が、穏健派の頬をぴしゃりとひっぱたいたのである。乾いた音が広場に響き渡り、それまで騒がしかった一帯は一瞬にして静まり返った。そして次の瞬間、怒号が爆発した。
互いに胸を張ってぶつかり合い、手のひらでぱしんと頭を叩き、髪を掴んで引っ張り合う。頬をつねり、尻をひっぱたき、胸倉を掴んで睨み合い――。もともと善人であっただけに、暴力もどこかぎこちない。押し合いへし合い揉み合い、悔しさと悲しさで顔を真っ赤にし、目尻に涙を浮かべながら怒鳴り合って、もはや誰が反対派で誰が穏健派なのか。
そんな不毛な争いはしばらく続いたが、やがて、どこからかすすり泣く声がし始めた。それは一人、また一人と広がっていき、ついには広場にいた全員が声を上げて泣き出した。
「どうしたのー?」
「何かあったのー?」
「どこか痛いのー?」
そのときだった。どこからか大勢の人々がぞろぞろと集まってきた。
彼らは不思議そうに首をかしげ、泣きじゃくる者たちのそばへ歩み寄った。そしてそっと手を握ったり、優しく頭を撫でたりした。おどけて笑わせようとする者もいた。
すると泣き声は次第に収まっていき、やがてあちこちから笑い声が上がり始めた。
「一緒に遊ぼ!」
「……うん!」
天国の現住民と移民たちは、手を取り合って駆け出した。ぐちゃぐちゃに混ざり合い、反対派も穏健派も移民も見分けがつかない。
生前の姿よりもすっかり縮んだ彼らは、その小さな体を弾ませながら、大きくて明るい笑い声を天国中に響かせたのだった。




